第30話「家路」③

『昇自身は、本当は桜とどうしたいと思ってるのかな?』


 それは、自分自身が何度も自問自答してきた問い掛けだった。この二日間殊更にそうだったし、いや今になってちゃんと自分に向き直って思い返せば、芹沢の姿を中学の時や高校で見かける度にその問いは本心の奥の方にあったのかもしれない。


 ほんの些細な日常の中で芹沢の姿を見る度に、あの頃の日々は幻だったんじゃないかと思うことがあった。


 朝、教室に入った時、芹沢が自分の席で何か本を読んでいる姿を見た時。


 学校の廊下を歩いていて、友だちと歩いている芹沢の横をすれ違った時。


 授業の合間の時間で、友だちと楽しそうに談笑している芹沢の姿を見た時。


 授業中、前で黒板を書いている芹沢の後姿を見た時。


 放課後、友だちと一緒に部活に向かう芹沢の横顔を見た時。


 そんな、何でもない日常の芹沢の姿を見るたびに、その芹沢のすぐ隣に俺が居た時があったんだな、なんてことが脳裏を過っていた。


 中学の初めの頃は、その事に寂しさを感じていたんだと思う。


 でも、それがいつからか、自分自身の中で段々と芹沢の方に謂れのない責任転嫁をするようになってしまって、そんな情けない自分に対してどんどん意固地になってしまっていた。


 自分自身の心境の変化への戸惑いに、自分自身が耐えられなかったのかもしれない。


 でも、そんなことに今日までちゃんと気付くことができなかったのだから、俺はやっぱり情けなくてどうしようもなくダサい。


 あの小学校の頃のように戻りたいか、と聞かれるとそれは分からない。


 やはり、俺達は小学校の頃のような無邪気な年齢ではなく、これでも歳を重ねてきた。そうした中で、あの頃に戻りたいというのは、自分の中の答えとしては違う気がしていた。


 それでも、


「…いや、芹沢のことが嫌いになったとか、そういうわけじゃない」


 お前は、そんなことを言っても良いのか?


 俺の中のもう一人の自分が、そんな風に自分を責めてくる。今までだったら、それも自分自身を守るための隠れ蓑にしてどこまでも逃げていたと思う。


 でも、今この時に原田に伝える言葉は、そんな逃げるものではいけないと思った。


「何て言うか、自分の中でも色々整理できてないことが多くて、芹沢のことからも情けなくずっと逃げていたけど」


 だから、はっきりと原田の目を見た。グラつきそうになる自転車を、グッとハンドルを握って真っ直ぐ走らせた。


「今は、ちゃんと改めて芹沢と話ができればいいな、って思ってるよ」


 ストレートに、今素直に思っていることを原田に伝えた。


 原田は、真っ直ぐに俺の方を見ていて、その目が僅かに大きく開いたように見えた。でも、原田は何も言わなかった。


 そこで、急激に顔が熱くなるのを感じた。何を、俺はよりによって原田に向かって、しかも何だか告白をするみたいな感じで宣言しているのか。


「…いや、あれだ、これは何て言うか」


 冷静になればなるほど、今自分が勢いで言った言葉が恥ずかしく思えてきて、どんどん体温が上がっていく。せっかく乾き始めていたシャツが、また冷や汗で滲んでしまう。


「…ぷっ」


 そんな中で、


「あははははは!」


 原田は、堰を切ったように笑い声を爆発させた。


 グラグラと揺れることも気にせず、ハンドルを左右に切って蛇行運転しながら笑い続けた。こちらに近付いてくる度に、「危ねぇ!」とこっちも慌ててハンドルを切ってフラフラしている原田から逃げる。


「あー、笑った。もう、真剣な顔して笑わせに来ないでよ」

「笑わせにいってないわ!」


 ようやく笑いが治まった原田は、目元に浮かんだ涙を拭いながら失礼な物言いだ。確かに恥ずかしくはなったが、一応真剣に言っていたことは確かなので、それを「笑わせにいった」と言われるのは流石に心外だ。


「何だ、昇もそんな風に考えてたんだ」


 原田は、今度はちゃんと微笑みを浮かべながら言った。


「良いんじゃない?じゃあ、私と井川の推測はちゃんと当たってたわけだ」

「……まぁ、今となっては一応そうだけど」


 勝ち誇った表情を浮かべている原田に対して、それをすぐに肯定するのはどこか抵抗がある。


「まぁ、だったら後は簡単じゃない。桜とちゃんと話をするだけじゃん」

「お前、簡単に言うけどな…」


 原田はいとも簡単そうに言うが、そうは言ってもまだ俺にとってそこのハードルの高さは何も変わっていない。むしろ、さっきは少し昔のことも一瞬思い出しておかしくなっていただけだ。


「えっ?何で?だって、さっきは『ちゃんと芹沢と話ができればいいな…キリッ!』って決め顔で言ってたじゃん」

「決め顔言うな!」


 つっこむと、また原田は「あはは!」と笑い声を上げた。本当に、原田にあんなことを言うんじゃなかった。


「俺としても、色々と考える所は多いんだよ。何せ…」

「はいはい、もう大丈夫だから」


 あっさりと俺の会話を遮ると、原田はスーッと少し前へと自転車を走らせた。


「おい、原田、お前どこに…」

「充分笑わせてもらったし、私としてはもう昇と話すこともないから、桜の所に戻ろうかと思って」


 振り向きざま、原田は涼しい顔をしてそんなことを言った。


「とりあえず、そう思ってるんなら後は頑張りなさい。私から何か助け舟を出すつもりは特にないから、間違っても私が桜とあんたを繋ぐキューピッドになってくれるなんて思わないでね」

「思わねぇよ!っていうか、キューピッドって何だ!」


 好き勝手に言う原田にすぐに言い返すが、原田は笑ってまともに取り合おうとしない。そしてそのまま、自転車を加速させていこうとする。


「あっ、原田。悪い、一つだけ」


 そんな原田を引き留める。


 原田は、少し面倒くさそうな顔で振り返った。


「何?」

「いや、お前も気にしてるだろうから余計なお世話かもしれないけど、芹沢の隣に戻るんなら、少し足のこと気に掛けてやってくれ。何となく、さっきの休憩時間で左足を気にしてたみたいに見えたから」


 実際は、素振り自体を見せていたわけではなかったが、流石にほんの一瞬の僅かな表情からそれを感じ取ったから、なんてことは言えない。


 正直、こんなことを原田に頼んでいるのも少し違う気はしたが、あれが思い違いだったとしてもせめて原田だけでも気に掛けておいてほしいと思った。


 原田は、一瞬じっと俺のことを見つめたが、すぐにまた前に向き直りながら、片手を上げて「ほいほーい」と軽いお返事だ。


「おい、原田」

「分かってる。言われなくても、桜のことは必要以上に気を付けているし、いざとなったらちゃんとフォローするから任せといて。というより、そんなことは私に頼むんじゃなくて、直接自分でやったら?」


 痛い所を突かれて、ぐぅの音も出なかった。確かに、原田は海を出発した時から過剰なまでに芹沢に対して気を回していたし、今更俺からそんなことを言うのはむしろ鬱陶しいだろう。


「じゃあ、私本当に桜の所に戻るから、後ろはよろしくねー」


 原田は、振り返ることなくもう一度片手を上げると、ぐんぐん加速していった。


 そうやって通り過ぎていく原田の背中を目で追っていくと、その先に芹沢の背中が見えた。


 しばらく見ない内に、結構前とは距離が離されてしまっていた。というより、疲れているはずなのに思った以上に先頭の健吾と亮のスピードが速いのだろう。


 恐らく、原田と入れ替わりで理久が来ると思うが、振り返った時にあまりに後ろの方にいたら流石に後退してくることになる理久が可哀想だ。


 加速しようと、ペダルに乗せている足に力を込めた。それなのに、なぜか足が震えて上手く足に力が入らなかった。


「あれ?何なんだよ」


 思わず、独り言が漏れた。それでも、足はやはり微かに震えていて、まるでそれ以上力が入ることを拒んでいるかのようだった。


 これは、特に疲れとかのせいではないということは、自分自身が一番よく分かっていた。


 ついさっき、そしてほんの数時間前にも原田や理久の前では格好良いこと言っていたのに、いざ一人きりになるとこれだ。


「本当、情けねぇ…」


 そんな風に呟きながら、もう一度遠くに見える芹沢の背中を見た。


 芹沢の背中は、さっき見た時よりは少し近付いているように見えた。遠く離れてはいないが、それでもそこまでの背中はまだ随分と遠い。


 その背中を見ながら、一つ溜息をついて足に込めていた力を少し緩めた。


---


 太陽も、いよいよ沈み始めていた。


 夕暮れ独特の優しくも強い茜色の光が徐々に弱まっていき、辺り全体がじんわりと滲むような夕焼けの明るさで包まれていた。日が長い、夏らしい長く続く夕暮れの時間も、流石にそろそろ終わりに近付き始めていた。


 ひぐらしが似合う夕暮れの太陽も、今遠くに見える山々の後ろへと沈んでいこうとしている。


 もう、随分長い距離を走ってきていた。海を出発したのは既にもう、随分前のことのように感じられていて、もはや昨日や今朝起きた出来事でさえも遠い昔の想い出のような感覚になっていた。


 あまりに遠いゴールを意識するのが嫌で、ほとんど時計を見ようとはしていなかったが、ほんの少し前に見た時刻は既に夕方六時を回っていた。


 もうそんな時間になっていることに、素直に驚いた。あまり無理はせずに、特に日がまだ高い日中は所々で休憩を入れながら走ってきたが、それでもほぼほぼ走り通しでここまで来ている。ということは、海を出発してから既に四時間以上は走ってきていることになる。


 足は、しばらく前から「痛い」から「痺れ」へと感覚が変わってきていた。


 体力もだいぶ削られている。足の感覚も曖昧になってきた。そんな、今の時点で充分疲労困憊状態にはなっているはずなのに、それでもまだこうやって自転車を漕ぎ続けられていることに、素直に自分の体力に驚かされる。曲がりなりにも、高校三年間運動部に入っていただけのことはあるというわけか。


 ここまで走ってくると、それまでただの同じ田園風景にしか見えてなかった風景の中にも、少しずつ見覚えのあるものが見つけられるようになってきていた。それが、少しずつ、でも確実に地元の町に近付いてきていることを示していた。


 前と離れて走っている時もあったが、今は三列がほぼ縦に並んで走っていた。流石に体力バカ代表の健吾にも、いよいよ疲れが本格的に見え始めたみたいで、これでようやく人並み程度のスピードで先頭を走っている。


 緩やかなスピードの中で戦ぐ風は暖かくはあるものの心地良く、少し空気の中に夜の気配も混じり始めていた。つい先程、シャツを新しいものに着替えたが、汗で重たくなっていない新しいシャツは、驚くくらいに軽くて快適だった。


 誰一人例外なく疲れているのは見て取れたが、それでも少しずつゴールが見えてきたお陰もあってか、皆がペダルを回す足は先程と比べても軽やかに見えた。


 ゴールは間もなく訪れる。恐らく、陽が沈むのと同じくらいにこの旅も終わりを告げるのだろう。


 そのことを意識すると、心臓がトクンとざわつく。見ようとしなくても視界に入ってくる、芹沢の背中が目の前で僅かに揺れていた。


 芹沢は、単なる気にし過ぎだったのだと思えるくらい、何の違和感もなく自転車を走らせ続けていた。時折、隣の芹沢が気に掛けて声を掛けているような様子も見受けられたが、その度に芹沢は手を振って笑っているようだった。


 あの時感じた違和感は、単なる思い過ごしだったんだと安堵が胸の中で落ちた。それと同時に、少し寂しさが訪れた。


 結局、芹沢と話をするタイミングは作れなかった。


 気温が下がってきてくれていたのと、あまり遅くなりすぎると夜になってしまうことから、もうほとんど休憩なしで行ってしまおうという話になった。


 その提案に対して特に反対意見が出ることはなく、二つ返事で皆がそのことを了承した。


 しかしその時、心の中で諦めと安堵が大きく渦巻いた。


 ここまでの道中でも、芹沢と話す機会を作れないかとあれこれ頭の中で考えてみた。だが、浮かんでくるアイディアは、どれもが霞のようにぼんやりとしてあやふやなものばかりだった。


 色んなことを考えてみて、どんな行動を起こすにしても拭い去れない違和感を言い訳に、何もできない時間ばかりが刻一刻と過ぎていった。


 考えるほどに焦りは募っていくけれど、その焦りも心の中で空回りするばかりで、何の進展も生み出すことはなかった。


 このまま、芹沢と話をすることなく、この旅が終わる想像も膨らんでいった。


 頑張って話し掛けに行くことよりも、このまま何もせずに終わる方がよっぽど簡単だ。その楽な方向に、流れて行ってしまいそうな自分がどんどん大きくなっていく。


 やらなきゃ。でもやれない。そのせめぎ合いをずっと繰り返して、でもゴールは間違いなくあと少しの所まで近付いてきていた。


「…おっ、あれは確か!」


 唐突に、前の方から弾んだ声が飛んできた。それは、そんな声を上げるのは珍しい亮の声だった。


「おい、あれ見てみろよ!」


 前の方で亮が何かを指差したみたいで、原田と芹沢が右手の方に顔を向けた。それにつられて、そちらに顔を向けた。


「…あっ」


 思わず、声が漏れた。


 視線を向けた先、少し遠くの方に昨日昼食を取った大きな樹があった。


 樹は、昨日と変わらずだだっ広く広がる草原の中で大きく聳え立っていた。昨日は、葉が風で揺れる度に太陽の光を反射させながら青々と大きく生い茂っていたが、今は夕陽の光を浴びながら穏やかにその葉を揺らしていた。


 その大きな樹は、夏の太陽の下でも雄大で迫力を感じたが、夕陽に照らされたその姿はどこか神々しく、昼間見るものとはまた違う印象を感じた。


 昨日は、あの樹を見つけるなり全力で自転車を漕いで行って、あっという間に着いた印象があったが、今改めて見るとあの樹まではここから結構距離がある。昨日、どれだけのスピードで走ったらあんなに早く着けたんだよ、と昨日の自分たちの元気さに驚かされる。


「うおー、昨日昼飯食べた樹じゃん!懐かしー!」

「懐かしいって、まだ昨日のことだぞ」


 歓声を上げた健吾に、すかさず亮がつっこみを入れた。


「そうよ、まだ懐かしいなんて言うなんて早過ぎる……って言いたいんだけど、遺憾ながら今は吉川の言ってることも何か分かる気がするわ」

「…あの、原田さん。同意頂けたのは大変ありがたいのですが、『遺憾ながら』っていう一言は余計では?」


 原田が苦笑混じりに言うと、健吾は少し後ろを振り返りながら恐る恐る伺いを立てた。


 確かに、健吾の言う通り、まだ昨日のことなのにもう既に「懐かしい」と形容したくなる感覚はよく分かる。


 海を出発してからずっとその感覚はあった。この二日間、基本的には動きっぱなしで常に誰かしらがはしゃいで、体力が続く限り色んなことをやってきた。そんな密度の濃い時間を過ごしているからか、この二日間はギュッと濃密に想い出が凝縮されているようで、見るものやるものが即座に想い出へと転換されていっているような感覚だった。


 この帰り道もそうだ。昨日と全く同じルートを通っているから、見える景色は行きと何ら変わり映えはなかった。そもそも、何もない田園の中を走っているわけだから、そこには新しい発見も新鮮味もなかった。


 そのはずなのに、想い出へと既に変換されているその景色は、何気ないその一つ一つに昨日起きた出来事の記憶が刻み込まれていた。


 今、遠くに見えているあの大きな樹はまさにそうで、あの樹の下でも色んな想い出があった。芹沢と居たたまれない時間を過ごしていたから、良い想い出なのかと言われると何とも言い難いものはあるが。


「本当、懐かしいねー」


 理久が隣でしみじみと言った。


「でも、あの樹が見えたってことは、もうゴールまではあと一時間半ぐらいか?」

「そうね。行きも確かお昼前くらいに到着していたから、そんなもんじゃないかな?」


 亮が言うと、原田がすかさず答えた。


「うおー!ついにここまで来たかー!いよいよだな」


 ゴールがあと少しというのが見えてきて、健吾が歓喜の声を上げた。そして、少し自転車を加速させた。


「おい、体力バカ!言ってもあと一時間以上はまだあるんだから、加速すんな!付いていく俺の身にもなれ!」


 ぐんぐんスピードを上げていこうとする健吾に、亮が抗議の声を上げた。しかし、そんな亮に対して健吾は聞こえていないかのようにスピードを上げていく。


「もう、あのバカ…本当、付いていくこっちの身にもなれっての。ねぇ、桜……って、桜!?」


 突然、原田が大声を上げた。


 同時に、その声を掻き消すかのように、ガシャン!!と何か金属が外れるような音が辺りに響いて、そこに重ねて地面に激突する大きな金属の衝突音が響いた。


 慌てて、耳をつんざく自転車の急ブレーキの音が鋭く鳴り響いた。


「桜、大丈夫!?」


 一瞬、何が起きたのか分からず、咄嗟に理久と同時に急ブレーキを掛けた。


 芹沢が、目の前で自転車ごと倒れたのだ。


「おい、どうした!?」


 前を走っていた健吾と亮も、突然の大きな音に何事かと振り返っていた。


 先程の一瞬、芹沢が大声を上げた直後、目の前で芹沢が思い切り左のペダルを踏み外した。その反動で自転車が大きく傾き、咄嗟に左足を伸ばして支えようとしたようだったが、上手く伸び切らずに芹沢はそのまま自転車ごと横倒しになってしまった。


「芹沢!」

「おい、大丈夫か!」


 亮や健吾が、慌ててこちらに戻ってくるのが見えた。


「……うっ」


 横倒しの状態で、絞り出すように芹沢の口から漏れ出たのは呻き声だった。


「桜!!」


 原田は、すぐに自転車から飛び降りると、芹沢の側にしゃがみ込んだ。しかし、芹沢は自転車に乗ったまま倒れこんだので、他の人が何か手を貸そうにもできない状態だった。現に、原田も咄嗟に手を伸ばそうとしたものの、その状態を見て伸ばした手でただ空を掴むことしかできなかった。


俺達も、その場で自転車を止めて芹沢に駆け寄った。


 芹沢は、痛みのせいかじっと俯いたまま動かなかった。後ろから見ている感じでは、かろうじて左足で支えは作ったもののほとんどそのまま倒れこんだ様子だったので、その痛みはかなりのものだ。


 芹沢の痛みが引くまでは、俺達もじっと静かに見守っているしかなかった。


 時折、小さく呻き声が何度か吐き出され、それをしばらく見守っていると、ようやく芹沢が動きを見せた。


「…いてててて」


 ほんのわずかに顔を上げて、少し倒れた自転車を起こそうという動作を見せた。


「桜、無理はしないで!吉川、ちょっと手伝ってあげて」

「ほい、もちろんだ」


 原田の指示で、すかさず健吾が芹沢の自転車を持ち上げるのを手助けした。「…ごめん、ありがとう」と小さく礼を言いながら、芹沢はまず下敷きになっていた左足を何とか自転車から抜き出し、自転車を横倒しにしたまま何とか立ち上がった。


「…えへへ、ごめんね。うっかりしててペダル踏み外して……っ!!」

「おっと、あぶねぇ!」


 おどけながら自分一人で立とうとしたが、すぐによろけて崩れ落ちそうになる。そこにすかさず、健吾が芹沢の腕を掴んで支えに入った。


「ありがとう、吉川」

「おう、気にすんな。というか、無理すんな」

「桜、無理しなくていいから一旦座ろうか」


 原田がすぐさま芹沢に駆け寄り、健吾とバトンタッチをして芹沢の身体を支えながらゆっくりと縁石のところまで行って腰を落とした。


「ごめんね、由唯」


 芹沢は、先程痩せ我慢で浮かべてた笑顔が消えて、痛みに耐えてる表情を浮かべていた。何とか声は出しているが、その声にも痛みを耐えている色が混じっていて、少し息も荒かった。


「何言ってんの。助けるのなんて当たり前なんだから、桜は謝る必要なんてないよ」


 原田は、そう言って何とか笑顔を作った。


 地面に座り込んだ芹沢は、息を整えながら何とか痛みを和らげようとしていた。伸ばしている左足は、やはり自転車で思い切り転んだせいで、怪我をしていて所々血も出ていた。


 だが、その怪我以上にひどくなっている所があった。


「桜、これ…」


 原田が、触れないように気を付けながらも左足首に手を向ける。


 芹沢の左足首には包帯が巻かれてあったが、それが包帯の上からでも分かるくらいに腫れていた。それは、紛れもなく今自転車で転んだことによっての腫れではなく、ここまでの道のりで酷使してきたことによる腫れであることは明らかだった。


「…いつから?」


 原田は、短く聴いた。問い掛けるその声は、少し硬い。


「…痛みが少し出始めたのは、多分二時間くらい前。痛みが本格的になってきたのは、多分三十分くらい前かな」


 答える芹沢は、居たたまれない様子で少し回答も歯切れが悪かった。実際、じっと見つめている原田に対して、芹沢は目を逸らしていた。


 原田は、ほんの少し芹沢を見つめたままで何も言わなかった。


 そして、小さく溜息一つ。


「…もう、だからあんまり無茶はしちゃダメだってあんなに言ってたのに」


 そう言うと、原田はおもむろに立ち上がった。


「理久君、替えの包帯と湿布持って来てくれてたよね?」

「あぁ、うん。あるよ。冷感スプレーもあるし、芹沢さん今転んで怪我もしてるから、消毒液とかキズバンもあるよ」


 理久は、すぐにリュックサックを下すとテキパキと治療道具を取り出した。包帯や湿布はともかく、キズバンとかも持ってきたことに、「おぉ、理久準備良過ぎるな」と亮と健吾が感心の声を上げた。


「ありがとう。流石、理久君」

「ごめんね、ありがとう」


 原田に続いて、芹沢も見上げながら礼を言う。言われた理久は、照れ臭そうに笑いながら原田に手渡した。


 理久から湿布等を受け取ると、原田は素早い手つきで今巻いてある包帯と湿布を取った。湿布を取った芹沢の足首は、やはり赤く腫れていて、それを見るなり原田が「うわ、痛そう…」と苦い顔を浮かべた。


「ごめんね、由唯」

「良いよ。とりあえず、応急処置しちゃおう。こんなになるまで隠してた桜も悪いけど、気付けなかった私も悪かったからさ」


 そう言いながら、原田は少し気まずそうに笑った。


 原田は、こんなになるまで隠していた芹沢をもう少し責めるかと思った。ところが、今の原田の表情はそれ以上にどこか沈んでいた。それは、原田が自分でも言ったように、こんなになるまで気付いてあげられなかった自分自身を責めているようだった。


 だが、それは俺も同じだった。


 やはり、休憩の時に見た芹沢の表情は俺の勘違いでも何でもなかったのだ。あの時、どれくらいの痛みがあったかは分からないが、あの芹沢が一瞬とはいえ表情に出したのだ。恐らく、何も気にせず無視できる程度の痛みではなかったのだ。


 あの場面で、それに気付けていたのは他でもない俺だったのだ。


 なのに俺は、それを自分自身で芹沢に言おうともせず、ただ原田に見といてくれと言うだけだった。


 それが、今のこの状況だ。


「よし、とりあえず湿布も包帯も巻き終わったし、自転車で転んだところもキズバンは貼っておいたよ」

「ありがとう、由唯。ちょっと、楽になってきたかも」


 そう言って、芹沢は軽く笑った。それは、先程のような痩せ我慢とか気遣っての笑顔ではなく、ようやく本心から出た笑顔に見えた。 


 その笑顔を見て、原田の表情も少し和らいだ。


「もう、本当にびっくりさせないでよね。急に倒れたから、本当に焦ったんだから」

「ごめんごめん。でも、自転車で転んだ怪我は、血は出てたけど思ったより痛くないから大丈夫」


 芹沢は、こちらに顔を向けた。


「皆もごめんね。突然でビックリしたよね」

「おう、そりゃビックリしたさ。でも、とりあえず大事に至らなくて何よりだ」

「あぁ。倒れても、馬鹿力が一人いればすぐに起こせて便利だからな」


 健吾が快活良く笑ってるところに、すかさず亮が戯けた一言を投げた。案の定、「おい、その馬鹿力とは、誰のことだ?」とすぐさま健吾が引き攣った顔を亮に向けたが、このやり取りはこのやり取りで恐らくこの二人なりに場を和ませようとしてるのだろう。


 だって、芹沢が倒れた時、この二人は本当に青ざめた顔をしていた。


「芹沢さん、大丈夫?他に何かいるものとかない?」

「ありがとう、理久君。というか、まだ何か持ってるの?」


 心配して優しい声を掛けた理久に、芹沢は戯けて笑顔を向けた。


 ひとまず、芹沢が大怪我を負わなかったことが分かって、場の雰囲気も少しばかり和んだ。


「ごめんね。ちょっとすぐには動けそうにないけど、少し落ち着いたら何とか…」


 しかし、芹沢の一言に場の空気が固まった。


 皆が、驚いた表情を隠そうともせずに芹沢に向けるが、芹沢は左足をさすっていて誰の顔も見ていなかった。


「…桜、あんたまさかまだ自転車で帰ろうって思ってる?」


 沈黙を破ったのは、原田だった。しかし、芹沢は左足をさすり続けていて顔を上げようとしない。


「桜、いくらなんでもその足じゃもう自転車を漕ぐなんて無理だよ。もう、親御さんに連絡取って迎えに来てもらおう」


 芹沢は、ずっと左足をさすり続けてまだ顔を上げない。


 でも、明らかに左足をさするスピードは落ちていた。


「この時間なら、もうお母さんとかお父さんも帰って来てる時間だろうし、自転車は別にあの樹のところにでも置いておけば大丈夫だよ。こんな所に置いてあっても取る人なんていないだろうし、自転車は別に後日取りに来れば良いんだし、それこそ何なら健吾でも使いっぱしりにすればいいんだから」


 原田は、笑いながら言った。健吾も、「おい、勝手に使いっぱしりに任命するんじゃない!」とか言いながらも、「…まぁ、今は夏休みだし、俺は体力も残ってるから、別に明日とか取りに来てもいいぞ」とすぐさま承諾した。その二人のやり取りは、いつもの掛け合いというよりは、どこか演技っぽく、無理して明るく振る舞っているように見えた。


 原田は、先手を打って芹沢からの反論を潰していた。


 もう、芹沢が迎えに来てもらう以外の選択肢を出さない為に。


「桜、だから…」

「分かってるよ」


 芹沢は顔を上げないままに答えた。左足をさする手は、既に止まっていた。


「こんな足じゃ、もう自転車に乗ることなんて出来ないって分かってるよ。自分一人で歩くこともままならないのに、家に帰るまで後一時間以上もあるのに、そんなこと無理なことは分かってるよ。皆に迷惑掛けることも分かってるよ。でも……」


 芹沢は、畳み掛けるように一息で言った。言葉を重ねるごとにその声は熱を帯びていった。


 そして、芹沢は顔を上げた。


「でも、私は、せっかくここまで皆で帰って来れたんだから、皆と一緒に自転車で帰りたい……」


 その顔は、今にも泣きそうな表情だった。


 でも、泣くわけにはいかない。今自分が泣いてしまったら、それこそもっと皆を困らせてしまう。だから泣けないし、泣いちゃいけない。


 そんな風に思っている顔だった。


「桜…」


 原田は、後に続く言葉が見つからず、黙り込んでしまった。


 他の皆も、何も言うべき言葉が見つからず、芹沢から目を逸らしながら黙り込んでいた。


 重い沈黙が、辺りを包み込んでいた。その中で、芹沢はじっと堪えるかのように息を潜めて、唇を噛んでいた。


 芹沢がこんなワガママを言うことはなかった。


 いつも、周りのことを気に掛けていて、自分のことよりも他の人のことを優先していた。自分の中ではちゃんと主張したいことがあったとしても、それを他人に押し付けることはなく、それが自分のことであればなおさら言うことはなく、周りに合わせて笑顔を浮かべていた。


 芹沢は、そういうやつで、そしてそれは昔から変わらない。


 そんな芹沢が、今は皆の迷惑になることは分かっていて、そんな願いは叶わないことは重々分かっていて、それでもその切なる願いを口に出して言葉にしている。


「…なんてね」


 芹沢は、ふっと一息ついて笑顔を浮かべた。


 この二日間、何度も見せた周りを気遣う笑顔だ。


「ごめん皆、困らせて。そうだよね、もう……」




「だったら、俺の後ろに乗っていけば良いんじゃないか?」




 突然、声が響いた。


 それは、無意識に滑り出た、自分の声だった。


「俺の後ろ、荷台付いてるから乗れるぞ。だから、後ろに乗っていけば皆で行けるんじゃないか?」


 まるで、誰かが操っているかのように、ペラペラと口が動いていた。


 それは、今まであんなに逡巡して出てこなかったのが嘘のように自然な言葉だった。


 他の四人が、本当に驚いたような表情で俺のことを見ていた。でも、そんなのは今は見て見ないふりだ。


 真正面で、芹沢を見据える。


 芹沢は、真っ直ぐ俺を見ていた。


 何を言われているか分からない、といった、キョトンとした表情を浮かべていた。


 でも、それも気にせずに俺は続けた。



「俺の後ろに乗って、一緒にゴールすれば良い」

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