第18話「背中越しの涙」④


「皆、良かったら花火しない?」


 ペンションに戻って、二階でしばらく由唯と話をしていたら、階下から理久君の声が響いた。


 思わず、「きた!」と勢いよく立ち上がりそうになって、寸前でグッと堪えた。


 しかし、目の前の由唯は何も事情を知らずに、いの一番に立ち上がって階下に顔を出した。


「えっ!花火?」


 階下を見下ろしながら、足をバタバタさせている。その後ろ姿が可愛い。


 でも今は、その可愛さにではなく別の意味でニヤニヤ笑いが浮かんできそうで、慌てて顔を引き締めた。


「うん、おじさんが用意してくれてたみたいで」


 こちらからは声しか聞こえてはこないが、声を聞く限り理久君からは緊張した様子は感じられない。


 私も立ち上がって由唯の側まで行き、階下に顔を出した。


「花火?」


 なるべく自然に、明るい声を出した。


 階下では、理久君が花火の入った袋を両手に持っていて、その側では吉川と井川がソワソワした様子で袋の中の花火を覗き込んでいる。


「うん、芹沢さんもやるよね?」


 そう言って、理久君が花火を私の方に掲げる。


 少しだけ目が合う。


 すると、恐らくは事情を知っている私だけが分かるくらいに、理久君の目が一瞬大きく開き、私から目を逸らした。


 その姿に、微笑ましい気持ちになる。


「やっぱり、夏といえば花火だよなー!」

「おう、これはやっぱり外せないな!」


 吉川のテンションが高いのは相変わらずだけど、その横で井川も同じくらいテンションが上がっている。さっき外に出て行く時に見た感じでは、何だかソファに沈んでだらーっと疲れ切っているように見えていたけど、今はそんな感じは見られない。


 自然に、目が昇の方を向いた。


 今までは、視界に入っていてもそちらの方には目を向けないようにと変に意識していたけど、今目が向いたのはすごく自然だった。


 そのことに、自分自身で驚いた。どうやら、夕食の時に目を合わせてから随分自分の中での抵抗が薄れているみたいだ。


 ところが、目に映った昇は何だか様子が違っていた。


 花火にテンションが上がっている男子三人の斜め後ろで、その輪に混じることなくじっと立っている。何だか思い詰めているようにも見えるし、見るからに元気がなさそうだった。


 一体、どうしたんだろう。


 元々、昇は花火をやると言ってテンションが上がるタイプではない。どちらかというと、テンション高い皆を見て、それで内心喜んでいるのが昇だ。


 でも、明らかに今の昇はそんな感じじゃなかった。疲れてノリについていけないとか、花火でテンションが上がらないとか、そういうわけじゃなく、何だか目の前が見えているようで見えていないような、心ここに在らずなような。


「桜ー、早く降りてきなよ!」


 気付くと、既に由唯は下に下りてしまっていて、私に向かって手招きしている。


「あぁ、ごめん!すぐ下りるね」


 昇の様子は気になったけど、それを皆に気付かれないように、慌てて一階へと下りていった。


―――


「うーん、大分涼しくなったねー。気持ち良いー!」


 外に出るなり、由唯は大きく伸びをしながらはしゃいだ声を上げた。


 さっき外に出た時も思ったけど、日が落ちて暗くなった海辺は、昼とは打って変わって随分涼しくなっていた。


 室内もクーラーを入れているので涼しかったけど、海から吹く風があるおかげか、外も思いの外涼しくて過ごしやすい気温だ。


「おう、気温も良い感じだし、この時間なら誰もいないんじゃないか?」


 花火用の水の入ったバケツを持ちながら、井川が言った。


 窓から漏れ出ているペンションの明かりのおかげで、デッキを出たここからは浜辺の様子は暗闇が濃くてよく見えない。しかし、ここから聞こえてくる音は海から吹き付けてくる風の音と、等間隔に寄せては返す波の音くらいで特に人の声などは聞こえない。


「おっ!ということは貸し切り状態で騒ぎたい放題じゃないか?」

「いや、あんたが騒ぐと近所迷惑になるから、むしろ黙ってて」

「えっ、近所と思われる民家までは軽く数百メートルはあるんですが!?」


 吉川のツッコミは、由唯に綺麗にスルーされて、空しく海からの風に流されていった。


 静かな浜辺に、六人揃って足を踏み入れていく。辺りに、浜辺を踏み締めていくザッザッという音が響いていく。


 ペンションを出たばかりの時はあんなに暗く見えていた浜辺も、いざ足を踏み入れていくと次第に目が慣れてきて、ぼんやりとではあるけど辺りの景色が見えてきた。


 見つめる先には人工の光は一切見えない。それでも、こうしてぼんやりと辺りの景色が見えているのは、頭上で輝く月明かりのお蔭だった。


 ペンションを離れれば離れるほど、浜辺の中に入っていけばいくほど、その明かりはより強さを増して、辺りの風景を照らし出してくれた。


 遠く、海が見える。昼間は、太陽の光を反射させてキラキラと輝いていた海も、月光に照らし出された今は、所々が銀色に輝いていた。波の動きに合わせて、その銀色の輪郭も形を変えて、まるで海面で踊る絹のように見えた。


 それが、幻想的ですごく綺麗だった。


「夜の海って、なんか良いね」


 歩きながら、由唯が私に囁いてきた。


「うん、私もちょうどそう思ってた」


 その囁き声に合わせるように、私の声も小さくなった。何だか、秘密の宝物を二人だけで見つけたみたいでこそばゆい。


「さて、どこでやろうか?」


 浜辺も半ばほどまで来たところで、理久君が言った。


「海の近くは流石に危ない気もするから、もうこの辺でいいんじゃないか?」


 井川が提案する。


 確かに井川の言う通り、夜の海というのは綺麗だけど危なそうだ。特に反対する理由もなく、井川の提案通りに浜辺の半ばでやることになった。


 井川が持ってきたバケツを置いて、その横に理久君が持ってきた花火を広げた。


「うわ、改めて広げてみると、結構な量あるな!」


 井川が驚きの声を上げた。


 確かに、袋の中に入っていたのを見ただけでも充分量は多いと思っていたけど、改めて横に広げてみると、その量は思っていた以上だった。ほとんどは手持ち花火だけど、軽く一人当たり数十本できるくらいの量はある。


「これは、どんどんやっていかないと終わらないな!」


 言ってるそばから、吉川は待ち切れないとばかりにうずうずした様子だ。


「じゃあ、とりあえず始めていこうか」


 理久君に促され、皆でしゃがんで花火を選び始めた。


 暗闇の中だと、どれがどれなのか分からないけど、量が多いので種類は色々とありそうだった。何となく良さそうなのを選んで、一本手に取った。


「皆、自分のは取った?じゃあ、火を…って、あれ?チャッカマンは?」


 理久君は、言いながら自分のポケットに手を伸ばしたが、「あれ?あれ?」と戸惑った様子だ。どうやら、ポケットの中に入れていたはずのチャッカマンがないみたいだ。


「来る途中に落としたとか?」

「えっ、ついさっきは確かにあったはずなんだけど…」


 由唯の問い掛けに、理久君は合点がいかないみたいで、ポケットをまさぐり続けている。


「あれ?本当に落としたのかな?」

「ふふふ、理久」


 そこに、不敵な笑い声が響く。


「チャッカマンは俺だ」


 なぜか、得意げな表情の吉川の右手にはチャッカマンが握られていた。


「あれ?何で健吾が持ってるの?」

「よーし、じゃあ花火やるぞー!」


 理久君の呟きは無視して、吉川が音頭をとる。大方、さっき皆が花火選びに夢中になってる時に、理久君のポケットから吉川が奪い取ったというところか。


 でも、何で?と思っていると、


「走る俺から火を点けられるものならなー!」

「…って、待てこらー!!」


 叫ぶが早いか、吉川はチャッカマンを持って浜辺を走り出してしまった。それも、疲れを全く感じさせない全力疾走で。


 それを、慌てて井川が追いかけて行った。


 チカチカと時折点けられるチャッカマンの火と、吉川の影だけが暗がりの浜辺を遠く走り去って行く。井川も懸命に追い掛けているようだったけど、吉川の逃げるスピードは無駄に速い。


「ははは!さぁ、俺に追いつけないと、火は灯らないぞ!」


 吉川の楽しそうな笑い声が、静かな浜辺に響き渡る。確か、高校に入ってから陸上部に入ったと聞いたので、そのスピードは本当に速く、井川の影が徐々に離されていく。


「…あの馬鹿」


 隣で、由唯がボソリと呟いた。


「潰す」


 何とも物騒な呟きが続けて聞こえたと思ったら、ビュッと真横を強い風が吹いた。


「えっ?」


 何かと思ったら、勢いよく飛び出した由唯が、一気に加速して二人の後を追って行った。


 由唯はグングンスピードを上げて、次第に二人との距離を縮めていく。そして、あっという間に井川を追い越した。「えっ?」という井川の驚いた声が、静かな浜辺の中で微かに届いた。


 由唯はまだスピードを落とさず、むしろ更にスピードを上げていく。月光の照明の元で、遠くからでも分かる綺麗なランニングフォームがシルエットとして浮かび上がっていた。


 そして、とうとう由唯の影が吉川の影に迫った。


 「…えっ?何で原田が!?」という吉川の声が聞こえてきたと思うや否や、「ギャー!」という叫び声と共に吉川の影が倒れた。


 声も出せずに、唖然とその光景を見つめた。


 ここから見えたのは、月下で飛んだ由唯のシルエットが、キレイに吉川の背に飛び蹴りを決めているところだった。


「すごい…」


 隣から、感嘆の声が聞こえてきた。


 見ると、理久君は口を半開きにして、遠くで繰り広げられた光景に釘付けな様子だ。


 それに、思わず笑ってしまった。


「いや、確かにすごいけど、あれはちょっとやり過ぎじゃないかな?」


 私は、由唯のアクロバティックに驚き以上に唖然としていたのに、理久君はそれを素直に感心していた。


 今からあなたは、向こうで飛び蹴りを決めた女の子に告白するんだよ?


 思わずそう言ってしまいたかったが、心に留めたその感想は、代わりに笑いとして零れた。


 私が笑っていると、理久君も我に返ったように私の方を向いて、苦笑いを浮かべた。


「うーん、確かにそうかも」


 そして、私と声を上げて笑った。


「おーい!馬鹿から火取り返したよー!」


 由唯が、奪い返したチャッカマンをチカチカ点けながら、大きく手を振ってこちらに戻ってきた。その後ろを、腰を曲げた吉川と息を切らした井川がトボトボとついてきていた。


「おかえりー」


 笑顔で、由唯を迎え入れる。


「ただいまー。もう、この馬鹿のせいで無駄に体力使っちゃった」


 顎で吉川を指しながら、由唯がぼやく。


 でも、そんなこと言ってる割には、何だか由唯の顔は楽しそうに見える。


「お疲れさま。由唯、流石に速いねー」

「まぁねー。短距離なら割りかし自信あったから」


 言って、由唯は満足げな表情で腰に手を当てた。


「いやいや!あのスピードに乗せての飛び蹴りは流石にやり過ぎかと!」


 まだ痛めた腰をさすっている吉川が、必死に抗議の声を上げる。

 

 しかし、そんな吉川の抗議は由唯の「黙れ」の一言ですぐに小さく萎んでしまった。


「さぁ、気を取り直して花火やろう!…って、あれ?昇は?」


 意気揚々とチャッカマンを掲げた由唯が、キョロキョロと辺りを見渡す。


 振り返ると、さっきまで確かに居た昇の姿はそこにはなかった。


「あれ?さっきまで居たと思ったんだけど?」


 理久君も、居なくなっていたことには気付いてなかったらしく、辺りを見渡す。


「…えっ?まぁ、トイレでも、行ってるんじゃないか?」


 井川が息を整えながら言う。


「えーっ、火はすぐに取り返してあげたのに。うーん、どうしようか?」


 由唯が、皆を見渡しながら言う。昇を待つかどうかというところだけど、皆もそれぞれ「どうしようか?」と顔を見合わせる。


「うーん、まぁ、いいんじゃね?いないやつが悪いんだから、俺たちで先に始めようぜ!」

「「その原因を作ったお前が言うな!!」」


 呑気に言う吉川に、由唯と井川のツッコミがキレイにユニゾンした。「すいません!」と由唯に向かってだけ吉川は勢いよく頭を下げた。


 しかし、実際に昇は私たちにも何も言わずに居なくなってしまった。理久君も、今の様子では特に何も聞いてないみたいだ。


「うーん、でも、確かにどこに行ったかも分からないし…待っているのも何だから、先に始めちゃう?」


 由唯が改めて言う。皆も、それぞれにもう一度顔を見合わせたけど、「それもそうだなー」とそれぞれ頷いて先に始めることになった。


 「あれ?俺が言った時と反応が違う?」という吉川の呟きには、皆示し合わせたように自然にスルーだ。


「よし、そうと決まれば、皆輪になってそれぞれ花火を出して!」


 由唯の音頭に、皆が輪になって集まり、その手に持った花火を差し出す。


「よし、じゃあ今度こそ…点火!」


 由唯が掛け声と共に、まるで聖火のようにチャッカマンの火を輪の中央に灯した。その火に、皆一斉に花火の穂先を入れた。


 そして、


「うおー!」

「うわー、キレイ!」


 誰からともなく歓声が上がった。


 ほぼ同時に火が点いて、一斉に花火が噴き出し、暗闇に眩い光が放たれた。


 皆、持っている花火の種類が違うのか、その火は赤だったり黄だったり緑だったり別々の彩りをしていて、それが鮮やかに交錯してすごく綺麗だった。


 火が点いたのを確認するなり、それぞれ離れて花火の光を砂浜に向けた。


 何気に、花火をするのは久しぶりだった。子どもの頃は毎年のようにやっていた覚えもあるけど、高校生になってからやった花火は、これが初めてだ。


「花火、綺麗だねー!」


 私のすぐ隣に来た由唯が、明るい声で言った。花火の光に照らされたその顔は、満面の笑顔でとても嬉しそうだ。


「うん、そうだねー」


 私も、笑顔で答えた。


 横を見ると、男子三人もはしゃいだ様子で、「うおー、夏だなー!」「いや、もう随分前から夏だぞ」「まぁ、確かに花火は夏感出るけどね」とそれぞれ花火を楽しんでいた。


「いやー、これぞにっぽんの夏だねー」


 しみじみとしたように言う由唯に、思わず吹き出した。


「何それ、由唯。何かおばあちゃんみたいだよ」

「えーっ、おばあちゃんはひどいなー。わざとに決まってるでしょー」


 そうして、二人で笑い合った。


 花火は、鮮やかな黄色の光を止め処なく噴き出し続けている。光が穂先をジリジリと燃やしていく毎に、白い煙と火薬の匂いが辺りに立ち込めていく。


 初めは、点いた花火にワイワイ騒いでいた皆も、次第に静かになっていって、全員がじっと花火の光を見つめ始めた。


 辺りには、花火の噴き出す音と、僅かに火薬の爆ぜる音だけが響いていた。


「もうすぐ、今日も終わりだね」


 由唯が、ポツリと言った。


「うん、そうだね」


 由唯の呟きに、私も答えた。


 それは、ちょうど私も思っていたことだった。


「えーっ、夜はまだこれからだろー」

「阿呆かお前。流石に、これ以上は明日が持たん。俺は寝るぞ」


 吉川の声に、すぐさま井川が無理無理と手を振る。


 吉川は元気だなー、と思ったけど、吉川はそれ以上特に反論することなく「へへっ、それもそうか」と笑った。その反応で、ただの冗談だったのかな、と思った。


 それはそうだ。流石に疲れている。


 普通の旅行だったら、きっとここから夜もできる限り眠らずにはしゃぐんだろうけど、今回私たちは自転車だ。そして、明日は今日と同じ道のりをまた漕いでいかないといけない。


 だから、この花火が今日の最後のイベントになると皆が思っている。


 そして、私にとっては昇と話ができるラストチャンスでもある。


「…あっ」


 一際大きな光を放って、花火は燃え尽きた。私のを合図にしたように、皆の花火も次々に終わっていった。


 辺りには再び暗闇と静寂が訪れ、残ったのはぼんやりとした白い煙と火薬の臭いだけだった。


「終わっちゃった」


 静けさの中に、由唯の声が響いた。


 その言葉に、きゅっと胸が締まった。


 何だか、その言葉が私には別の意味に聞こえた。


「って、何しんみりしてんだ!これが最後なんだったら、むしろここで思い切りはしゃぐぞ!」


 言うなり、「よっしゃー!」とか言いながら吉川が花火の元へ跳んでいった。


「ったく、仕方ねぇーなー」


 言葉とは裏腹に、井川も楽しそうに吉川の後について行った。


 そうして、由唯と理久君の三人でポツンと取り残された。


 自然と由唯の方に視線を向けると、由唯も同じように私の方を見ていた。その顔に苦笑いが浮かぶ。


「ったく、あの体力バカ二人は…」


 バカ、の所に力を込めながら、由唯は「ふぅー」と大きなため息をついた。


 そんな由唯に苦笑いを返しながら、視線を理久君に向けた。


 今、自然に吉川と井川が離れて行ってくれた。お蔭で、この場には私と由唯と理久君だけだ。


 私が上手く立ち回れば、二人っきりにすることができる。


 そう思って視線を向けた。


「……」


 ところが、理久君は何だか俯きがちで、暗闇の中ぼんやりとしか見えないその表情は、少し固いように見えた。


 その表情に、先程心の中で思っていた自身の心境がリンクする。


 もしかすると、理久君も私と同じように思ったのかな。


 そんなことを思った。


「と言いつつ、あいつらの言うことも一理あるから私たちも楽しもう!」


 元気な由唯の声が聞こえたと思ったら、唐突にグッと手を引っ張られた。思わず、「うわっ!」と声が出て、そのままグイグイと吉川と井川の元へと引っ張られていく。


「ちょっ、ちょっと由唯、急にそんなに引っ張らないで」


 由唯に抗議の声を上げるが、由唯は嬉しそうに私の方を振り返って、お得意の悪戯っ子の表情を浮かべて何とも楽しそうだ。いつも、私が由唯を許してしまうズルい顔だ。


「ほら、理久君も早くおいでよー!」


 私の後方にいる理久君にも、明るく声を掛ける。その声につられて、私も振り返る。


 理久君は、僅かに俯かせていた顔を上げて、こちらを見た。


 その視線が、まっすぐ私とぶつかった。


 大丈夫かな?


 薄暗がりの中、理久君の表情はそう言っているように見えた。それはまるで、さっき過った自分自身の心境を体現している姿に見えた。


 自分自身に過った不安。その姿が、今は遠くで立っている理久君の姿に重なる。


 大丈夫かな?


 理久君ではなく、自分自身が問い掛けてくる。


 でも、私はその幻想を頭で振り払ってグッと唇を結んで笑顔を浮かべた。


 そして、理久君に向けて小さくピースサインを送った。


「うわっ!」


 更にグイッと強く引っ張られて、少し態勢を崩す。そのせいで、理久君の表情を見る間もなく視界は強制的に前に向けられた。


 私が送った小さなピースサインが、理久君にちゃんと届いたかどうかは分からない。


「さて、どれにしようかなー」


 花火の元に着いた由唯は、しゃがみ込んで花火を選び始めた。


 ウキウキした様子の由唯の後ろ姿に、まったくもう、と内心でため息をつく。


「うおー!」


 静かだった浜辺に、賑やかな笑い声が響き、眩い光が前方で炸裂した。すでに花火に火を点けた吉川と井川が、再び放たれた光に歓声を上げていた。


「あっ、チャンス!」


 それを見つけると、由唯は火をもらおうと二人のところに跳んでいった。


 その勢い、元気っぷりに、由唯がいなくなったことをいいことに今度はちゃんと溜息を漏らす。


「芹沢さん」


 その時、後ろから控えめな声で呼び掛けられた。


 振り返るより前に、理久君が隣にしゃがみ込んできた。


「さっき、芹沢さんピースしてくれたよね?」


 理久君の様子は、どこか怯えているようで、恐る恐るといった感じだった。


「それって…」

「理久君、実は私も決めていることがあってね」


 理久君が言い終わるより前に、先に言葉を投げた。


「実は、私もこの後、昇と二人で話をしようと思ってるんだ」

「えっ?」


 私の言葉に、理久君が驚いて目を丸くした。


 何だかその表情が、鳩が豆鉄砲を食ったように驚いていたので、慌てて手を振って補足する。


「あっ!と言っても、別に何か言うとか理久君みたいなことをするとかじゃなくて!ただ、話をしたいな、ってことだからね!」


 言いながら、私は何でこんなに焦っているんだろう、と思う。なぜか、気温と関係なしに顔も少し熱い。


 私の言葉に、理久君も「あぁ、そういうこと」と合点がいった様子で、柔らかく笑ってくれた。


 「そうそう、そういうことなんだよ」と、私も気を取り直して言葉を続ける。


「私も、きっと今日のこの夜を逃したら、もう昇と話ができるなんて機会は訪れないと思う。でも、だからさっきの由唯の『終わっちゃった』って言葉に、何か別の想像しちゃって不安になったんだ」


 また、理久君が驚いた表情で私を見つめる。それが、やっぱりさっき理久君は私と同じことを考えていたんだ、という証明になった。


 でも、だからこそ私はもう一度理久君に笑顔を向けた。


「今日、この夜が不安なのは理久君だけじゃないよ。でも、きっとお互いに前に進むきっかけになると思うから、頑張ろう」


 そう言って、もう一度笑顔を浮かべて理久君にピースサインを向けた。


 理久君は、じっと私の顔を見つめていた。


 その口元が、ゆっくりと上がった。


「…うん、そうだね。お互い、頑張ろう」


 そうして、理久君も小さくピースサインを返して笑ってくれた。


「おーい、二人とも何してるのー?早くおいでよー!」


 火を点けた花火を振りながら、由唯が私たちに声を掛けた。その後ろで、吉川と井川は楽しそうにはしゃいでいた。


「うん、すぐ行く!」


 適当に花火を一つ取って、由唯の元へと走り出した。その横を、理久君も同じように花火を手に取って走り出していた。


 その理久君をチラリと見ると、その表情はまだ固さを残しているようだけど、さっきまでの不安な表情はなくなっていた。


 私の視線に気付いたのか、理久君も一瞬こちらを見たと思うと、小さくピースサインを向けた。


 そして、シュッと私より一歩早く踏み出すと吉川と井川の元へと走って行った。


 その後ろ姿に、手に取った花火を握り締めて、私も由唯の元に駆け寄った。


―――


 四人でやる花火は、あっという間になくなっていった。


 最初は、それぞれが一本ずつ楽しんでいたのが、早々に吉川と井川が痺れを切らして、一度にやる本数を二本,三本と増やしていき、それにつられて由唯も途中から日本同時の両手持ちでやるようになっていた。


 皆、ただ砂浜に向けるだけには飽き始めて、空中に文字を書いたり、私と由唯はお互いに花火を交錯させたり、井川と吉川と理久君は冗談でお互いに火を向け合いながら決闘のようなことをしたり、それぞれが思い思い自由に花火を楽しんでいた。


 そうして、あんなに多いと思っていた花火も次第に数が減っていった。


「よーし、じゃあそろそろ派手なやついきますか!」


 手持ち花火も残り半分といったところで、吉川がいそいそと噴き出し花火の準備を始めた。ほとんどが手持ち花火だった中で、それは数少ない置き型の花火だった。


 そして私は、花火ももう少しというこのタイミングを待っていた。


「ごめん、ちょっとその前にお手洗いに行ってもいいかな?」


 おもむろに手を挙げて、吉川に申し出る。


「うん?おお、構わないぞー」


 浜辺に噴き出し花火を固定し終えた吉川が答えた。


「ありがとう。由唯、怖いから良かったら一緒に付いてきてくれない?」


 吉川に礼を言って、そのまま由唯に声を掛ける。


「うん?いいよー」


 由唯は、特に疑問に思う様子もなくお願いを了承してくれた。


「もう、桜は仕方ないなー。可愛いなー」

「ごめんねー」


 照れ笑いを浮かべながら、軽く返事をする。


 そして、場を離れるところでちらりと理久君の方を見た。


 ここだよ、理久君。


 心で語り掛けた声に応えるように、理久君が私の方を見た。


 その理久君に、ふっと微笑みを向けた。


「…あっ。じゃあ、僕もトイレ行きたいから、一緒に行こうかな」


 なるべく自然体にしようとしているのは分かるんだけど、理久君のその声はどこかぎこちなく聞こえた。それに思わず顔の表情が緩んでしまいそうになるのをグッと堪える。


「おっ、エスコートか?理久」


 そこに、すかさずからかいを入れてくるのは井川だ。でも、今のタイミングでそれはむしろナイスアシストかもしれない。


「もう、そんなんじゃないよー」


 照れ笑いを浮かべながら、理久君は私たちに付いてきた。


「えーっ、理久君は私たちをエスコートしてくれないの?」


 でも、天然小悪魔な由唯(本人に自覚はないけど)はここでサラッとそんなことを言ってしまう。


「えっ?いや、そういうわけじゃないけど…!」


 案の定、色んな意味で慌てた様子でアワアワしている理久君に対して、由唯は楽しそうにコロコロ笑っている。


 もう、この子も悪い子だなー。


 今の理久君の心情を慮ると、今の由唯の小悪魔っぷりには、ただただ静かに苦笑いを浮かべることしかできなかった。


 井川と吉川が理久君を囃し立てる声を背中に聞きながら、三人連れ立ってペンションの明かりを目指して砂浜を歩いていく。


 さっきまで花火で明るかった浜辺も、やはりその光がないと暗く、道しるべは歩く先に見えるペンションの明かりだけだった。


 視線を落として歩いていると、薄暗がりの中に一定のリズムで歩みを進める自分の足だけが見える。歩みを進めるのに合わせて、砂を踏む音が辺りに響いていく。


 静けさの中で、少しずつ心臓の鼓動が早まってきていた。その音が、少しずつではあるけど大きくなってきているように感じた。


 思わず、この音が周りに聞こえないようにと胸に手を当てる。


 覚悟は決めたはずだ。それなのに、自分自身の心はあまりに正直だ。


 理久君も、ついてきたは良いもののさっきから一言も声を発していなかった。恐らくは、私と同じ状態でとてもじゃないが話す余裕なんてないのだろう。こういうところは、さっきもそうだったけど私と理久君はよく似ている。


 こういう時、率先して話を切り出して場を盛り上げてくれる由唯も、今は珍しく何も話さず私と並んで歩いていた。


 どうしたんだろう、とチラリと隣の由唯に視線を向けた。


 すると、由唯は何やら歩きながらずっと空を見上げていた。


 何かあるのかな、とそれにつられて顔を上げて空を見上げた。


 そして、


「綺麗…」


 思わず、声が漏れた。


 見上げた空いっぱいには、無数の星空が散りばめられていた。


 下ばかりを見て歩いていたら気付かなかった。足元は明かりもなく暗いけれど、その暗がりの一方で空を見上げればこんなにも綺麗な星空が広がっていたんだ。


「でしょ?」


 星空に目を奪われていると、隣で勝ち誇った声が響いた。


 見ると、由唯はしてやったりといった表情でこちらを見つめていた。


「もう、桜ずっと下を見て歩いてて、全然気が付かないんだもん」


 それは確かにそうだ。下ばかりを見ていては、見つかるはずのものも見落としてしまう。


「うん、確かに気付いてなかった」

「じゃあ、気付かせてあげた私のお手柄だね」


 そう言って、由唯は「えっへん」と腰に手を当てたポーズでおどけて見せた。


 その態度に、思わず笑ってしまった。


「何それ」

「だって、下向いてばかりで色々気付いていない桜に、気付くきっかけをあげたんだから、それはお手柄でしょ」


 言いながら、由唯は星空から私に目線を移した。


 その目線に、吸い寄せられるように私も由唯の方を見た。


 由唯は、とても優しい表情をして微笑んでいた。しかし、なぜか私にはその表情が少し寂しそうに見えた。


「…昇を、探しに行くの?」


 由唯は、静かに言った。


 それは唐突に投げられた言葉だった。


「…うん」


 でも私は、すぐに頷いて答えた。何だか、その言葉は予想していたものだった。


 すると、由唯は「やっぱりそうかー!」と言いながら両手を突き上げて伸びをした。


「そうだと思ったんだよね。で、私はあいつらの所戻ったら上手い事誤魔化しておいたらいいかな?」


 察しの良い由唯は、私がお願いする前に私がしてほしいことを分かってくれている。


 その事に感謝しつつ、今回は頭の片隅で悪戯心が顔を覗かせる。


 ありがとう由唯。でもね、今回はそれだけじゃないんだよ。


 私が行った後に起きること。その時の由唯の驚いた顔が浮かんできて、思わず顔が緩んだ。


「うん、お願い由唯。だから、理久君と一緒に吉川と井川の所戻っててくれたらいいから」


 言いながら、視線を理久君に移す。


 理久君は、少し驚いたような表情を浮かべたが、すぐに優しい笑顔を私に向けてくれた。


「頑張ってね、芹沢さん」


 優しい、でもはっきりとした声で、理久君は言ってくれた。


 それは、私に対しての静かなエールだった。


 その理久君、そして由唯に、私も笑顔で答える。


「ありがとう、二人とも。私頑張ってくる。だから、理久君も頑張ってね!」


 そうして、二人に礼を告げて、私はペンションから向きを変えて、海の方へと駆け出した。最後の一言は、私から理久君に向けてのエールだ。


 駆けてく私の後ろで、由唯のキョトンとした表情と、理久君の少しドギマギした様子が思い浮かんできて、思わず口元が緩んだ。


 さぁ、私も頑張ろう。


 自分自身に言い聞かせ、小走りのまま辺りを見回していく。


 花火を始めた時、昇はトイレに行っているんじゃないか、と井川は言っていたけど、恐らくそういうわけではないと思う。


 そもそも、トイレにしてはあまりにも長すぎるし、誰にも何も言わずにどこかへ行ってしまうというのは昇の性格的にあまり考えられない。


 それでも、現に一人でどこかに行ってしまっているということは、理由は分からないけど、昇に何かあったんだ。


 そして、その何かがさっきペンションを出てくる時に見た昇の表情に繋がった。


「……」


 思わず、足が速くなった。今よぎった嫌な予感に、まさかとは思いつつ、それでも昇のあの時の表情は、そのまさかを思わせるほどに私を不安にさせた。


 なるべく冷静にならなければ、と心を落ち着かせて、今一度考えを巡らせる。闇雲にこの暗がりの中を探し回っても、当然見つかるはずはない。


 でも、月明かりがあるとはいえ、この暗さの中を一人で遠くまで行くとは考えにくい。恐らくは、あまり遠くないところ、それでいて私たちになるべく見つからないところに昇はいるんじゃないだろうか。


 となると、この海沿いで、私たちのところから見えずに姿を隠せるところといったら、大きな岩が点在している岩場の辺りくらいだ。それ以外は、月明かりの元でこの浜辺は見通しが良過ぎる。

 一縷の望みを託し、足を速めつつ心は落ち着けて岩場へと近付いていく。


 そして、


「……見つけた」


 思わず声が漏れて、足を止めた。


 私たちがいた所からも更に海の近く、ゴツゴツとした岩が点在しているところに、昇の姿を見つけた。遠くからでは、岩場の陰に紛れて人影とは気付けないけど、ここからなら岩場の間に立っている人影は見て取れた。そして、まだ顔も見えていないのに、佇まいで間違いなく昇だと確信した。


 昇は、打ち寄せる波がギリギリ届かない波打ち際に立っているようだった。


 息が上がっていた。小走りでここまで来たというのもあるけど、きっとそれだけじゃない。


 喉元にせり上がってきた唾を飲み込んで、ゆっくりと歩き始めた。


 砂浜を踏み締めていく音だけが辺りに響いていって、それ以外に音は聞こえなかった。


 それが、次第に心臓の音に上書きされていく。


 まるで、頭の中で心臓の音が鳴っているようにうるさい。


 その音がボリュームを上げるごとに、何だか顔も熱くなってくる。海から吹き付けてくる夜風は涼しいはずなのに、今はそれでも顔の熱さは冷ませない。


 手の先や、足の爪先までも痺れるようにジンジンしていて、自分の身体なのに自分の身体じゃないみたいな感覚。


 そんな中でも、足は止まることなく動き続けている。


 先に見えている昇の姿だけは、痺れる風景の中でも切り取られたようにはっきりと見えていて、そこを真っ直ぐ見据えて、ただ歩みを進めた。


 一体、何て声を掛けたらいいんだろうか?


 話をしてみるということばかり考えていて、最初に何て言って声を掛けるか考えてなかった。

昇、と呼び掛けてもいいんだろうか。いや、やっぱりここは澤島君の方がいいのか。それとも……


 なんて、声を掛けようかと考えた時に、真っ先に浮かんできたことが「何て呼ぼうか?」ということに、我ながら苦笑する。


 でも、表情は内心のように笑ってくれてはいない。


 頭の中で目まぐるしくそんなことを考えつつ、歩みは止めない。ここで止めてしまっては、もう動けなくなるような気がした。


 ここで行かないと、多分もう昇の近くには行けない。


 そんな気がしていた。だから、怖気づきそうになる気持ちを懸命に押さえ込みながら、ただ前に進んでと、自分の足を動かした。


 そして、


 あと数歩で昇に触れられる場所まで辿り着いた。


「…………」


 ようやく、足を止めた。


 目の前に、昇がいる。随分遠くにいると思っていた昇が、今はすぐ目の前にいる。


 さっきまであんなに煩かった心臓の音が遠くに聞こえて、代わりに優しい風の音と波の音が聞こえた。


 あぁ、ここはこんなにも静かだったんだ、と今更ながらに思った。


「……えっ?」


 昇が、ゆっくりと私の方に顔を向けた。


 そして、私の顔を見るなり本当に驚いた表情を浮かべた。


『何で、お前がここに居るんだ?』


 その目は、その表情は、そう言っているように見えた。


 それもそのはずだ。これで、昇は何の用事があったわけでも何でもなく、ただ一人になりたかったのだと分かった。


 まさか、ここに誰かが来るなんて。今の昇の顔はそんな顔。


 そして、それが私であれば尚のことだ。


「……の、」


 ゆっくりと、言葉を口にする。


 ここに来るまでの間で、何度も何度も考えた。


 どちらで言うのか、ものすごく考え抜いた。


「昇」


 そして、この名前で呼ぶと決めた。


 心の中では、何度も呟いてきた名前を、随分久しぶりに本人に告げた。


 心臓の鼓動はまだ遠くの方で鳴っていて、自分の声がやけに明瞭に聴こえた。


 言えた。


 最初に思った感想はそんなこと。ただ、名前を本人に言えただけなのに、何でこんなに私は喜んでいるのか。


 そこで私は、ずっと昇に「昇」と呼びかけたかったのだと改めて気付いた。


「……花火、しないの?」


 我ながら、ぎこちないなと思いながら、口をついて出たのはそんな言葉だった。


 表情は、昇に警戒されないように自然な笑顔。そう思っているのに、笑顔を作ろうとしている顔は引き攣っていて、上手く笑顔ができているかどうかが分からない。


 いつも、由唯の前とかでは普通にできている笑顔の作り方が、今この場所ではよく分からなかった。


「……」


 私の問いかけに、昇は答えなかった。


 まるで、何を言っているか分からないかのように、じっと私を見つめたまま何も言わず、表情も変わらない。


 それは、目が合うとすぐに目線を逸らされていた時よりも、何だか寂しく感じた。


 なんで、目は合っているのに、昇は私のことを見てくれていないの?


「吉川と井川、向こうの方で何かすごいはしゃいでいるよ」


 沈黙が怖くて、紡げるだけの言葉を紡いだ。


「このままじゃ、あの二人にほとんどの花火使い尽くされちゃうよ」


 笑ったつもりが、その笑い声は乾いて掠れてしまって、喉に嫌なざらつきだけが残った。


 お願い、何か返事して。


 そう心の中で呼び掛けても、当然その呼び掛けは昇には届かない。


 だから、昇からの返事はない。


「……昇」


 もう一度、その名前を呼んだ。


「もしかして、何かしんどいことでもあった?」


 私の声に、昇は僅かに身じろぎした。初めて、昇が私の問いかけに耳を傾けてくれたと感じた。


 それに一縷の望みを託して、言葉を続ける。


「ごめん、今の私がこんなこと言う筋合いなんてないかもしれないけど、ペンション出る時から何だか元気ないように見えて。もしかしたら、そっとして欲しいって思ってたのかもしれないけど」


 これは、私自身のエゴだ。


 昇のことを心配している。それは間違いなく本心なんだけど、自分の中の卑怯な自分は、それをただ言い訳にしていることを知っている。


 私は、心配していることをきっかけに話をしようとしている。


「でも、昔の昇だったら、そんな表情をしている時は、本当は誰かに話を聞いて欲しいって思ってた。だから、今もそうなんじゃないかと思って」


 それでも、心配しているという自分の気持ちも間違いなく本心だ。


 この旅に来て、少しだけ昇の思っていることが分かったような気がして、そして自分の気持ちにも少しだけ素直になれた。


 だから、話したいという気持ちも、心配しているという気持ちも、どちらも間違いなく今の私は持っている。


「だから、迷惑かもしれないとは思ったけど、どうしても気になっちゃって」


 頭の奥が痺れていた。自分の感情が言葉になって溢れ出していくっていうのは、こんなに苦しいものだったのか。


 届いて欲しい。そう思って必死に心の声を言葉に変えた。


 その時だった。


「芹沢」


 初めて、私を呼び掛ける声が耳に届いた。


 久し振りに私に向けて掛けられた声。今日一日で何度も聞いていた声なのに、自分に向けられているだけで、こんなにもその声は違ったものに聴こえた。


 二人しかいないこの場所で、紛れもなく昇は私に話し掛けた。


 それが嬉しいはずなのに、同時に胸の中に切なさが降りた。


 嬉しいはず、なのに。


 そう思っているはずなのに、


 何で、昇は「芹沢」って呼ぶの?


「もう、俺はあの頃の俺じゃない」


 昇は、話し始めた。さっきまでずっと押し黙っていたのが嘘のように、昇は話し始めた。その全てがちゃんと私に向けられている声なのに、さっき一瞬よぎった喜びは、もう私の中にはなかった。


 むしろ、私はこれ以上昇の声を聴きたくないと思っていた。


「俺があの頃の俺じゃないように、芹沢ももう変わっている。友だちも変わったし、環境も変わった。同じ高校に通っていても、俺たちはもう一緒には居ない」


 動けない。昇の言葉を止めたくても、身体も動かなければ声も出ない。


 あの頃のように「桜」と私のことを呼んでくれない昇の声を、昇から吐き出されていく言葉を、ただ黙って聴いていることしかできなかった。


「変わってしまったんだから、俺はこのままでいいと思ってる」


 それでも、昇は言葉を止めない。


「もう、あの頃に戻らなくていい。今まで通り、お互い話すことなく、顔を合わせることなく、今まで通り過ごしていけばいい」


 そして、昇は真っ直ぐ私の目を見た。


 今、自分がどんな表情ができているか分からない。


「もう、それでいいんだ」


 そのまま、昇はゆっくり私に向かって歩いてきた。


 昇が、砂浜を踏みしめていく音が聞こえる。


 そして、私の横を通り過ぎた。


『……だ』


 動けない私は、次第に遠ざかっていく昇の足音を背中に聴いていた。


『…やだ』


 でも、動けなくても、はっきりと今までの想いが心の中で形を作った。


『嫌だ!』


 心の中で、言葉が爆発した。


「私は、昇と話がしたい!!」


 振り返って、昇の背中に向けて叫んだ。


 その叫びに、昇は振り返ろうともせずただ歩き続けている。


「何で私を避けるのか知りたい!何でそんな風になっているのか知りたい!何で私たちがこんな風になっているのか知りたい!」


 ずっと心の中で溜まっていた言葉が止めどなく吐き出されていく。その言葉を、少しずつ遠ざかっていく背中にぶつけていく。


 今まで、ずっと思っていたこと。ずっと心の奥の方で閉じ込めていたこと。 


 何で、私は今ここに来ているのか。


 何で、私はこの旅に来たのか。


 炎天下の中、ひたすら自転車を漕いでここまで来た。


 苦しい胸を抑えながら昇の目の前まで来た。


 しんどかったし、すごく迷ったし、色々戸惑ったし、本当に苦しかった。


 でもそれは全て、ずっと昇に言いたかったことを伝えるためだ。


「私はただ、昇と話がしたかった…」


 だから、ここまで来たんだ。


「だから…!」

「芹沢」


 昇が、足を止めた。


 さっきと同じ声が私の耳に届く。


 でもそれは、冷たく私の頭に入り、私の言葉を止めた。


 そして、昇は私の方を振り返った。




「俺は、芹沢と話をしたくない」




 その言葉が、私の胸を貫いた。


 張り詰めていた想いが、音を立てて胸の中で弾けてしまったように思った。 


 今まで溢れ出していた言葉が、全て内側で零れ落ちてしまう。


「……」


 昇はそれ以上何も言わず、踵を返してそのまま私から離れて行ってしまった。


 声も掛けられず、追いかけることもできず、私はただその背中を見つめることしかできなかった。


 その風景が、ジワリとぼやけた。


 言葉が涙に変わったかのように、止め処なく溢れ出してきた。


 でも、嗚咽は漏れず、まるで昇に気付かれるわけにはいかないと、押し殺すようにただ涙だけが流れ続けた。


 頰を伝った涙が、砂浜に落ちていく。どんどん、砂浜に涙の痕が残っていく。


 遠くから、打ち寄せる波の音が聞こえた。でも、ここまでその波が届くことはない。


 あぁ、波がここまで打ち寄せてくれたら良かったのに。


 波は、絶え間なくこちらに打ち寄せてきてくれているのに、私の元までは届かない。


 波が届いてくれたら、この涙の痕も攫ってくれるのに。


 打ち寄せる波は、私の元には届かない。


 私の想いは、昇には届かない。


 私は、ただ泣いた。誰も居なくなった浜辺で、ただ一人きりで泣いて、その僅かな泣き声だけを、波の音が攫っていってくれた。

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