第16話「背中越しの涙」②
本当、ドジっちゃったな。
絆創膏が巻かれた指先を見つめながら、心の中でポツリと呟く。
目の前には、出来上がった人数分のカレーが理久君によって並べられていて、美味しそうな匂いを漂わせている。
「待ってました!」
井川が歓声を上げる。
こういう時、真っ先にテンション上がって声を上げるのはいつも吉川だが、先程の由唯からの言いつけを律儀に守って、声は発さずにバタバタ腕を動かして嬉しさを表現するだけに留めている。
チラリと、視線が昇へと向く。
昇は、「うおー、美味そう」と声には出しているが、何故だか顔には元気がないように見える。
海で由唯にあんな宣言をしてから、殊更に昇を意識してしまっていて、さっきから何とも落ち着かない。
由唯との会話だけが、唯一意識を誤魔化せるところだったのに、さっき由唯から昇の名前が出た時は完全に動揺してしまった。
そちらの方には視線を向けないように、食材に目を向けてひたすらに作業を続けていたが、目は食材を見ているようで見ていなかった。心ここに在らずの状態で野菜を切っていたその結果は、少しこそばゆい痛みとして指先に残っている。
でも、小さな一歩が一つ。
由唯が、私の怪我を昇のせいだと指摘した時、由唯はいつもの調子で昇をいじっていた。
ここで私が昇のことを見たら、昇はどんな反応を見せるのかな。
そんなことを思った。
恐らく、ここに来る前はそんなことできなかった。例えやったとしても、今朝会った時のように睨まれて嫌な思いをするだけだった。
それが、海まで来て色んな話を聴いて、ほんの少しだけ昇の思っていたことが分かった気がする。そして、昇の反応も少しだけ変わったような気がする。
だから、怖さもあったし、不安もあったけど、ほんの少しの勇気と好奇心が背中を押してくれた。
思い切って少し咎めるような目を向けると、昇と目が合った。一瞬、怯みそうになる自分を奮い立たせて、グッと視線が外れないように顔に力を入れた。
すると、昇は随分驚いた顔を見せた。
それは、自分に向けるものとしてはかなり久しぶりに見た昇の表情だった。
そして、
「…俺のせいかよ」
昇は、堪らずといった様子で私から目を逸らすと、ボソリと呟いた。
言葉も口調もつっけんどんだけど、その声には今までになかった気遣いが込められているように感じた。
こちらを傷付けないように、声を慎重に吐き出している。
それは、仲が良かった小学校の頃、私と喧嘩した時の昇の反応だった。
喧嘩してヒートアップしていくと、あの頃の私はすぐに泣きそうになっていた。その顔を見ると、口調は変わらないのにその声には優しさが滲んできて、最後は毎回折れてくれた。
でも、本当に納得はできていないから、言葉も口調もつっけんどん。でも、声は私を気遣ってくれてすごく優しい。
昇の反応は、あの頃と全く同じだった。
そのことに、どうしようもなく嬉しさが込み上げてくる。
昇、あの頃と全然変わってないね。
そんなことはまだ言えないけれど、そんな反応を返してくれたことがただ素直に嬉しかった。
「はーい、とりあえず皆席に着いて」
最後に自分の分のカレーを理久から受け取ると、由唯が号令を掛ける。
いつもは慌ただしい皆も、今だけは素直に席に着いて良い子に背筋を伸ばす。
「じゃあ、私と由唯と理久君が丹精込めて作ったカレーなんだから、心して召し上がりなさい」
まるで皆のお母さんかのように言う由唯に、男子三人はこれまた「はーい」と良いお返事だ。やんちゃ坊主たちが、ご飯の時だけ大人しくなるという想像ができて、内心で微笑む。
「では、いただきます!」
「いただきます!」
全員の声が重なり、一斉に食べ始めた。
「うまーー!」
「……!!」
勢いよく一口二口と口に運ぶなり、井川が歓声を上げる。吉川も、顔いっぱいで美味しさは表現してくれているが、声は出さない。
「うん、確かに美味しくできた!」
由唯も、自分で作ったカレーに満足な様子で、美味しそうに口に運んでいる。
私も一口食べてみると、確かに美味しい。使っているルーとか作り方を変えてたわけでもなかったけど、家で食べるカレーよりも断然美味しく感じる。
「どう?昇」
由唯が、昇に感想を振る。見ると、昇は黙々とカレーを口に運んでいる。
「えっ?あぁ、うん、美味いよ」
言われて顔を上げると、由唯に軽く笑いかけた。
「えーっ、その割にはなんか反応薄くない?」
「疲れて腹も減ったから、夢中になって食べてるんだよ」
由唯の抗議に、昇は苦笑いを浮かべながらまたカレーを口に運ぶ。
その様子に、ちょっと不服そうにむくれていた由唯だったが、ふぅと息を吐き出すと気を取り直して食事を続けた。
井川と吉川は、まるで競争しているように勢いを止めずに食べ続けていく。私達は、それぞれのペースで味わうように一口ずつ口に運んでいく。
チラリと、昇を見る。
昇は、ただ目の前のカレーに視線を落として、黙々と食べ続けている。
何だか、さっきから少し元気がないように見える。
別段、何かあったわけでもないし、私自身も特に昇の気に触ることをした覚えはないので、理由が分からない昇の元気のなさがやけに気になった。
「吉川、あんた黙ってても動きがうるさいから、そのまま動かないで、一生」
「……!?って、できるか!」
カレーを口に運ぶたびに、ジタバタと喜びを動きで表現していた吉川に、流石に鬱陶しかったのか、由唯が痺れを切らした。しかし、それは吉川も同じようで堪らずツッコミが口をついて出る。ずっと(と言っても三十分くらいかな)黙っていたせいか、久しぶりの吉川の声は無駄に大きい。
「もう、うるさいなー。ご飯時くらい、静かにしてよ」
「うるさい!もう、こうなったら今まで我慢してた分、喋り倒してやる!あっ、お三方、美味しいカレーをありがとうございます!」
やけっぱち気味にまくし立てると、カレーを掻き込んでいく。そんな最中、改めて礼を言われるものだから、勢いに押されて思わず私も会釈で応えてしまった。
「まったく、そろそろ許してやってもいいかと思ったけど、やっぱりうるさいね。ガムテープでも口に貼っておけば良かったかな?」
「可愛く『どうかな?』みたいな感じで、当人の俺に聞くな!もちろん、全力で却下だ!」
吉川が再び喋り出したおかげで、場にはまた賑やかさが戻ってきた。由唯は、うるさいって言うんだろうけど、見ると由唯も楽しそうにしている。なので、何だかんだ由唯も吉川の騒がしさは別に嫌じゃないみたいだ。
そこからは、声を取り戻した吉川が(必要以上に)騒がしくなったので、場はすっかり和んで、また元の賑やかな雰囲気になった。
「ごちそうさまでした!」
「ごちそうさまでした!」
男性陣は二杯、私と由唯はそれぞれ一杯のカレーを綺麗に完食し、夕食を終えた。三杯目に行こうとしていた吉川を、「明日の分がなくなるから、ダメ!」と由唯が一喝したのは余談だ。
皆の食べ終えたカレー皿を集めて、キッチンに持って行こうとしていた私を由唯が制した。
「桜、作るのは私達がやったんだから、片付けくらいはこいつらに任せてもいいんじゃない?」
さも当たり前のように言う。
「えっ、でも……」
「おう、片付けならできるから、全然やるよ。カレー、マジで美味かったし」
「もちろん、やらせて頂きます!」
片付けを押し付けられて、何か文句でも出るかと思ったけど、井川と吉川はすんなりと引き受けてくれた。夕食作りで何もできないことを、この二人なりに少しは気にしたのかなと思う。
「俺たちでやっておくから、三人は休んでて」
昇も、二人と同じく私たちに声を掛けてくれた。
「ほら、こいつらもこう言ってくれてるんだし、私達はのんびりしよう」
「うーん…じゃあ、お願いしようかな」
片付けまでやるつもりだったので、何となく肩透かしを食わされた気になる。しかし、三人がやってくれると言うのだから、ここは素直に甘えさせてもらおう。
三人は、全員分の食器をまとめてキッチンまで向かうと、ギャーギャー騒ぎながら片付けを始めた。私たちと変わらず疲れているはずなのに、吉川と井川はずっと元気なままだ。
「よーし、桜、じゃあちょっと一休みしようか」
「あっ、うん」
由唯は、すっかり二階のスペースが気に入ったのか、当たり前のように梯子を上って二階へと行ってしまった。
その後を追おうと、私も席を立って梯子に手を掛けた。
「あっ、芹沢さん」
その時、唐突に理久君に引き止められた。
「うん?」
何事かと、立ち止まって振り返ると、少し俯き気味の理久君が後ろで立っていた。
その顔は、呼び止めたはいいものの何て言ったらいいのか困っているみたいで、何だか緊張しているように見えた。
「…ごめん、芹沢さん、ちょっと相談があって、後でちょっとだけ時間もらえないかな?」
理久君の声は、誰にも聴かれないよう、囁くように小さかった。そのことに、私も意図を察して、梯子から手を外して少し理久君に顔を近付ける。
「ごめん、よく聞こえなくて。もう一回言ってくれるかな?」
「あっ、ごめんね。相談したいことがあるんだけど、今はちょっと言いにくいから、後でペンション裏来てもらえたりしないかな?」
本当に、理久君の声は小さい。よっぽど誰にも聴かれたくないのか、そのか細い声はなお慎重で、顔を少し寄せてようやく聴こえた。
「うん、全然いいよ。だけど…」
理久君が私に相談事なんて、全く見当がつかなかった。
「理久君が私に相談なんて何だろう?私で力になれればいいけど…」
思わずそんなことを言って、少し笑った。本当、力になれればいいけど、果たして理久君からの相談なんてそれは私が力になれるような相談事なんだろうか?
「あっ、それはもちろん。相談というか、正確にはちょっと協力してもらえたらありがたいなー、ってことなんだけど…」
そう言いながら、理久君は力なく笑った。その顔が、何だか少し赤らんでいるような気がする。
その表情に、「あれ?」と思った。
理久君は、ずっと俯きがちで話をしているが、顔が少し上がったと思ったらその視線は私ではなく、少し上に向けられてすぐにまた顔を下げていた。
その動きに、普段は働かない女の勘が働いた。
私も、一度梯子の上に目線をやって、あの子が顔を出して来ないことを確認して、そちらを指差しながら理久君に口パクで「もしかして?」と尋ねた。
すると、理久君は目に見えて固まってしまった。その反応が、珍しく働いた私の女の勘にリンクする。
あっ、これはビンゴかもしれない。
自分の女の勘もなかなか捨てたものじゃないかもしれない、と自分に感心しつつ、顔が緩んでしまいそうになるのをクッと抑えて、改めて理久君を見る。
理久君は、固まったまま動かない。
そんな理久君に、できる限りの笑顔を向けて、顔を更に少し近付けた。
「分かった。じゃあ、空気読んで行くね」
これ以上ここで話していると、あの子のことだ。「どうしたのー?」なんて言いながら顔を出してきかねない。
私の囁きに、すっかり顔を赤くしている理久君にもう一度笑いかけて、ヒラヒラと手を振りながら梯子を上り始めた。
梯子を上がりながら、顔に力を入れていく。そうしないと、すぐ顔がにやけてしまいそうになる。
いけないいけない、と自分に言い聞かせて、「お待たせー!」と殊更元気に由唯に笑い掛けた。
―――
絶対、気付かれたよねー…
吐き出しそうになるため息をグッと堪えて、ソファに深く身体を沈めた。
「いやー、一仕事終えた後の茶は美味いなー」
「爺さんかよ」
目の前では、健吾と亮が相変わらずのやり取りを繰り広げている。
後片付けを終えて、男子全員で今はテレビの前のソファでのんびりしている。海に着いてからも何かとやっていたので、こうして落ち着いている時間というのは何気に今日初めてかもしれない。
「何かしようぜ!トランプとか」
「悪い、とりあえずパス。もう少しぼーっとさせて」
まだテンション高い健吾に対して、疲れた表情を隠そうともせず昇が答える。
中学時代から体力があった健吾は、まだ全然元気なのか落ち着かない様子でずっとソワソワしている。しかし、一方の亮と昇は流石に疲れが出てきているみたいで、亮に至ってはもう狸寝入りの姿勢を決め込んでいる。
昇も、これ以上は話しかけるな、と言わんばかりにだるそうな表情で、ぼーっと一点を見つめるばかりだ。
そうなると、当然矛先はこちらに向く。
「じゃあ、理久やろうぜ!」
満面の笑顔で言われるが、今回は苦笑いで返す。
「ごめん、僕もちょっと疲れちゃって」
誰も乗ってきてくれないことに、「なんだよー」と健吾は不満げに足をバタバタさせている。それを、亮も昇も完全にスルーだ。
実際のところ、体力はまだ残っていた。毎日のようにしんどい練習を続けている日々の賜物で、疲れは間違いなくあるが、恐らくは他の皆に比べるとそこまでの疲労感はない。だから、目の前で小さい子どものようにジタバタしている健吾を見ながら、内心でごめんと詫びる。
でも、正直なところ今は別のことに気を回せるほど余裕がなかった。
チラリと、二階に視線を向ける。
二階からも、僅かではあるが声が降ってくる。流石に、疲れなのか女の子同士の会話だからなのか、声のボリュームは小さくて内容は聞き取れない。でも、時折原田さんの楽しそうな笑い声が響いてきて、そこに芹沢さんの柔らかい笑い声が重なっている。
階下で大半の男子が疲れ切った様子でいるのに、女の子二人は結構元気だなー、なんて思いつつ、二人の声が聞こえてくるたびに、一方で内心穏やかではない。
思い出されるのは、さっきの芹沢さんの反応と表情。
それが頭に浮かんでくるたびに、顔から火が出るとはこのことかと思うくらいに、顔が熱くなる。
結局、この後には自分から伝えることなので別にいいじゃないかと思いつつ、あの僅かな時間で恐らくは自分の気持ちに気付かれたことに、少し凹む。
やっぱり、僕って分かり易いのかな?
しかし、あそこまで態度に出ていたらそれはバレてしまうか、とよくよく自分自身のことを思い返してみて内心で苦笑する。
元々、芹沢さんに話をするというのは事前に考えていることではなかった。
今日の夜に言おう。
海に向かう道中で考えていたのはそのことだけで、特にどういうプランでどんな感じでということまで考えてはいなかった。
しかし、海に沈む夕陽を見ながら、そろそろ夜が来ると思ったところで、急に不安になってきた。
夜に言うとは決めたけど、じゃあどこでどうやって?
今日一日通してそうだったけど、ほとんどの時間を皆で過ごしている。そんな中で、二人きりの状況を作り出すのはなかなか難しい。
しかも、初めてのことなので一体どんな感じですればいいのか全く分からないし、自分自身が上手くその状況を作れる自信はとてもなかった。
色んなことを考えれば考えるほど、一体どうすればいいんだと焦る気持ちが募っていった。そして、気持ちが焦れば焦るほど、言おうと強く決心していたはずの気持ちは次第にしぼみ始めていった。
言わなくてもいいんじゃないか。
そんな弱い気持ちが勝ってしまいそうになり、それではいけないと自分を叱咤し、少しでも距離を詰めようと、勢いでカレー作りを手伝うと申し出た。
しかし結果は、三人で作業するとなると思っていた以上にキッチンは手狭になってしまい、その距離の近さにずっと緊張してガチガチで、まともに会話はできないままその時間は終わってしまった。
それでも、その時間の中で一つ思いついたことがあった。
芹沢さんに協力してもらったら、二人きりになれるんじゃないか?
キッチンの中で芹沢さんと話していた時、思い出されたのはお昼ご飯の時のことだった。
昼ご飯の時、原田さんは昇と芹沢さんを二人きりにするために、コンビニに向かっていた僕たちに付いてきた。
原田さんは、事前に昇と芹沢さんの関係を知っていて、あえてあの状況を作り出したと言っていた。
実際、コンビニに向かう道中に二人の関係性を聞いていたこともあるのかもしれないけど、コンビニから戻ると、昇と芹沢さんの間に流れている空気は明らかに変わっていた。
朝からぎこちなく流れていた二人の間の空気が、解きほぐされて少し和らいだような感覚。
そこから、二人は明らかに朝とは表情が変わって、お互いに向けている雰囲気も変わったように見えた。
そして、それを作り出したのは、紛れもなく二人をあの樹の下で二人きりにさせた原田さんだった。
それだ、と思った。
事前に芹沢さんに事情を説明して、上手く立ち回ってもらえたら、何とかその状況を作ることができるんじゃないか。むしろ、基本あの二人はほとんど一緒にいるのだから、二人きりになるには芹沢さんに協力してもらうのが一番だ。
そうなると、芹沢さんに自分の気持ちを伝えなくちゃいけない。それは、すごく恥ずかしいことだったが、それ以外に上手い方法は全く思いつかなさそうで、勢いに任せてお願いしてしまった。
そして結局、二階に上がっていく前の芹沢さんの様子を見る限り、こちらからはっきり言う前にこちらの気持ちはバレてしまったみたいだ。
もう、こうなったらむしろ好都合だ!と、半ばやけっぱち気味に自分の中の落ち込みを吹っ切った。
……よし!
落ち込んでいる場合ではない。本番はこれからなのだ。
今一度、自分自身で気合を入れ直して、立ち上がった。
「うん?どうした、理久?」
気だるそうな様子で、亮が問いかけてくる。
それに対して、努めて笑顔を浮かべて、少し大きめの声で答えた。
「ちょっと、夜風に当たってくる」
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