第26話「旅の終わり」③

 ペンションに戻ると、原田と芹沢は表のウッドデッキに座り込んでいた。何でも、先にシャワーを浴びようとも思ったが、芹沢の足の痛みが引くまでは少し外で安静にしておこうということになったそうだ。現に、原田のすぐ横には昨日理久が持ってきた救急箱が置かれていて、冷感スプレーが出されていた。


 二人は、既に上にはパーカーを羽織っていて、それを見て亮は「俺たちの夏は終わった…」と小さく呟いて天を仰いだ。


 ペンションの中に入ると、カラスの行水ですでにシャワーを終えた健吾と理久がシャワー室から出てきていた。「早いな!」と亮がすぐさまつっこむと、「いや、芹沢と原田が後にするって言ったから、お前らもいるし早めに出た方が良いかと思って」と健吾から至極真っ当な返答が返ってきた。その回答に、「お前、シャワー室でキレイな健吾と入れ替わってきたか?」とあながち冗談でもない口調で亮が返した。


 健吾の言う通り、あまり長くシャワー室を使用中にしておくのもあれなので、俺たちも二人一緒に入ってサッと汗を流すだけにした。昨日、このペンションに到着した時は、男子同士でシャワーに入るなんて地獄絵図堪えられるか!と言っていたのに、昨日原田から無理矢理入らされて耐性ができてしまったか、今となってはそこまで気にしなくなってしまったのが少し怖い。


 俺たち二人も速攻でシャワーを済ますと、しばらく経ってから原田と芹沢が戻ってきた。二人も、シャワーを済ませると(男子とは比べ物にならないくらい長いシャワーだった)、もはや定位置となった二階のロフトに上がり込み、静かになってしまった。俺達男子も、完全にこの時間は体力温存に充てようと、一階のリビングを目一杯使い、思い思いにグダグダしていたが、次第に一人また一人と睡魔に襲われて倒れていった。


 次に目を覚ますと、部屋中にはカレーの良い匂いが漂っていた。


「ほら、あんた達も起きて。もうすぐ出発するんだから、早く昨日のカレー食べ切って片付けするよ」


 流石に、お昼の準備は原田だけで済ませたみたいで、芹沢の姿はキッチンにはなかった。寝惚け眼の男子がそれぞれ起き上がって、各々がカレーをセルフサービスでよそいに行くと、原田はその横を素通りして二階に上がって行った。


 カレーをよそい終えてテーブルに着くと、「もう、由唯大袈裟だよー」という芹沢の声が上から降ってきた。見ると、「落ちてきたら私が受け止める!」と言わんばかりに原田が大きく両手を広げて梯子の下で芹沢を待ち構えていた。


 上からゆっくりと下りてきた芹沢は、行きの格好とは違ったTシャツにショートパンツ姿のラフな格好に着替えていた。怪我をした左足には湿布が貼られてあり、それをネットで固定していた。


 その芹沢の姿に、他の三人は思い思いに「大丈夫?」「大丈夫か?」と芹沢に声を掛けた。


「うん、大丈夫だよ。大袈裟にしているけど、痛みはもう引いたから帰りは大丈夫そう。心配させちゃってごめんね」

「何言ってるの!そう言って桜はすぐ無理するんだから、本当は包帯でグルグル巻きにしておきたいくらいだよ!」


 笑った芹沢に、原田が本気で心配そうな声を上げた。


 「包帯でグルグル巻きって、それこそ大袈裟だよー」と、芹沢は心配する原田を尻目に笑っていた。


 芹沢も席に着き、皆で昼食を終え(二人前分残ったカレーは、男子たちの壮絶なじゃんけん大会の結果、健吾と亮の腹に収まって完食となった)、片付けは昨夜同様男子がして、女子二人は一階のリビングで寛いでいた。二人の荷物も既に一階に下ろし済みで、いつでも出発できるようになっていた。


 既に時刻は13時を回っており、14時には理久のおじさんが来てペンションを出ていくことになっていた。


 つまりは、間もなく「海に向かって」も終わりだった。


「……」


 洗い終わったお皿を水で濯ぎながら、間もなくこの旅が終わるということを殊更に意識した。


 果たして、この二日間で何か変わったのだろうか。


 亮の思い付きで来たこの旅行。思いもよらない芹沢という参加者に、最初は戸惑いが大きく何だか騙されたような気になって、苛々していた。


 しかし、久しぶりに会ったあの頃のメンバーのおかげで、次第にその苛々も薄れ楽しくなってきていた。


 そうして、この旅行に来て良かったなと思っていた矢先に起きた昨夜の出来事。聞いてしまった告白。そして、あの月明かりの下で聞いた芹沢の本音。


『俺は、芹沢と話をしたくない』


 それに対して、俺の冷たい声が落ちる。


 あの時に、明確に変わってしまった、終わってしまった。


 自分が芹沢に投げてしまった言葉。芹沢がどんな想いで俺に話し掛けに来たのか。それは、亮に言われるまでもなく、あの時の芹沢の叫びで察していた。


『私は、昇と話がしたい!』


 おそらく、何も知らない人が聞いたら、芹沢の叫びの理由は分からない。


 でも、あの場に芹沢が一人で来て、立ち去ろうとした俺に対して投げ掛けたあの言葉は、言葉以上の意味があった。その意味を、俺はよく知っていたはずだった。


 それを、俺は見ようとしていなかった。目を逸らすことで、ずっと逃げようとしていた。


 今のままでいいのだと。このままで俺達は良いんだと。


 そう芹沢にも、自分自身にも言い聞かせようとしていた。


『幼馴染だからな』

『昔を知っているこっちとしては、何かとやりにくいんだよ』


 でも、それは違うと一番近くで俺達を見ていた亮と健吾が言った。


 亮はストレートに、健吾も皆といる時とは打って変わって、一度だけ紛れもない本音を俺に投げた。


 昔からの付き合いの二人が、「諦めるな」と言ってくれているように、俺には聴こえた。


 だから、二人から出る言葉は同じようなものだったんだろう。


 昨日や今朝までの俺だったら受け止められなかった。でも、今の俺なら、少しだけ素直にそんな二人の言葉を受け止めることができていた。




―――でも、




 排水口に吸い込まれていく水道水の渦を見つめながら、自分の中に落ちる言葉は暗い。


 今の俺は、どうしても芹沢と話すことができない。目を合わすこともできなくなってしまった。


 昨晩、あんなことを言ってしまった。あれは、紛れもなく俺から芹沢に対する最後通告であり、芹沢の心情を慮ると、もう決して引き返すことはできない声と言葉だった。


 もう、絶対に元には戻れないかもしれない。


 その言葉が脳裏を過ぎると、胸を強く締め付けてくる。


 今更、そんなことを思っても、それをしてしまったのは紛れもない自分自身で、あんなことをしてしまった俺には、後悔する資格すらない。


 でも、それを悔いてしまっている自分を自覚せずにはいられなかった。


 俺は、どうしようもなく弱い。


 色々と気を回してくれた亮や健吾に、応えられない。そんな状況に、俺自身がしてしまったんだ。


 そうしている間にも、もうすぐこの旅は終わってしまうんだ。


「……」


 旅の終わりは、そのまま正真正銘俺たちの関係の終わりでもあるように思えた。この旅が終わり、本当に全てが終わってしまうのだ、と。


 それでも、そうしていても何か答えが自分の中で出てくるわけもなく、そのまま流れ出る水道の水を止めた。


---



 予定時刻14時より少し前に、理久のおじさんはペンションに顔を出した。「ひゃー、皆結構焼けてない?長時間自転車運転してきたのに、結構遊んだんだねー。若いって良いねー」と、しきりに若い俺たちの底なしの体力に感心しっぱなしだった。


 「はい、青少年ですから!」とやけに爽やかな満面の笑みで答える健吾に対し、「すいません、こいつのテンションに当てられて巻き込まれただけです…」と亮と原田は揃ってげんなりとした表情を浮かべていた。恐らくは、これからまたあの道のりを行くことに、今からゾッとしているのだろう。


 それに関しては全くの同感で、行きは体力フル充電の状態でここまで来ることができたが、あの道のりをこの二日間遊び切った状態で帰ることが出来るかどうか、正直今から不安だった。


 見ると、本当に元気そうなのは健吾くらいで、亮と原田は隠そうともせずげんなりとした表情のままだし、理久は一応おじさんに笑いかけてはいるがその笑顔は引き攣っていた。


 そして、芹沢もあからさまには顔に出さないもののやはり薄っすらと疲れが表情に見て取れた。目線を落とすと、左足には変わらず湿布とネットが貼られたままだった。


「あれ?その足どうしたの?」


 おじさんが、芹沢の足に気付いて驚いた声を上げた。


「あぁ、すいません。今朝、ビーチバレーやってる時に少し捻ってしまって。もう痛みはないんですけど、一応大事を取って湿布貼ってるんです」

「はぁー、そうなんだね。くれぐれも無理はしちゃダメだよ。無理だと思ったら、自転車途中で置いて、親御さんに迎えに来てもらうなり、電車で帰るなりもできるからね」


 心配そうなおじさんに、芹沢は笑みを浮かべながら「ありがとうございます。そうなったら、無理せずそうしますね」と答えた。


 ペンションにいる間、少しでも動こうとする度に原田から「桜は大人しくしてなさい!」と窘められていたので、芹沢はなるべく自分で動くことは最小限にして、大人しく座っていることがほとんどだった。そのおかげもあってか、さっき部屋を片付けて荷物をまとめている時には特に痛みを感じさせるような様子はなかった。


 現に、何度か原田が「桜、大丈夫?」と声を掛けても、「うん、大丈夫そう。ありがとう」と笑って答えていた。


「よし、じゃあ皆キレイに使ってくれていたみたいだから、何の問題もなかったよ。あと、これは帰り道の餞別として」


 そう言いながら、おじさんは500mlのスポーツドリンクを人数分全員に渡してくれた。


 それぞれ、「ありがとうございます!」と礼を言いながらそれを受け取った。ペンションに用意してもらっていた飲み物も含めて、全て飲み尽くしてしまっていたので、ここでその餞別は本当にありがたかった。


「じゃあ、帰り道はくれぐれも気を付けて。行きと比べれば少しは気温は落ち着いてると思うけど、皆疲れてはいると思うから熱中症とかには気を付けてね!」


 最後まで俺たちに気を回してもらって、おじさんは見送ってくれた。手を振るおじさんに俺たちも大きく手を振り返しながら、自転車に跨って出発した。


 いよいよ、これで最後。しかし、まだまだとても長い家路への道のりが始まった。


 ルートとしては、来たルートをそのまま帰ろうということになっていた。下手に違うルートで帰って、途中遠回りになったり迷子になったりしてしまっては堪らないので、安全策として全員一致でそのルートが採択された。


 行きの時に全力ではしゃいでいた海岸線沿いを、全員二列になって走っていく。行きは、全員ようやく見えた海にはしゃぎ過ぎて、疲れも忘れて思い思いに突っ走っていたので陣形も何もバラバラだった。しかし、それが今は、全員が一定のペースに合わせて陣形を組んでペダルを漕いでいる。


 陣形は、先頭が亮と健吾。二番目が原田と芹沢で、一番後方が俺と理久だ。


 降り注ぐ日差しは、時刻がまだ昼過ぎたばかりということもあって熱かった。しかし、海岸線沿いはやはり潮風が吹き付けてくれているおかげで、思いの外暑さはそこまで強烈に感じることはなかった。潮風もあるだろうが、もしかするとこの二日間で少しは暑さに身体が慣れてくれたのかもしれない。


 ペダルを漕ぐ足に若干重さは感じるが、漕ぎ出してみるとスムーズに足は動いてくれて、とりあえず走り出しとしては問題なさそうで安心した。道のりは、むしろまだまだこれからなのでもちろん油断はできないが、とりあえずは何とかなりそうで安心した。


 それは皆同じようで、ペースはゆっくりながら全員特にしんどそうな様子はなさそうで、スムーズにペダルを漕いでいた。


 少し距離を取りながらそれぞれの列ごとに走っていたが、浜辺ではあんなにやかましく元気だった健吾と原田も今のところは大人しく、特に何か話をする様子もなく自転車を漕いでいた。


 自然とその二人に目が行っていることに、この二日間は常にこの二人の元気さで場が盛り上がっていたんだな、とつくづく思わされた。


「いやー、無事に自転車が漕げて良かったよ」


 潮風に乗って、すぐ隣から声が聞こえた。


 顔をそちらに向けると、理久がこちらに苦笑いを向けていた。


「何だ、漕げないと思っていたのか?」

「うーん…いや、流石に大丈夫だとは思って…いや、いなかったかもしれないね」


 言いながら、理久は「あはは」と笑った。


「理久が帰り無理だったら、理久より体力ない俺なんか、すぐにへばるな」

「いや、昇は大丈夫でしょ?俺より体力あったし」

「それは、あくまで中学までの話だろ?方や大して真剣に部活していない弱小テニス部のメンバーで、方や県内ベスト4で地域大会出場のエースだろ」

「いや、俺はエースでも何でもないから!」


 すぐさま否定してくる理久に、こちらも自然と笑みが零れた。


「またまたご謙遜を。ちゃんとレギュラーメンバーなんだろ?」

「まぁ、一応そうではあるけど、別にエースってわけでは…」


 言いながら、恥ずかしそうに理久の声は次第に尻すぼみになっていった。


 話しながら、こんな会話をしていることに既視感を覚えた。


「そういえば、行きも最初は理久の隣で走ってたけど、話してることも何か昨日と同じような感じだな」

「あぁ、確かにそうだったね。何か、まだ昨日のことなのに随分前のことのように思えるね」


 それは、俺も同じように思っていたことだった。


 昨日のことを思い出しながら、それが昨日のことだとは分かっているはずなのに何だか随分昔に話したことのような感覚になっていた。


 もうすでに、この旅そのものが随分前にやったことのように。


 そんなわけはないのに、この旅の記憶がどんどんと想い出へと変わっていっているみたいだった。


「それ、俺もちょうど思っていた。何か、変な感覚だよな」

「やっぱりそう?うん、何かもう終わっちゃったんだなーって感じだよね」


 理久の言葉に、また切なさが降りてくる。そう、既に旅は終わって俺たちは帰路についているのだ。


 ちらりと理久の方を見ると、理久は前を向きながら何だかやけに嬉しそうに笑っていた。


「でも、俺としてはやっぱり久しぶりに皆に会えてすごく良かったし、楽しかった。それこそ、久しぶりに会ったとは思えないくらい、皆なんて言うかあの頃に戻った感じだったね」


 理久は、本当に楽しそうに言葉を続けていた。屈託のない、純粋で素直な表情と言葉と声だった。


 その声を聴きながら、別の切なさが自分の中で降りて来た。


「…おいおい、理久。何かもう本当に終わりって感じで言ってるけど、まだここから半日近く自転車で帰るってこと分かってるか?」


 何とか、沈みそうになっていく気持ちを押し留めて、あえてからかうような口調で言った。


「あっ、そうだよね…そういえば、終わりどころかここからが大変なんだった」


 今更ながらにその事実に気付いたかのように、理久は明らかに顔を曇らせて空を仰いだ。その仕草に、乾いた笑い声を上げた。


「そうだぞ。無事に家に着くまでが遠足だからな」

「うーん、その言葉を本当に心配したのは今日が初めてだよ…」


 今度は、顔を俯かせて心なしか漕ぐスピードが遅くなった理久に、スピードを少し緩めて合わせる。


 本当に、理久は表情や言葉が素直で実直だ。自分の思ったことがそのまま表面に出てくるので、見ていて何だかこちらも素直な気持ちになれたような気になってくる。


 でも、その事が今は自分の中でモヤモヤを膨らませていた。今、屈託ない表情を浮かべている中で、理久は本当はどんなことを考えているんだろうか。それを想像しようとすると、こちらの方が理久の前で笑えなくなってしまいそうになる。


 自然と、視線が前方に向いた。俺たちが会話を始めたことで、少し前との距離はさっきよりも開いていた。しかし、前方の二組も走り出したことで少し慣れてきたのか、何やら会話を始めているみたいだった。


 前を走っている原田が、何やら笑いながら芹沢に話しかけ、芹沢も少し顔を原田に向けて笑っていた。


 芹沢は、特に漕ぐ動きにも不自然なところはなく、スムーズにペダルを回しているみたいだった。


「芹沢さん、大丈夫かな?」


 思いがけない言葉が飛んできて、思わず揺らぎそうになったハンドルをグッと力を入れて持ちこたえた。


「とりあえずは大丈夫そうに見えたけど、ちゃんと見ててあげないといけないね」


 理久は、特に俺が動揺したことには気付かない様子で言葉を続けた。


「あぁ、そうだな」


 咄嗟に返答はしたが、少し内心の動揺のせいで声は上擦っていた。


 しかし、理久はそのことを不審に思った様子はないようで、何も言われることはなかった。


 動揺が落ち着いて、ちらりと理久の方を見ると、理久はじっと前方の芹沢を見つめていた。


「…やっぱり、気になるのか?」


 視線を、前方に戻して問い掛けた。理久も反応して、こちらに一度顔を向けたが、また視線を前方に戻した。


「うん、やっぱり気にはなるよね。原田さんもすごい気にしてたけど、芹沢さんって結構そういうこと隠しそうだからさ」


 そう言う理久の声は優しく、その声に思わずまた理久の方を見た。


 理久は、その声と同じくらい優しい眼差しで前方の芹沢の後姿を見つめていた。それは本当に、好きな相手に向ける視線のように、俺には見えた。


 そして、芹沢の性格を的確に見抜いているところに、もしかしたらもう既に俺よりも理久の方が芹沢のことを理解しているんじゃないか、と思った。


「そうか…」


 思わず、呟いた声は小さくなった。幾度となく、そんなわけないということを繰り返し自分の中で言い聞かせてきたけど、もしかしたら本当にそうなっているのかもしれない、ということが自分の中で大きくなっていた。


 その事に、やはり改めてショックを受けている自分がいた。


「昇は、心配じゃないの?」


 さも当たり前かのような問い掛けが、投げ掛けられた。


 視線を向けると、理久は純粋な目で俺の方を見ていた。


「えっ?俺がか?」

「うん。昇も心配してるでしょ?」


 あまりにも自然に、本当に当たり前のことかのように理久は聞いてきた。


「うーん、そりゃまぁ、心配してはいるけど…」


 動揺を隠しきれず、返答はしどろもどろになってしまった。そして、その返答をしたことに、少し顔が熱くなった。


「ごめんね、何か変なこと聞いちゃって」


 しかし、そんな俺の態度を見たからか、理久は笑いながら気遣う言葉を投げてくれた。


「この二日間で、皆から昇と芹沢さんのことは何となく聞いたんだ」


 そして、続けられた言葉は意外なものだった。


「実際、何がどうなっているとか詳しいことまで聞いてるわけじゃないし、僕は井川や吉川みたいに芹沢さんと昇が昔どんな感じだったか見てたわけじゃない。でも、そういう話を昨日道中で聞いて、その上で僕なりに二人の様子を見てたら、何となく気になっちゃって」


 矢継ぎ早に理久から紡がれていく言葉を理解するのに、やけに時間が掛かった。頭の奥が痺れて、聞こえてくる声がひどく曖昧になった。


 しかし、その感覚が過ぎて、やけに静けさが降りた。


「昇は…」

「理久、お前はあいつが好きなんじゃないのか?」


 理久の言葉を遮って、思わずストレートに言葉を投げた。心臓はドクドク脈打っているのを感じるのに、頭の奥はやけに静まり返っていた。


 そうして、ゆっくりと理久の方を見た。


 理久は、本当に驚いた表情を浮かべて俺のことを見た。


「えっ?僕が、誰のことを?」


 理久も動揺したのか、一人称が「僕」になっていた。


「えっと…せ、芹沢のこと?」


 俺が名前を出すと、前の二人に聞こえるのではないかと思い、声が自然と小さくなった。そのせいで、名前を出すときに少しどもってしまって、また顔が熱くなった。


 理久は、その名前を聞いて、たっぷりと間を開けた。表情は驚きのままで、固まっていた。一度、前方に向き直って、もう一度俺の方を見た。


 そして、手を振りながら大きく首を横に振った。


「いやいやいや!何でそうなるの?」


 理久は、あり得ないと言わんばかりに首と手を横に振り続けた。


「いや、確かに芹沢さんは綺麗だと思うし良い子だと思うけど、昇を差し置いてそんな…というか、それを言うのもそれはそれで芹沢さんに失礼か…えっ、というか本当に何で…?」


 理久はすっかり混乱した様子で、言葉を口に出してはすぐに否定して、でもそのことに更に混乱して、結局俺への質問に戻った。


「…いや、結構理久って芹沢と仲良さそうだったし」

「えっと、確かに中学時代は部長同士で結構話すこともあったし、この二日間確かに話してたこともあるけど、別にそういうわけじゃないし」

「今もそうだけど、昨日の夕食の時とかも怪我したらすごい心配そうにしてたし…」

「それは、女の子が怪我したらもちろん心配はするよー。あっ、それはもちろん昇とか他の人が怪我しても同じだけど」


 理久は、全て普通のことのように答えていった。その回答を受けるたびに、身体に入っていた力が抜けていくのを感じた。


「…でも、だったら昨日のあれは?」

「うん?あれって?」


 思わず、口走ってしまったが、ここで止めると余計に変なことになってしまいそうだったので、勢い任せで言ってしまった。


「えっと…偶然キッチンで聞いてしまったんだけど、何か理久、夕食終わった後にペンションの裏であいつに、その…何か言ってなかったか?」


 具体的なことを言うのは憚られて、煮え切らない言い方になったが、理久は少し考えて「あーー!!」と何か合点が言ったように声を上げると、すぐさまハンドルに突っ伏してしまった。


「えっ、ごめん、ちょっと待って。昇、もしかして、僕たちのあの時の会話聞いてた?」


 ハンドルに突っ伏した状態のまま、理久が聞いてきた。


「えっ?…えーっと、まぁ、少し窓が開いてて聞こえた感じだから、途切れ途切れでちゃんと聞いたわけじゃないけど、理久がその…」

「わーー!!何となく分かったから、もうそれ以上は言わないで!」


 理久は勢いよく顔を上げると、言葉を掻き消すかのようにブンブンと手を振り、大声で俺を遮った。


 理久の慌てる声が聞こえたのか、前方の原田が気付いて「うん?どうかしたー?」と振り返りながら大声で呼び掛けてきた。


「えっと、理久が……」

「何でもない!何でもないよ、原田さん!」


 理久は、もうなりふり構わない感じで、必死に原田に前を向くよう促した。そんな理久の様子に、少しじっと俺たちの方を見つめていた原田だったが、首を傾げながらまた前に向き直った。


 原田が前に向き直ってから、チラリと理久の方を見ると、理久は肩で息をしながら暑さとは関係ない様子で顔が上気していた。


 そのことに、堪らず吹き出してしまった。


「…もう、昇、勘弁してよ」

「うん、ごめん。今のはごめん」


 思いの外真剣な声色の理久に、笑いを堪えながら謝る。


 そうしながら、何だか久しぶりに本心から笑えていることに、気付いた。


「うわー、昇に聞かれてたのかー…聞かれてたのかー…」


 理久は、まだ現実を受け入れられていないようで、何度も繰り返しぶつぶつ呟いていた。


「いや、理久。本当にちゃんと聞こえてたわけじゃないからな。ただ、す…」

「だから、それ以上は言わないで!」


 凄まじい反応速度で俺の言葉を遮った理久に、また笑いが込み上げてきた。本当に、笑いが止まらない。


「悪い悪い。っていうか、そんなに必死に止めなくても」

「とにかく、ここでは言わないで!」


 本格的に理久を怒らせてしまいそうだったので、笑いをなるべく抑えながら「ごめんごめん」と片手で拝む仕草をしながら、本気で謝っていることを伝える。


「…で、一体何の話をしてたんだ?」


 ようやく笑いが治まったところで、冷静に問い掛ける。


「それは…」


 俺の笑いが治まったことで、理久も落ち着いた反応になってきたが、その上でも続く言葉は歯切れが悪い。


 そんな理久の反応と、さっきの反応を思い出して、「もしや…?」と一つの仮説に思い当たる。


「もしかして…?」


 言いながら、目だけで前方の背中を指す。それは、さっきまで目を向けていたのとは逆の背中だ。


 すると、理久は口を真一文字に閉じたまま、ゆっくりと僅かに頷いた。


 そのことに、自分で聴いておきながら思いがけない返答に思わず反応しそうになるのを、グッと堪えた。


「へぇー、そうだったんだな。全然気付かなかった」


 そこまで分かると、流石に前方にその反応が聞こえてしまってはいけないと、声は自然と小さくなった。


「そういうこと。さぁ、もういいでしょ」


 理久は、顔を赤くしたままこちらを見ようともせず澄まし顔でじっと前だけを見つめていた。


 色々と気になることは多かったが、今は一息にいじり過ぎてこれ以上の追求は流石の理久でも本気でヘソを曲げかねない。


 内心で「ちぇっ」と思いながら、俺も前を向いた。しかし、理久から顔を離すと自然の自分の顔が緩んでしまいそうになる。


 視線は、自然と前方の原田、そして芹沢に向いた。


 相変わらず、二人は仲良さそうに何やら話しながら笑っていた。


 そんな後ろ姿を眺めながら、まだ本当の問題は何も解決していないことは分かっていたけれど、自転車を漕ぐスピードがほんの少しだけ速くなった。

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