第10話「海に向かって」③

 流石に、バテてくるな。


 長めの休憩を挟んで昼食も取って、あの四人がコンビニに行ってる間に少し眠ったお陰か、走り出した時は結構体力が回復していると思っていた。


 しかしそれは、走り出してすぐにただの勘違いだと気付いた。


 午前中と比べて、真夏の暑さは最高潮。その暑さに加えて、流石にここまで結構な距離を走ってきたのだから、思っていた以上に疲れは溜まっているみたいで、午前中に比べてペダルを漕ぐ足が重い。


 ここから午前中と同じ時間、また走り続けるのかと思うと、この疲れ具合は先が思いやられる。


 それでも、女子二人を含めて皆は比較的問題なく付いてきているように思う。流石、全員が体育会系の部活に入っているだけのことはある。


 特に、健吾のやつは相変わらず体力バカで、今も後ろで何やら騒がしい。


 原田が何やらつっこんでさっきから盛り上がっているが、三時間真夏の炎天下を自転車で走ってきたこのタイミングで、あんなにテンション高く元気が残っている二人は普通にすごい。


 あの二人のやり取りを見てると、出発前にあんなに緊張していた自分がアホらしく思えてくる。 


 実際に皆と顔を合わせて初めて、出発前の自分の気苦労は要らぬ心配だったと安心させられたが、後ろの二人は今日顔を合わせた時からあの調子だ。


 中学時代も、それぞれボケとツッコミの良いコンビだったが、二人のやり取りのテンポの良さや息の合いようはむしろあの当時を超えているように思う。


 友だち関係だった男女が、約三年ぶり、高校生になってから再会したのに、こんなにもあの頃、いやそれ以上に戻れるものか。


 だが、健吾と原田の性格を鑑みると、全然それはあり得る。


 健吾はともかく、原田も中学時代に「ボーイフレンド」と呼んで、思春期の入り口に立っていた俺を掌でコロコロ転がしながら、周りにもそれを公言できるような肝を持った女子だ。


 その二人が、会うのは久し振りといったところで、元々持ってた天性の明るさがむしろ高校生になってそれぞれレベルアップしてるから、あそこまで波長を合わせて盛り上がることができるのだろう。


 年月関係なく、顔を合わせればその頃に戻れる。男連中はそんな感じだし、後ろの二人もそうなのだろう。


 にも関わらず、


「……」


 意識が、その更に後ろにいる二人、正確には一人に向く。高校でも何度かすれ違っている顔が思い出されて、今日何度起き上がったか分からない苛立ちが湧き上がる。


 今、芹沢は理久と一緒に走っている。


 あの二人が話している姿は、中学時代に見かけたことがある。


 二人とも、ソフトテニス部の男子,女子それぞれの部長だったから、二人で部のことについてミーティングをすることがあった。


 それは、練習メニューのことだったり、大会へのエントリーに関することだったり、たまにある合同練習の話し合いだったり、部活に関する決め事を話しているんだと理久は言っていた。


 部活の前と部活が終わった後、それぞれ月に一,二回程度。話し合う内容も、そんなに込み入ったことを話し合うわけではないので、時間は大体三十分くらい。


 実際、部活前のミーティングの時は、理久が来る時間もそんなに極端に遅くなることはなかった。


 部活後にしても、理久が部長になったばかりの頃は、理久もそこまで遅くなることはなかったので、俺たち三人は理久を待って、「ごめんごめん、お待たせー」なんて言いながら走って戻ってくる理久に「遅いぞー」なんて言って、一緒に帰っていた。


 だが、理久が部長になって半年ほど経ってからか、部活後ミーティングの日は、理久は俺たちと帰らなくなった。いや、正確には俺たち三人が理久を待たなくなった。


 夏が過ぎ去り、秋の気配が濃くなってきたその日、いつものように三人で理久を待っていたが、理久はいつまで経っても戻ってこなかった。


 最初は、いつも通り三人で馬鹿話をして待っていたが、流石に理久が遅すぎたので、痺れを切らして理久の所まで向かった。


 いつも、二人がミーティングをしているという教室まで行って、教室の扉の覗き窓から教室の中を見た。


 そこには、楽しそうに話をしている理久と芹沢の姿があった。


 二人の様子は、明らかにミーティングをしている感じではなく、楽しそうに談笑しているようだった。あまり普段女子と話すことのない理久も、俺たちと話している時のように明るく笑って話していて、それに対して芹沢も随分楽しそうな様子だった。


 中学に入ってから、女子の前でしか見せていなかった芹沢の笑顔がそこにはあった。


 俺たちは、結局理久には声を掛けずにその場を後にした。後日、亮と健吾が理久のことを囃し立てて、それに対して理久が顔を赤くしていたが、それでもその翌月からも理久が早く戻ってくることはなくなった。なので、俺たちも部活後ミーティングがある日はすぐに帰るようになった。


 それから、三年近く月日は経った。


 この期間に、理久と芹沢の間に交流があったとはとても思えないが、さっき出発前に見た二人の表情は、目だけで「久しぶりだね」と言い合っているかのような親密さがあった。


 そして今、二人がどんな会話をして、どんな表情をしているかは、ここからは分からない。それでも、楽しそうにやり取りをしているんだろうな、ということは何となく分かる。


 それが、何故だか心をざわつかせる。


「……ふぁあー」


 一方、俺をこうして悩ませる原因をこの旅に招き入れた張本人は、すぐ隣で呑気に欠伸をしている。思わず、視線が鋭く向く。


「…随分、眠そうだな」


 意識的ではなかったが、亮に向ける声は思わず棘を含む。


「んー?そりゃ、昼飯食べてちょっと休憩したんだから、眠いでしょー」


 しかし、そんな俺の声の棘には気付かない様子で、亮は呑気なものだ。その態度に、今朝から内心燻っていた苛立ちが、ムクッと顔を上げた。


 出発してから、何だかんだ結構な時間が経っているが、亮と二人だけで話すのは今が初めてだ。その時間のせいで若干忘れていたが、亮には今朝から一言文句を言いたくて堪らなかった。


 今朝、原田がシークレットゲストが来ると言った時、亮は明らかに俺から目線を外した。


 それは、原田が誰を呼んだのかを知っていた紛れもない証拠だった。


「このクソ暑い中で、眠いとかよく思えるよな」

「うーん、確かに暑いししんどいけど、それ以上に眠いもんだから仕方ない」

「さっきの時、普通に休憩してればいいのに、コンビニなんて行くからだろ」

「あぁ、確かにわざわざ休憩時間削ってまで行くほどのものでもなかったかもなー」


 亮は、先ほどから俺が声でチクチク刺している棘には一切気付かない。いつもの調子でのんびりと答えている。


 ところが、そこから少し間を空けてやると、ようやく亮はこちらを向いた。


「あれ?昇さん、何やらお怒りのご様子?」

「よくお分かりで」


 流石、長い付きになる幼馴染。呑気なフリして、会話の間合いのちょっとした違いには敏感だ。


「はて?果たして俺は何かしただろうか?いや、していない」

「反語にするな。絶対、身に覚えあるだろ」

「はて?」


 しかし、それでも亮は惚けたままだ。それも、それが本当に分かっていない様子なのが、こちらの苛立ちを更に募らせる。


「惚けんな。…芹沢のことだよ」


 前を向きながら話をしているから、ここから後ろの方に声は聞こえるはずがない。そう思っているのに、「芹沢」の名前を出す時、声のボリュームは落ちた。


 横目で見る亮は、まだピンと来てない様子だったが、少し考えてようやく「あぁ」と呟いた。


「中学時代にビックリするくらい綺麗になって、それ以来なんだか話しにくくなった芹沢を、今回この旅行に誘うことをOKしたことに対してお怒りってこと?」


 畳み掛けるように投げられた返答が、頭の中に入り込んできて思考を縛った。


 それは思いがけない切り返しで、思わずブレーキに手が掛かる。


「……何のことだ?」


 頭の奥の方が痺れて、話している自分の声がやけに遠くで聞こえる。目の前の景色も言葉も、何だか靄が掛かっているようであやふやになる。


 その靄の向こうから、亮は苦笑いを浮かべて答えた。


「いや、昇の方から言ってきて答えたのに、その返答あり?違うのか?」

「……いや、」


 「違う」という言葉が、咄嗟に続かない。それが、何よりも自分の本心を表しているみたいで、亮にそれを見抜かれるのが嫌なのに、焦りと裏腹に言葉は口を突いて出ない。


「まぁ、確かに、芹沢をこの旅行に呼んだことについてだよ」


 それでも、靄を掻き消そうと懸命に言葉を吐き出していく。一方、亮の声はその靄を突き破って俺の耳に届く。


「うん?芹沢を呼んだのは俺じゃなくて、原田だぞ。そして、ついでに言うと原田を誘ったのは昇だぞ」

「それは…でも、芹沢が来ること知ってたのは亮だけだろ」


 必死に言葉を紡いでいっても、そのどれもが弱々しい。まるで、こっちが言い訳を探して、必死に弁護しているみたいになってしまっている。


 さっきまで、亮を目の敵にして攻め立ててやろうと思っていたのが、亮の言うことは全くの正論で、自身で思ってた言い分が全て見当違いなものに思えてしまっている。


「うーん。じゃあ聴くけど、言ったら昇、この旅行来てたか?」


 だから、またこんな切り返しをされてしまっている。


「…………」


 この言葉は、チェックメイトだった。結局、何も言葉が出てこず、何も言えない。


 そうして黙っていると、亮は「いやー」と片手で顔を覆った。


「昇、素直すぎでしょ。思ってること、丸分かり」


 亮の口調は、バカにしているというよりは呆れているといった感じだ。その反応に、苛立ち以上に今度は恥ずかしさが込み上げる。


 本当は、こっちから亮を追い詰めてやろうと思っていたのが、自ら墓穴を掘るとはこのことか。昔から、こういった言い争いになると、大体亮に勝てない。


 今回も完全にこちらの負け。それは否が応でも認めざるを得ないところだ。


 だけど、


「…でも、さっき亮が言ったことは違うぞ」


 ただ一つ、これだけははっきり訂正しなくてはいけない。


 俺の言葉に、亮がキョトンとした表情を浮かべてこちらを見る。


「うん?俺が言ったことって?」

「中学に入って、芹沢と話せなくなった理由だよ」


 『ビックリするくらい綺麗になって、それ以来なんだか話しにくくなった』


 さっき畳み掛けられた亮の言葉が、頭の中にリフレインする。


「えっ、違うのか?」


 ところが、亮はそれをあっさりと聞き返してくる。さも、それが当たり前であるかのように。

ここで、動揺してはまた同じ結果だ。落ち着いて言葉を紡いでいく。


「違うよ。別に、そんなわけじゃない」

「じゃあ、普通に話せばいいじゃん。高校も同じなんだし」


 さっきのように動揺はしていない。口調も落ち着いているし、さっきまでの靄はもう無くなっている。


 それでも、亮が投げてくる言葉に、俺は全然言い返せない。その全てが正論で、傍目から見ると、確かに亮の言い分は正しい。


 それは分かるのに、俺の意思はその正しさを素直に認めてはくれない。


「…と、これ以上は本当に昇が何も言えなくなりそうだから、これくらいにしといてやるよ」


 そして、亮はニヤリと笑った。


「……なんだ、それ」


 結局、何も言い返せない。それどころか、この会話が終わって何処かホッとしている自分がいる。


 そんな自分も、本当に情けない。


「本当、不器用な男だねー、昇さんは」


 亮は、やけにご満悦な様子で笑っている。


「…仕方ないだろ」


 若干ふて腐れ気味に答える。やはり、亮に対してこの話題を出すのはまずかったということか。


 亮からの返答がなく、不思議に思ってそちらを見ると、「おやおや」と言いながら、何やら亮はニヤニヤ不敵な笑みを浮かべている。


「そこは、『うっさいな』とかじゃなくて、認めちゃうだな」

「……!」


 しまった。確かに、この切り返しでは認めるような意味になってしまう。


 亮は、うざったらしいニヤニヤ笑いを俺に向け続けている。腹立たしいのに、そちらには顔をちゃんと向けられない。


「……うっさいな」


 出るべきタイミングで出なかった言葉が滑り出た。そして、ここで出るこの言葉は完全に致命傷だ。


「って、」


 すると亮は、


「お前、本当に素直過ぎ!っていうか、もはや全て顔にしか出てなくてめっちゃおもろい!」


 隣で、亮は遠慮なくゲラゲラ笑い始めた。その反動で、自転車が左右にグラグラ揺れている。


 そんな亮の反応に、ただでさえ暑くて汗だくなのに、身体の奥の方まで熱くなってくる。


 もう、どうにでもなれ。


 なんだか、さっきから調子が悪い。あの樹の下で芹沢と二人きりになり、その後に隣を走るのが亮になったのが悪かったか。


 亮に文句を言おうと思ったのが、逆に亮の言葉に動揺して何も言えなくなって、最後の方には普段絶対に言わないような事を言ってしまっている。


 もはや、怒りも恥ずかしさも何処かに行ってしまって、心の中は変に空虚な感じだ。


 本当、どうにでも、



「でも、普通に良い機会だと思うぞ」



 サラッと投げ掛けられた言葉に、ハッとして視線を向ける。


 亮はすでに笑っておらず、表情は元の澄ましたものに戻っていて、前を見てただ自転車を漕いでいる。声のボリュームも、全然小さかったのに、その言葉はすんなりと耳に入り込んできた。


「確かに、芹沢が来るっていうのは原田から聴いてたし、それを昇には言わずにいようって言ったのは俺だよ。でも、それは別に面白がってたわけでも何でもない。多分、原田もおんなじような気持ちで、黙ってたんだと思う」


 口調は淡々としているし、ずっと亮は前を向いたまま表情を変えない。


 それでも、今亮から吐き出された言葉に、亮の本心の全てがあるように思えた。


 なぜ、亮は俺に黙っていたのか。


 その理由を、内心で言葉にしようとしたがやめた。それを自分の中で形にしてしまうのは照れ臭かったし、まだまだ気持ちの整理には時間が掛かる。


 でも、


「ったく、不器用な友人を持つと、幼馴染は何かと難儀なんだよ」


 さっきまでの口調とは裏腹に、少しやけくそ気味に亮は話を終わらせた。その顔が若干赤く見えるのは、ただの暑さのせいか。


「うっさいな、何のことだ」

「惚けてろ。ムッツリ鈍感スケベ幼馴染」


 看過できないあだ名を付けられ、「おい、そのあだ名は本気で訂正しろ!」なんて抗議しながら、そのやり取りがただの照れ隠しであることは、お互いが分かっていることだった。


―――


 夏の太陽は、昼を過ぎてからでもずっと頭上高く昇り続けたままで、まだ傾いてはくれない。


 容赦なく降り注ぐ太陽の光と熱は、ピークの時間帯を超えているのだろうが、太陽の下、真っ只中にいる俺たちにはそんなことは何の慰めにもならない。


 「海に向かって」は、ラストスパートに差し掛かっていた。


 昼過ぎから走り出して約二時間半。休憩を挟みながらではあるが、案外皆体力があるようで、結局午前とそこまで変わらないペースでとうとうここまで来た。


 周りに見えている風景は、田舎なことには変わらないが、すっかり見慣れない風景に変わってしまっていて、空気も何となく変わってきている。


 道も、広くきれいに整えられた道になってきて、それまではほとんど走っていなかった車が、俺たちを追い越していく回数も増えてきた。


 追い越していく車の中には、車体にサーフボードを乗せた車もチラホラと見える。


 疲れもピークになってきているし、着ているTシャツは汗を吸い過ぎてベタベタで若干重い。それでも、さっきに比べて少し涼しく思えるようになっているのは、時間が経って気温が落ち着いてきたからではない。


 強い風が、吹くようになってきていた。


 向かいから吹いてくる風が、汗だくのTシャツをはためかせると、やけに心地良い。照りつけてくる暑さは全く変わっていないように思うが、吹いてくる風のお陰で体感気温は随分下がっている。


 それでも、皆疲れてきているのは確かだ。


 後ろが付いてきているか、確かめるために振り返る。


 少し離れた後ろからは、原田と芹沢が隣同士で付いてきている。二人とも、ペース自体は落ちてないが、流石にもうほとんど話はしてはおらず、たまに二言三言の会話が聞こえてくるだけだ。(それは大体、原田の暑さに対する愚痴がほとんどだ。)


 約一時間前に取った休憩のタイミングで、原田が高らかに「チェンジ!!」と宣言した。


「吉川、あんた後ろに行って。桜とチェンジ」

「えっ!そんなー、原田様!」

「うっさい!もう、あんたの相手してられる程、流石の私も体力残ってない!」


 と、残り少ないと言っている体力を使って、結構なボリュームで吉川に食って掛かった原田は、そのまま主張を突き通し、芹沢を隣に呼んだ。


「理久ー、振られた可哀想な俺を、お前なら慰めてくれるよな!」

「うん、それは良いけど、両手広げてこちらに向かって来ようとするのはやめてくれるかな?」


 ともすれば抱きつこうとにじり寄ってくる健吾を、本気で警戒しながら、理久は苦笑いを浮かべていた。


 そんなわけで、今はすぐ後ろに原田と芹沢。理久と健吾がしんがりを務めてくれているわけだけど、流石に一番後ろの二人も大人しくなっていて、うるさい声はもう聞こえなくなっている。


「あと、どれくらいで着きそうか?」


 隣を走る亮に尋ねる。流石に、亮も少し息は上がっている様子で、さっきから俺たちも会話らしい会話はほとんどしなくなっていた。


 亮は、「うーん?」とか言いながら、若干だるそうに腕時計の時間を確認した。


「もうちょいだと思う。俺も、流石にこの辺はほとんど来たことなんかないから、あとどれくらいで着くのか分からん」

「えっ、じゃあこの道ってちゃんと合ってるのか?」

「方向は間違いなく合ってる。でも、これが近道かどうかは知らん!」

「そんな高らかに言われても…」


 亮の開き直りに、苦笑する。


 とは言っても、確かにここまで来ると俺自身もほとんど来たことはない場所なので、土地勘はさっぱりだ。さっきから、当てにしているのは、要所要所に設置されている青い案内看板の「氷見」の文字だ。


「でも、時間的にはあと三十分ほどじゃないのか?」

「恐らくは。ただ、これも俺が憶測で出してた時間だから、本当かどうかは知らん」


 ここに来て、何とも不安なことを言う。


「ちょっと待て。だとすると、ひょっとするとまだまだ先っていうこともあり得るのか?」

「いや、それはないな」


 亮は、キッパリとその不安を一蹴した。


「看板的にも、確実に氷見には近付いているし、何よりも…」


 そして、ニヤリと笑った。


「海の匂いがしてきた」


 その時、一層強い風が吹いた。先頭を走る俺たちは、その直撃を受けて、若干バランスを崩す。


「あっ」


 しかし、その風が連れてきたものがもう一つ。亮が言った、海の匂いだ。


 少し生臭ささを含んだ、潮の香り。多くの生き物たちの生命を含んだ、自然の匂い。


 普段は、純粋に臭いと思うその匂いが、今は思いの外悪くない。


「あっ、潮の匂いがしてきた」


 その風は、当然後ろにも流れた。原田が、すかさずリアクションする。


「っていうことは、もう海近いのかな!」


 原田の声は、一気にテンションが上がっていて、少し近付いて来ている。


「おっ、いよいよゴール間近か!」


 最後尾、一番遠くにいるはずの健吾の声が、喧しさを取り戻してここまで届く。


「由唯、一気にペース上げ過ぎ!流石についていくのしんどいよ!」


 芹沢の声もどんどん近付いている。原田が、テンション上がってペースを上げたのか、それに対して文句を言っているが、言葉と裏腹にその声はどこかはしゃいでいる。


「よーし!皆の衆、最後の頑張りどころだ、一気に行くぞ!」

「って、女子の尻追っかけてるポジションで仕切るな!」


 後ろから、何故だか健吾が全体に檄を飛ばしたが、すかさず鋭いツッコミを入れたのは亮だ。


 「何をー!ポジションはどうしようもないだろ!」と健吾は後ろでギャーギャー叫んでいるが、それに対して亮は振り向きながら、「うっせぇ!お前は俺の尻を追いかけるのがお似合いだ!」と健吾を煽っている。二人とも、さっきまでの静けさはどこへやったのか、テンションも喧しさも一気に上がっている。


 「まぁまぁ」と、後ろの方から健吾を宥める理久の声が聞こえてくる。その声が、さっきよりも全然近くなっていた。


 一番後ろの二人の声がここまで近くに聞こえるということは、原田と芹沢の二人も、今結構すぐ後ろにいたりするのか。


 そんなことを考えて、すぐにかぶりを振る。何を、それくらいのことで緊張しそうになっているのか。


「よし、あと少しで海も見えるだろうから、ラストスパート行こうか!」


 余計なことを考えないようにと、腕を振り上げて後ろに呼び掛ける。やはり、後ろの四人ともすぐ近くまで距離を詰めていて、その誰の表情も明るい。


 「あぁ、俺の台詞!」という健吾の声を掻き消すように、他四人全員が「おー!」と呼応して、片手を振り上げた。それに、思わず笑みが零れる。


 あぁ、何かこういうのっていいな。


 こういうことをしたかったのだと、そんな実感がジワジワと自分の内から込み上げてくる。


 自転車で海に向かう。


 約六時間近く、真夏の暑い中をしんどい思いしてここまで来た。目的は、ただ海に行きたい、ただそれだけ。電車を使えば一時間少しで行けるものを、わざわざ自転車でここまで来た。


 行きだけで結構疲れた。明日も帰りがあると思うと、正直今からゾッとする。


 高校に行って、結構疎遠になってしまったこいつらと会うのも少し怖かった。だけど、会ってみたら皆あの頃と何も変わってなくて、すぐにあの頃に戻れた。芹沢が来たのが本当の誤算で、それだけがたった一つの文句だ。


 と、思っていたのに。


 今、俺は芹沢の顔を思い浮かべてみても、今朝ほどの腹立たしい気持ちは湧き上がってこない。


 まだまだ、自分の中で整理できてないところは多いし、亮が言うように普通に話すなんてとてもできないけど。


 でも、芹沢が来なければ良かったのに、と思っていた自分は今はいない。


 だから、今、この時。


 誰の目から見ても、青春だと胸を張って言えるこの瞬間を、最高に楽しもう。


 だから、



「海だー!!!」



 誰からともなく、歓声が上がった。


 眼前に、どこまでも広がる地平線の海が広がっていた。


 それは、夏の太陽の光を受けてキラキラと輝いていて、今まで見た海の中で一番綺麗に思えた。


 一気に潮風が吹き付けてきて、頰を身体を乱暴に撫でる。身体に、服についた汗がその風で吹き飛ぶ。それは、「お疲れさま」と俺たちを労ってくれているように思えた。


「うおー!!着いたぞー!!」


 後ろで、健吾が叫ぶ。


「着いたねーー!!」


 理久も、歓声を上げている。


「きーもちーー!!」

「きーもちーー!!」


 原田と芹沢が、はしゃいでいる。


 そして、


「昇」


 その声に、横を向く。


 亮が、グッと拳を握って俺に掲げている。


「着いたな」

「おう、着いた」


 俺も、拳を握って亮に向ける。


「お疲れ」

「お前もな」


 そう言って、お互いに拳を合わせた。


 俺たちは、とうとう海に到着したのだ。


―――


 「海に向かって」、今五人は海に到着した。


 この旅行は、ここからが本番だ。


 だけど、いずれにせよ、今ここに着いた時点で、一生忘れられない夏の思い出ができたのだと、そう誰もが確信していた。

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