第28話「家路」①

 じんわりと、陽が傾き始めた。


 ついさっきまで降り注いでいた日差しは少し和らぎ、目映いばかりにアスファルトを反射させていた白い光は、次第にオレンジの色合いに変わり始めていた。


 そして、降り注ぐ強烈な日差しの代わりに、降り注ぐようなひぐらしの鳴き声が聞こえ始めていた。

 

 それは、まるで山から大きな波のように覆い被さってくる鳴き声だった。ひぐらしの鳴き声は、地元にいても意外と聞く機会は少ない。夕方の田舎ではひぐらしが鳴いている、というイメージを持たれがちだが、どうやらひぐらしは山の方にいることが多いみたいで、田舎でも町の中で暮らしているとその鳴き声に出会うことは滅多にない。


 なので、こんなひぐらしの大合唱を聞くのはとても新鮮だった。


 帰り道の道中で、特に山の中にいるわけではないのに、聞こえてくるひぐらしの鳴き声はまさしく「降り注ぐ」という表現が正しいくらいに塊となって降り注いでくる。まるで、全員が示し合わせたように同じタイミングで鳴き始めてクレッシェンドを掛けて、徐々にボリュームを萎めていく。


 その鳴き声が、やけに印象的に聞こえた。


 行きは、煩いと思っていた蝉の鳴き声だったのに、それがひぐらしの鳴き声になっただけで、どうしてこんなにも終わりを感じさせるのか。


 夜になるには、まだまだ早い時間だ。でも、その鳴き声は今日という一日が間もなく終わりを告げることを知らせているようだった。


「いやー、ようやく少しは気温下がってきたんじゃないか?」


 健吾が、ぷはーとスポーツドリンクを豪快に飲み干しながら呟いた。


 海を出発して、猛烈な暑さの中自転車を走らせてきた。流石に、暑さがピークの時間帯での自転車走行はなかなかの地獄で、かなり体力を削られた。無理してそれこそ熱中症にでもなったら洒落にならないので、あまり無理はせずに木陰があればその都度休憩を入れてここまで走ってきた。


 休憩は、木陰か自動販売機を見つけたら基本的に取ることにしていた。


 行きもそうだったが、特に何もない同じような風景の田んぼ道をただひたすら走っていくのだ。道中には、日差しを遮る建物や木々、水分補充するためのコンビニやスーパーなんてものはほぼない。


 そんなわけで、そんな中で見つけるその二つというのはまさしく俺たちにとってはオアシスそのものだった。


 今も、ようやく見つけた自販機の側で自転車を止めてしばしの休憩タイムというわけだ。


「…そうだな。というか、流石にそろそろ下がってきてくれないと本気で死ぬ」


 自転車に寄り掛かるようにして立っている健吾に対して、返答した亮は地面に体育座りをした状態で、頭にはタオルを掛けていた。肩で息をしていて、その度にタオルが僅かに揺れた。


「それはそうなんだが、でも何かあんだけ『あちー!!』とか言いながら走っていたのが、こうして暑くなくなるっていうのも寂しいもんだな」

「なんだそれ」


 亮が、健吾を見ようとしたのか少し顔を上げた。しかし、タオルが被っていて顔は見えていない。


「いや、何て言うか夏の終わり感が半端ないなー、と思って」

「まぁ、それは一応一理あるか」


 珍しく、亮が賛同を示した。


「言ってももう帰り道だし、何とか結構な距離までは帰ってきたからな」


 言いながら、亮はタオルを取っ払ってちゃんと顔を出して健吾を見た。


「というか、何でお前はそんなにも元気なんだよ」


 改めて、亮は健吾に聞いた。


 問い掛けられた健吾は、飲み物を飲み終えると「心外だ」と言わんばかりに亮を見た。


「何言ってるんだ!俺だって、ちゃんと疲れているぞ。現に、これで飲み干したペットボトルは既に六本目だ」

「そう言うんなら、もう少し周りをよく見てみることだな」


 健吾が、「何を言っているんだろう?」と言わんばかりにキョトンとして俺たちを見渡す。


 亮の言うように、今立って休憩しているのは健吾だけで、後の全員は座り込んでなるべく体力温存に努めていた。俺,亮,理久は、それぞれ向かい合うようにして地べたに座り込んでいて、原田と芹沢は道路の縁石に並んで座っていた。ちなみに、つい一時間ほど前の時は、地べたに座り込む俺達を見て、「地面に座り込むなんて、お淑やかな女の子には真似できないことね」なんてことを原田は言っていた。


 誰の表情にもハッキリと疲れが見て取れて、小まめにペットボトルを口に運び、飲み終えると乱れた呼吸を整えようと何度も小さく呼吸を繰り返していた。


「あれ?もう、皆へばったのか?」

「いや、あんたやっぱりおかしいでしょ?むしろ、今このタイミングでは、私たちのこの反応の方が普通だから」


 原田が呆れたように言う。しかし、その声はいつものように張りはなく、疲れが滲んでいた。


「なーんだ、原田さん。いつもに比べて罵倒の声にキレがないですよー?」


 一方、健吾は好機とばかりにニヤニヤと笑みを浮かべた。


「ちっ、体力馬鹿の相手は、今は分が悪いわね」

「ははは、何とでも言うがいい!今の俺は、原田さんにも負ける気はしないからな!」


 突然大声を上げた健吾に、芹沢が微妙にビクリと身体を強張らせ、原田はあからさまに耳を両手で塞いだ。


「もう、本当に勘弁して。せっかくの休憩時間、あんたと話してると無駄に体力持ってかれる」


 原田の返答にもからかう色は薄れ、零れ落ちた声は、本当にうんざりしたものだった。いつもの原田は、こんな風にあからさまな不快感を表に出すことはないので、それが出してしまうところに、本気で原田も余裕がなくなっていることが見て取れる。


 そんな原田の反応に、流石に健吾も空気を読んだのか、「よーし、もう一本補給行っとくか!」とわざとらしく話を変えて、自販機に近付いて何を買おうか物色を始めた。


 健吾が静かになると、その代わりとばかりにひぐらしの鳴き声が降り注いでくる。


 切なさを称えたその鳴き声を聴きながら、ぼんやりと辺りの風景に目をやる。


 辺りの風景は、先程から代わり映えしない田圃の風景だ。同じ区画に切り分けられた田園が、道の先にどこまでも続いている。


 しかし、先程と違っているのはその色合いだ。


 夏の日差しから夕陽に変わった光は、もう随分と伸びてきた稲穂に光を当てていた。風を浴びてたなびく度に稲穂はキラキラと輝いて、その光景はまるで波打つ黄金色の海のようだった。


 そういえば、昨夜見た海も月光を反射させてとても綺麗だった。月や太陽というのは、光の加減でこうも何でもない風景を美しくしてくれるものなんだな、とそんなことを思った。


 ふと、視線が縁石に座っている芹沢の方に向いた。


 芹沢は、タオルで首筋の汗を拭いながら、こまめに水分を取っていた。一応、下にハンカチを敷いているが、腰はしっかり縁石に下ろされていた。


 ここに着いてすぐ、「もう自転車座ってられねぇ!」とすぐさま地べたに腰を下ろした俺たちに対して、早々に前言撤回で縁石に腰を下ろした原田だったが、芹沢は躊躇した様子で、なかなか原田のように腰を下ろそうとはしなかった。それこそ、原田が早々に諦めた「お淑やかな女の子」を気にしたのか、自転車からは降りたものの健吾と同じように自転車に寄り掛かる体勢で水分を取っていた。


 しかし、それに対して原田が「もう、桜は足に負担かけちゃダメなんだから、無理せず座れる時はちゃんと座りなさい!」と自分の隣に座るように促した。最初は、「私は、大丈夫だよー」と遠慮した芹沢だったが、原田が「だめ!」と押し切る形で自分の真横に座らせた。原田の勢いに押されて、苦笑いを浮かべながら腰を下ろした芹沢だったが、せめてもと直ではなく縁石にはハンカチを敷いた。気にせず直で腰を下ろしている原田とは、そこで女子力の差を感じた。


 芹沢は、汗を拭き終え水分も飲み終えると、特に何かするという感じもなくぼんやりとただ前方を見つめていた。隣の原田は、さっきの健吾とのやり取りで随分体力を持っていかれたみたいで、タオルを頭から掛けてぐったりとした姿勢のまま動かない。


 あからさまに疲れた様子の原田に比べて、芹沢はパッと見た感じではそこまで疲れは感じられない。だが、よく見てみると肩は僅かに上下していて、息も少し上がっているようだった。そこに気付くと、表情にもどうしても隠し切れない疲れは滲み出ていて、それを何とか表には出さないようにしていることが見て取れた。


 そんな細かい違いに気付けるくらい、芹沢の姿を見ていた。


 芹沢は、ただそこに座っているだけだというのに、そんな芹沢に夕陽の光は周りの風景と同じように降り注いでいた。


 ただ、一人の女の子に夕陽が降り注いでいる。


 それだけのはずなのに、その光景はまるで一つの絵画のように、やけに絵になる光景だった。


「……?」

「……!?」


 視線を向け過ぎていたのか、芹沢がふとこちらを向いた。反射的に、慌てて視線を逸らした。


 咄嗟に逸らしたものの、特に向けるべき先もなく、持て余した視線はただただ目の前に広がる田園風景を映した。咄嗟に目を移して飛び込んできた黄金色の色彩に、眩しさで少し目が眩んだ。


 意識はそちらの方には向けないようにと意識をしながら、ただ何気ない感じを装って目の前の田園風景をただ眺め続けた。


 バレなかったか?という心配と、バレてたんじゃないかというスリルに、心臓はドクドクと脈打っていた。


 心臓の鼓動を何とか落ち着かせようと、僅かに呼吸を繰り返しながら、内心で苦笑する。


 なんだよ、結局俺はビビってるんじゃないか。


 芹沢に見られていないところではこっそりと視線を送りながら、いざ合いそうになるとその気まずさにすぐ何でもない振りをする。


 その格好悪さに嫌気が差しながらも、でも目を合わせてしまうのは違うと自分自身に言い聞かせる。


 芹沢は、俺の心境の変化など知る由もない。というよりも、昨日あれだけのことを言い放っておいて、今更こうして心変わりしようとしていることの方がおかしいのだ。


 芹沢の中では、まだ変わらず昨日の俺の言葉が残っているはずなのだから。


「……」


 視線が少し落ちた。今、自分が抱いていた感想に、そこまで思えた自分自身の心境の変化に、却って胸が締め付けられた。


 結構な距離を走ってきたが、ゴールするにはまだしばらく自転車を走らせ続けなくてはいけないだろう。


 それでも、日の暮れ具合と走ってきた距離の感覚からそこまでゴールも遠いものではなくなってきているのは分かる。


 そしてそれは、間違いなくこの旅の終わりがすぐそこに迫っていることを意味していて、このまま何もできなければそのまま俺たちの関係の本当の終わりも意味している。


「……」


 もしもこのまま旅が終わってしまったら、と嫌な想像が脳裏を掠めた。


 今朝、亮から言われ、さっき理久と話したことで自分の中にあった誤解も解けた。その上で、芹沢を見る目が変わっていることも自覚せざるを得なくなっているのに、今更一体何ができるのかと考える。


 そもそも、歩み寄ってこようとしてくれていた芹沢を、無下に突き放したのは他でもない自分自身だ。


 そんな自分が、今更になって都合よく心境を変えたからといって、もう既に芹沢は昨日のように歩み寄ろうという気などもちろんないだろう。


 理久と話した直後は自分自身の感情で盛り上がっていたが、芹沢の心境を慮ると「何を勝手なこと言ってるんだ、お前は?」と自分自身が責めてくる。


 それに対して、自分自身も言えることは何一つなく、ただ目線が落ちていった。


「よーし!皆、そろそろ出発しようか。これ以上ここで止まってたら、本当に動けなくなりそうだし」


 勢いよく立ち上がりながら、亮が皆に号令を飛ばした。


「うわー、ついにこの時が来たかー!」


 原田が、まるでこの世の終わりとばかりに天を仰いで両手で顔を覆った。


「いやー、自転車乗りたくなーい」


 そして、そのまままるで子どもが駄々を捏ねるように、両腕を上げてその場でバタバタし始めた。


「もう、由唯、そんなわがまま言っても仕方ないでしょ?」


 そんな原田を、芹沢が苦笑しながら窘めた。


「えー、だってー」


 しかし、原田は口を尖らせながらバタバタするのを止めなかった。


「車に乗りたーい!何もせず快適に座って、目的地まで運んで欲しいー。ガンガンにクーラーの効いた部屋で、のんびりしたーい!」


 そのまま、言いたい放題に欲望を爆発させた。


「アイス食べたい!ゴロゴロしたい!動きたくない!ダラダラ寝たい!扇風機で『あーーーー』って言いたい!」

「俺も、もう一回海に飛び込みたい!」

「うん、だったら今の道のり戻ればそれが叶うから、吉川だけ勝手に行ってきたら?」

「おい!このノリにせっかく乗っていった俺に対して、その反応は冷た過ぎるだろ!」


 今までの駄々っ子が嘘のように、サッとすまし顔に切り替わった原田に、満を持して割り込んだ健吾はご立腹だ。


「はいはい、それこそ阿呆なやり取りはそれくらいにして、本当にぼちぼち行くぞー」

「それもそうね。確かに、これ以上は本当に動けなくなりそう」


 亮に答えながら、あっけなく原田も重い腰を上げた。そして、「うーん」と両手を真上に伸ばしながら、チラリと芹沢に視線を向けた。


「桜、大丈夫?」

「うん、大丈夫」


 自然と差し出された原田の手に、芹沢も特に躊躇うことなく手を伸ばした。その手を取りながら原田に引っ張り上げてもらう形で、芹沢も立ち上がった。


 しかし、うまく立ち上がれず少しよろけて、原田に寄り掛かる形になった。


「大丈夫!?桜」


 思いがけず倒れそうになった芹沢に、原田が慌てて声を上げた。


「あぁ、ごめんごめん。暑さでちょっとフラッとしちゃった」


 一方の芹沢は、苦笑いを浮かべながら「あはは」と笑った。


「本当に大丈夫?もしかして、足が痛くてとかじゃない?」

「違う違う!本当に、急に立ってフラッとしただけだから心配しないで」


 そう言って笑いながら、芹沢は大丈夫なことをアピールするために左足をブラブラと振って見せた。


「大丈夫か?しんどくなったら、無理はせずにすぐに言えよ?」


 亮も、さりげなく気遣いの言葉を投げた。


「うん、大丈夫。ありがとう」


 亮にも、芹沢は笑って答えた。


 まだ、心配そうな表情を浮かべていた原田だったが、皆に笑顔を振りまいている芹沢に対して、ようやく一息ついて、「もう、あまり心配させないでよ、桜」と表情を緩めた。


 「ごめんごめん」と笑いながら、芹沢は原田と連れ立って自転車の所へと歩いて行った。


 そんな二人の後姿を眺め、ふと視線が芹沢の左足へと向いた。


 芹沢は、特に庇うような様子も引きずるような様子もなく、ただ普通に歩いていた。


 しかし、先程原田に寄りかかるようによろけたその一瞬、垣間見えた芹沢は僅かに顔を顰めていたように見えた。


 その表情は、本当にほんの一瞬で、原田に顔を向ける時はすぐ笑顔に変わっていた。


 だが、その笑顔は、芹沢がよくする「相手を気遣う時の笑顔」に見えた。


 普通に見ているだけでは気付けない、笑っているんだけど少し自分自身は無理をしている、そんな笑顔。


 思い違いかもしれないし、ただ俺が勝手にそう見えただけかもしれない。


 他の人では絶対に気付けない芹沢のその僅かな表情に、一抹の不安がよぎった。


 でも、それに対して俺自身が特に何かできるわけでも、声を掛けられるわけでもなく、ぞろぞろと自転車の方に行く皆の後を追って、自転車の方へと足を向けた。

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