第17話「背中越しの涙」③


 初めて、人を好きになった。


 その想いが、五年の年月を掛けても変わらず自分の中で在り続けることに驚き、そしてそうやって想い続けられていることに、この想いは紛れもなく本物なのだと自分自身で気付かされた。


 きっかけも始まりも、それは本当に些細なものだった。


「確か、南理久君だよね?」


 中学二年生に進級し、新しいクラスになって少し経った四月の半ば。


 北陸地域の春の訪れは少し遅い。世間のニュースでは、入学式と桜は一緒にあるもので、桜の下で入学式を祝うなんて光景が毎年のようにテレビで流れている。


 しかし、冬の寒さがなかなかすぐに退いてくれない富山では、四月も半分を過ぎた頃に桜は満開を迎える。


 新しいクラスに馴染み、新しい友だちとも少し話し始める頃に、ようやく桜は咲いてくれる。


 二階の教室の窓からも、校内の桜の樹が見えて、時折風に舞った花びらが教室内に迷い込んでくることもある。


 そんな頃のことだから、あの日のことはよく覚えている。


「…うん、そうだけど」


 突然声を掛けられたので、咄嗟に出た声は何とも弱々しく頼りなかった。


 しかし、そんな僕の様子に、原田さんは気にすることなく笑顔で笑いかけてくれた。


「南君も、テニス部なんだよね?」


 そういえば、この時が話すのは初めてだったから、原田さんからの呼ばれ方は「南君」だった。


 今思い返すと、それも何だかこそばゆい。


「そうだけど…何で知ってるの?」


 原田さんは、初対面の頃から今と変わらず屈託のない感じだった。中一の春休み直前に転校してきたばかりで、クラスどころか学校にもまだ慣れてなかった時期だったはずなのに、それを感じさせないくらい原田さんは明るかった。


 むしろ、突然可愛い子から話し掛けられたこちらの方が動揺してしまって、本当に記憶にあるように返事ができていたかどうかは怪しい。


「あぁ、突然でごめん。実は、隣の席の澤島君から南君もテニス部って聴いて、私もテニス部入るから、今のうちに挨拶しておこうと思って!」


 そう言って、原田さんは真っ直ぐ僕を見ながら満面の笑顔を浮かべた。


「…あっ、そうなんだ」


 この時の僕は、一体どんな顔ができていたんだろうか。


「うん!また、良かったら仲良くしてね!」


 笑顔で言いながら、原田さんは自然に手を差し出して握手を求めてきた。


 戸惑いながらその手を握ったけど、その時に自分がなんて言っていたのかは覚えていない。


 恐らく、きっかけと始まりはこの時なんだと思う。


 小学生の頃、山の方の学校だったのでクラスメイトは八人しかいなかった。そのうちのほとんどが女子で、男子は自分含めて二人しかいなかった。


 小学生なんて、男子女子の垣根はあってないようなもので、更に男女比は圧倒的に女子が多い。

そんな状況では、男子の肩身は狭くて、先に身体が大きくなる女の子たちの活発さに押されて、小さく過ごすしかなかった。


 いじめられていたわけでも、仲が悪かったわけでもなかったけど、身体も小さく今より更に大人しかった自分は、時には使いパシリをさせられたり、すぐ赤くなることをからかわれたりしていた。そうして、女子たちが賑やかにはしゃいでいる横で、大人しく笑っていることしかできなかった。


 女の子たちとしては、単なるじゃれ合いのつもりだったのかもしれないけど、それが男子としては嫌だったんだと思う。


 中学校に入り、小学校の時とは比べものにならない数の同級生たちと同じクラスになった。

同じ部活だった昇たちとはすぐに仲良くなれたし、男友達も沢山増えた。それでも、小学校の時のそうした気持ちはずっと胸の中に留まり続けて、結局中一の一年間はちゃんと女子と話をすることはできなかった。


 そうした中で、原田さんは初めて同じ目線で自分に接してくれた女の子だった。


 それが何だか新鮮で、何よりも本当に嬉しかった。


 それから、原田さんはすっかりクラスや部活にも馴染んでしまって、昇や亮,健吾とも仲良くなった。


 それに便乗するような形で、僕も少しずつではあるけど原田さんとも仲良くなっていき、五人で一緒にいる時間は増えた。


 そして、桜が散って春が過ぎ、花びらが若葉に変わった六月のある日、決定的に原田さんを好きになる時が訪れた。


 部活からの帰り道、突然原田さんが昇のことを「ボーイフレンド」と呼んだのだ。


「へっ?」


 初めて原田さんが昇のことをそう呼んだ時、僕と亮と健吾は、全く同じ間抜けな反応をした。


「おい、誤解を招く言い方は止めろ」

「誤解ってー?」


 嫌そうな顔を前面に押し出して言う昇に対して、原田さんは飄々とした様子で返答も軽い。


「ボーイフレンドでも何でもないだろ」

「えっ、昇は私の友達じゃないの?」

「いや、友達ではあるけど……って、本当に面倒臭いなそれ!」


 何やら、昇は頭を掻き乱してイライラしているが、原田さんはカラカラと笑ってなんだか楽しそうだ。


 それはまんま、恋人同士の二人のやり取りに見えた。


「あのー、お二人は付き合い始めたんでしょうか?」


 恐る恐る手を挙げて、健吾が聞いた。


「違う!こいつがボーイフレンドって言ってるのは、そういう意味じゃない!」

「そういう意味って?」


 すかさず、原田さんがニヤリと笑って間に入る。


「…!おーまーえーなー!」


 いよいよ、本格的に怒り出した昇に、「あはは!ごめんごめん」と原田さんは本当に楽しそうだった。


 そのやり取りについていけず、僕はただ呆然とするだけだった。


「変な噂が立ってたから、じゃあいっそのこと昇をボーイフレンドにしようと思ったわけです。文字通り、『男友達』って意味で」


 つまらない手品のタネを披露するかのように、原田さんは両手を左右に広げてくるりと回ってこちらに笑いかけた。


「…そういうわけだそうだ」


 一方の昇は、不機嫌そうにそのまま前を歩き続けている。


「なんだ、そういうことだったのかー……って、なるか!」


 この当時から、健吾はノリ良くリアクションも大袈裟だった。


「っていうか、それってあり?」


 健吾の大袈裟なリアクションに対して、亮は至って冷静な反応だ。


「ありあり。というか、周りが勝手にそう言ってるんだから、同じように勝手に勘違いさせればいいの」


 言って、原田さんはまたくるりと前に向き直って歩き出した。


 そして、前を歩く二人の後ろ姿を見つめながら、亮と健吾は「やれやれ」と言わんばかりに目を合わせて、軽いため息をついて歩き出した。


 しかし、僕はすぐには歩き出せなかった。


 その時、完全に自覚してしまった。


 僕は、原田さんが好きなのだと。


 昇と原田さんが一緒に前を歩く姿に嫉妬した。原田さんにボーイフレンドと呼ばれた昇に嫉妬した。そして、本当は付き合っているわけではないと知ってほっとした。


 恐らく、初めて自分の中で友だちに対して黒い感情を抱いた。


 嵐のように舞い込んできた感情の渦に対処しきれず、少し先を歩く四人の後ろ姿を眺めて、慌てて後を追って歩き出した。


 人を好きになるということは、もっと楽しいことなんだと思っていた。


 色んな友達と一緒にいる時は、そんな話は時たまあって、誰が付き合った付き合わないとか、誰々はどうとか、誰々が好きだどうだとか。


 女の子に対しての苦手意識も手伝って、基本そんな話をしている時は、横でただニコニコ笑っているしかできなかった。


 それでも、恋人ができた友達は、誰もが楽しそうで嬉しそうで、皆一様に嬉々としてそのことを話していた。


 それを見て、楽しいことなんだろう、という印象だけ受け取って、でもそんなことが自分に訪れるんだろうか、と疑問に思いながら、ずっと遠くからそのキラキラしている光景を眺めていた。


 でも、実際に自分にそれが訪れてみると、その印象はガラリと変わった。


 気が付けば、ほとんどの時間で原田さんの顔が浮かんできて、何度振り払っても何度も浮かんできてしまう。


 そのことを嬉しいと思うと同時に、自分より仲が良い昇たち三人のことを羨ましいと思ってしまって、そこに混じっていけない自分の情けなさに落ち込んだ。


 色んな友達が嬉々として話す気持ちなんて、自分の中にはほとんど浮かんでこなかった。


 それ以上に、三人程原田さんの近くに行けない自分への苛立ちの方が募っていくばかりだった。


 今まで抱くことのなかったその苦しい感情に、こんなことなら気付かなければ良かったと何度思ったことか。


 それでも、「理久君」と呼んでくれる原田さんの笑顔を見る度に、どうしようもなく嬉しくなっている自分がいて、何もできなくても、どうしようもないんだと思い続けることしかできなかった。


 自分の感情に大いに振り回されながら、そうして結局何もできないまま中学校を卒業してしまった。


 高校に入って、少しは何か変わるだろうかと思っていた気持ちは特に変わることなく、同じ想いを抱ける人にも出会えなかった。そこに、部活の忙しさも重なってきたものだから、そこに新たな気持ちが芽生える余裕はなかった。


 そして、この旅行に誘われた。


 胸の奥の燻りが再燃するのを感じて、そして同時に、中学の時に何もできなかった自分自身と決別したいと強く思った。


 昇は、この旅の名前を「海に向かって」と名付けた。


「海に向かって」


 何か、その後に続く言葉があるように、昇はこの旅に名前を付けた。


 そこに何か意図があったかどうかは知らない。


 でも、少なくとも僕は、自分自身の中でそこに続く言葉を持っている。


 海に向かって、そして僕は、



「自分の想いに決着をつけるんだ」




―――



 外に出ると、優しい風が浜辺には吹いていた。



 理久君が出て行ったのを、扉の閉まる音で確認して、少し時間をずらして言われたペンションの裏に行った。そこには、理久君がソワソワした様子でキョロキョロと辺りを見渡していた。


 見るからに落ち着かない様子の理久君に、今まで我慢していたにやけ顔が思わず出てしまいそうになる。


「ごめん、お待たせ」


 ペンションの中まで聞こえないとは思うけど、大きな声だと流石にバレてしまいそうだ。理久君に聴こえるくらいの、気持ち小さめの声で呼び掛ける。


 理久君は、私を見つけると一瞬笑顔を浮かべたが、緊張のせいかその顔は固い。


「いや、こっちこそごめんね、突然呼び出して」

「ううん、それは全然構わないんだけど…」


 言いながら、チラリとペンションの方に目を向ける。


「芹沢さん、何て言って出てきたの?」

「えっ?普通に、電話してくるーって言ってきたけど?」


 何気なく答えて、手に持っていた携帯をヒラヒラと振って、ポケットにしまった。


「あっ、その手があったか…」

「あれ?むしろ理久君は何て言って出てきたの?」


 聴くと、理久君は頭をポリポリ掻きながら、何やら気まずそうだ。


「いや、夜風に当たってくるって…」


 その返答に、思わず笑ってしまう。


「…芹沢さん、笑わないでよー」

「ごめんごめん、なんか、理久君っぽいって思って、つい」


 片手で笑いが溢れる口元を隠しながら、思ったままの感想を言う。


 他の三人がそれを言って出てきたら完全に違和感しかないけど、理久君なら全然まかり通る気がする。


「変に勘ぐられてなければいいけど…」

「あぁ、それは多分大丈夫だよ。理久君なら、その理由でも全然違和感ないよ」


 今思った感想をそのまま伝えて、笑顔を浮かべる。


「それで、用件なんだけど…」


 理久君が、早速用件を切り出そうとするが、なかなかその先が続かない。視線も、私はずっと理久君を見ているが、一向に目は合わない。


 ここで、こちらから言ってしまってもいいけど、それは勇気を出そうとしている理久君に対して失礼だ。ここは、じっくり待ってあげるのが友達としての務め。


「…芹沢さん、何となく気付いてるよね?」


 少し俯き気味なままこちらを見た理久君は、恐る恐るといった感じで、何だか捨てられた子犬みたいだった。


「うーん、多分」


 言って、照れ隠しに笑って頰を掻く。改めて聴かれると、想像している内容からして少し照れてしまう。


「由唯のことだよね?」


 なるべく自然な調子で、その名前を出す。


 すると、さっきと同じように理久君は固まってしまって、何だか周りの空気も固まってしまったように感じる。


 さっき以上の明らかな反応に、ほぼ確信する。


「…うん。やっぱり、分かるよね?」


 「参ったな」と言わんばかりに、理久君は苦笑いを浮かべているが、薄暗がりの中で見えるその表情はとても優しい。


 その優しさに、私も精一杯の優しさで応えてあげたいと思う。


「うん、分かっちゃったなー」


 なるべく、軽い感じで少し砕けた口調で言う。


 そうしないと、むしろ私が照れてしまって変な感じになりそうだ。


「あぁ、やっぱり分かっちゃうのかなー…」

「いや、でも分かったのは本当にさっきだし、それまでは全然分かってないから大丈夫!」


 何が大丈夫なのか自分でもよく分からずに、とりあえず落ち込んでしまいそうな理久君を慌ててフォローする。


 でも、今思い返すと、前に一度だけさっきと同じような違和感を覚えた時があった。中学時代に放課後で話していた時、理久君は一度、由唯のことを私に聴いてきてたことがある。


 今、彼氏はいるのかな、と本当に何気ない感じで。


 私が、「いないみたいだよー」と答えると、原田さんモテそうなのにねーと理久君は何でもないように笑っていた。


 あの時の私は、その時の会話を取り留めのない会話の一つとして、特に気に留めることもなかった。実際、この時のことを思い出したのもついさっきのことだ。


 しかし、あの頃からその想いを抱いていたとしたら、理久君の一途さに驚かされる。


「そう…それだったら良いんだけど」


 理久君は、ほっとしたように息をついた。


「うん、大丈夫だよ。由唯も、特に気付いてはないと思うし」


 少し遅れて二階に上がった時、由唯はそのことを特に気に留めることなく、何やら携帯をいじっていた。


「よし……」


 安堵感と共に、何かを決意したように理久君が呟く。


 それは、私に対して言った言葉ではなく、多分自分に向けての言葉。


 その姿を見て、思わず微笑んでしまう。


「理久君、本気みたいだね」


 言うと、理久君は照れながらも私の方を見ながら頭を掻いた。


「うん、本気で好きだよ」


 そうして、また優しい笑顔を浮かべた。


 しかし、


「……!」


 これは、自転車で並んで走っている時もあった。何気ない感じでサラッと言われるが、その何気なさが返ってドキッとさせられる。


 今の言葉は、特に私に言われたわけでもないのに、その表情と言葉に思わず動揺する。


「…もう、理久君、私は『本気で告白しに行くんだね』っていうつもりで言ったんだけど?」

「えっ?」


 理久君は、何か分からないというように、驚いた表情を浮かべた。


「これは、由唯に対して随分デレデレだね」


 おどけて言ってあげると、理久君もようやく自分の言った言葉に改めて気付いたようで、


「あぁ、これは…!」


 見るからに動揺して、アワアワと手を振っている。明るい所で見ていたら、きっと顔も赤いんだろうな、と思う。


 その様子に、「まったくもう」と何だかお姉さんになったような気分になる。


「うん、今の感じで由唯にも言ってあげたらいいんじゃないかな?」

「うぅ…頑張ります」


 言ってしまったからには仕方ない、と堪忍したように頷く理久君に、思わず笑ってしまう。


「ふふ。この後、告白するんだよね?」


 すでに答え合わせは終わっているようなもんだが、一応聞いておかないと。大体、ここまでで私が理久君に何を協力したらいいかも何となく分かってきた。


 理久君も、由唯に気持ちを伝えられるチャンスは多分今日しかない。


「うん、そのつもりだよ」


 色々言って少し吹っ切れたのか、さっきまでの動揺は落ち着いて、私の方を見ながら言う。


「そっか。じゃあ、私は応援してるから、頑張って!」


 そう言って、グッと両手で握りこぶしを作る。


 その仕草に、ようやく理久君は固かった表情を和らげて、元の優しい笑顔を浮かべてくれた。


「うん、ありがとう…それで、協力してもらいたいことなんだけど」

「何となく分かってきたけど、私は上手い事由唯と理久君を二人きりにしたらいいのかな?」


 由唯は、基本私と二人で行動していることが多い。その由唯と二人きりになるためには、私が上手く立ち回るのが一番簡単だ。


「あぁ、うん。流石に、もうほとんど分かられちゃってるね。実は、おじさんが花火を用意してくれているから、この後皆でやろうと提案しようと思ってるから、そのタイミングで…」 


 花火の最中に告白か。流石は理久君、やろうとしていることがとてもお洒落だ。


「いいねいいね。じゃあ、私は上手い事立ち回れるように頑張るよ」

「うん、そうしてもらえるとありがたいです」


 理久君は、ほっとしたように息をついてから申し訳なさそうに頭を掻いた。


「ありがとう。あと、ごめんね。こんなお願いで、わざわざこんなところに呼び出して」


 そんな理久君に、「ううん」と手を振って答える。


「全然お安い御用だよ。協力するから、頑張って、理久君」


 そして、笑い掛ける。


 しかし、そうして理久君に笑い掛けながら、私の中でも一つのアイディアが浮かんでいた。


 これは、もしかしたら私にとってもラストチャンスになるかもしれない。


 由唯に宣言をしたように、私は昇と話をする。そのタイミングをどうやって作ろうかと思案していたけど、花火をして、なおかつ理久君と由唯を二人きりにすることができれば、私もどこかのタイミングで昇と二人で話をする機会を作れるかもしれない。吉川と井川は、二人でテンション高く花火を楽しんでくれそうだし。


「うん、頑張るよ。…あと、最後に一つ聴いても良いかな?」


 言って、理久君はひと呼吸置く。


「今、このタイミングで聞くのもあれかもしれないけど、原田さんって、今は付き合っている人とかいたりするのかな?」


 なるべく、見せまいと頑張ってはいるんだろうけど、その声はさっきまでと比べてもなお固い。


 ここまで話しておいて、その質問は理久君にとって聴きたいような聴きたくないような、すごく恐い質問だろう。現に、理久君は僅かに震えているように見える。


 ここで聴いてくる理久君の不器用さに、「それは聴いてくるのが順番が逆なんじゃないかな?」なんてことを思ったけど、理久君の場合はここで私がどちらの答えを言ったとしても言うような気がした。


 理久君は、それくらい真面目ですごくいい人だ。


 私は、夕方に海辺で上着を脱ぎ去っていた由唯を思い出した。


『もう、高校で付き合いたいって思う人には出会えなかったから、私はもういいの』


 そう言った由唯の何だか少し寂しそうな顔を。


「ううん」


 それでも、私は目の前の理久君に向けて笑顔を浮かべた。


 由唯が、どんな返事をするのかは分からない。


 でも、


「由唯は特に付き合ってる人はいないよ」


 できることなら、理久君のこの想いが由唯に届いて欲しいと切に願っていた。


―――


 喉が渇いたな。


 流石に、喋り疲れたのか健吾はようやく沈黙してじっとしている。亮は、すっかりソファに身体を預け切ってしまって、完全休憩モードだ。


 理久は、夜風に当たってくると言って出て行ってしまったし、ようやく静かで平穏な時間が流れていた。


 というか、一日通してほぼノンストップであれやこれやとやっていたから、この穏やかな時間が本当にようやく、という感じだ。


 約六時間の道のりを炎天下の中自転車で走り続け、海に着いたと思ったら休む暇なく海でひとしきり遊んで夕食。


 ほぼずっと動き続けているのに、身体は思っていたほどの大きな疲労感はない。これは、つい先日までやっていた部活動の賜物なのか、高校生ならではの若さゆえか。


 でも、多分に若さのお陰はあるんだろうなー、と何だかジジ臭いことを思う。


 さっきまで度々笑い声が降ってきていた二階も、今は静かになっている。というか、さっき芹沢が携帯片手に外に出て行ったので、原田の話し相手がいなくなっただけか。


 外に出て行った芹沢のことが、少し気になった。


 携帯を片手に持っていたことを考えると、恐らく電話が掛かってきたのか、電話を掛けに行ったのか。理由としてはそんなところなのだろうが、それがやけに気になった。


 夕飯の時、怪我をした芹沢と目が合ってから、何だかずっと落ち着かない。今日一日、モヤモヤした気持ちはずっと抱えているが、今の気持ちはなんだか昼間とは感じが違う。


 芹沢は、あの時どうして俺のことを見ていたのか。そして、今までは目が合ったらすぐに逸らしていたのが、逸らそうとしなかったのか。


 色んなことを想像してはみるけど、どれもが空虚な想像にしかならず、頭の中に浮かんでは虚しく消えた。


 さっきまで、喧しく騒いでいた健吾が黙ってしまうと、ペンションの中はすっかり静まり返ってしまって、何だか寂しい。絡まれていた時は、ずっと無視していたくせに、いざ静かになってみると、少しは賑やかな方がいいなと思うなんて、我ながら現金だと思って苦笑する。


 この静けさが何となく落ち着かないのと、喉が渇いたのが重なり、立ち上がってキッチンに向かう。


「おっ?まだ何か食べるの?」


 すかさず、健吾が声を掛けてくる。


「あれだけ食べておいて、食べるわけあるか。喉が渇いたから、何か飲もうと思って」

「じゃあ、俺はお茶で」


 聴いてもないのに、亮が手を挙げて便乗する。


「持って来るか。自分で来い」

「えーっ、自分で行くほど渇いてはないんですけど」


 だったら俺にも頼むな、という返しは口には出さず、無言でキッチンに向かう。


 冷蔵庫を開けると、お茶とスポーツドリンクのペットボトルが二本入っていた。自分たちが持ってきていた分は、道中で全て飲み尽くしてしまっていたから、ここに入っているのは、理久のおじさんが用意してくれていた分だろう。


 改めて、色々用意してくれたおじさんに心の中で感謝して、お茶のペットボトルを取り出す。


 コップにお茶を注いでいると、ふと風に服を撫でられた。


 何で、キッチンで風が吹いてるのかと思ったら、キッチン奥の窓が開きっ放しになっている。


 恐らく、料理をしていた際に換気の為開けていたんだろう。


 開けっ放しにしておいてもいいかと思ったが、見ると特に網戸とかはしてなくて直接風が吹いてきている。


 網戸がしてあれば別だが、蚊とかも気になるので窓は閉めておいた方が無難だろう。


 仕方ないな、とコップに注いだお茶片手に窓の方へと歩み寄る。


「……と思う」


 僅かにだが、誰かの声を聞いた気がした。


 風の音はともかく、こんな所で人の声が聞こえるのは不審に思った。ペンションの裏には特に何もなく、もちろん人がそんな所にいるのはおかしい。すぐ側に民家があるわけでもないので、近所の人がいるというのも考えにくい。


 不審者だったら、それこそどうしようかと、警戒心を強めながらゆっくりと窓の所に近付いていく。


「……よし」


 外から聞こえてくる声は小さいが、何を言っているか分かるくらいには聞こえる。


 そして、その声は明らかに夜風に当たってくると出て行った理久の声だった。


 何で理久は、こんなところに?


「理久君、本気みたいだね」


 続けて聞こえてきた声に、心臓が止まるかと思った。


 それは、紛れもなく芹沢の声だった。


 何で、こんなところに二人でいるんだ?


 そんなことを考えた矢先だった。




「うん、本気で好きだよ」




 その言葉を聞いて、完全に思考が止まった。


 突然目の前が暗くなって、何も聞こえず何も感じず、何も考えられなかった。


 頭の奥の方で、ドクドクと脳から血液が流れ出るような音だけが聞こえてきて、外からの音は何も聞こえて来ず、その音だけが煩い。


 ぼんやりした意識の中で、気が付くとゆっくりと窓から離れていて、元の場所まで戻っていた。


 まるで、時間を巻き戻したかのように目の前には出しっ放しのペットボトルとお茶が入ったコップが置かれていた。


 ほぼ無意識な感覚で、もう一つコップを出してそこにお茶を注いで、亮と健吾の所に戻った。


「おぉ、持ってきてくれたんだ。気が利くじゃないか」


 亮の言葉がやけに遠くから聞こえる。


 それに、自分が答えられているのかよく分からない。


「えっ、何で俺の分はないんだ?」


 その横で健吾が騒いでいるが、その声もやけに遠い。


 どんな顔をしているのか、何か言えたのかは分からず、ゆっくりと自分がいた元の場所に座った。


 暗い感情が、心の中を渦巻いていた。


 飲み込まれると、どこまでも深く沈んでいってしまいそうな渦。


 それが、心を徐々に飲み込んでいく。


 その渦に飲み込まれないように、必死に顔を出そうとしていたが、結局心はその暗い渦の中に飲み込まれて、深く落ちて行った。

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