第8話「海に向かって」①

 暑い。


 さっきから、そんな感想しか浮かんでこない。


 皆でお弁当を食べて、木陰で休んで(正確にはコンビニに行っていたので、思ったより休めなかったけど)、空腹も体力も回復させて元気いっぱい再び走り出した。到着予定は午後四時と聞いているから、時間的にはこれまで走ってきた距離を同じように走れば、氷見に到着する計算になる。


 そう考えると、思ってたよりも楽勝かなーと思ったけれど、走り出して早々、それが随分甘い考えだったと痛感させられた。


 今思えば、午前中は三時間ほぼノンストップで走り続けてきた。今日終始うるさい男子陣は、やはり男子なだけあって体力はあるみたいで、桜と結構早いペースで走ってきたつもりだったのに、特に苦もなく付いてきていた。むしろ、結構なハイペースに普通に合わせてきていた桜が、純粋にすごいと思う。


 それが、午後からも続けられればいいけど、流石に疲労は知らず知らずのうちに溜まっていたみたいだ。


 走り出してすぐに、若干足が重いなと思って、それは休憩明けのだるさだろうと自分に言い聞かせていた。少し漕げばまた戻るでしょ、と。しかし、足は一向に戻ってくれず、それどころか漕げば漕ぐほど足の動きが鈍くなっていくみたいだった。


 この感覚は、試合の時に似ている。序盤の試合では、思い通りに動いてくれる身体が、少しずつ重くなってきて動きが鈍くなっていく。特に、次の試合までしばらく時間が空くときや、昼食後の試合になると、その感覚が一番強くなる。


 その時にやる試合は本当に嫌だ。いつもは俊敏に動いてくれる身体が嘘みたいに動かなくて、反応も鈍くなる。そして、ミスも多くなる。


 自分が自分じゃないみたいな感覚。この感覚を抜け出すには、とにかく思うように動かない自分の身体の気持ち悪さに耐えて動き続け、次第に身体が元の動きを取り戻すのを待つしかない。


 今は、まさにそんな感じ。午前中はあんなにスイスイ動いてくれていた足が、思うように動いてくれず気持ち悪い。


 しかもそこに、真夏の真昼のマックスの暑さがある。


 午前中でも十分過ぎるくらいに暑かったけど、それ以上に今降り注いでいる太陽の暑さは、これが本気とばかりに容赦がない。


 ジリジリと照り付けてくる太陽は、冗談抜きで肌を焼いてきていて、素肌をさらしている腕や顔が熱さで痛い。日焼け止めは塗っているけど、もうここまで日に晒されて汗も掻いていると効果を発揮してくれているかどうかも怪しい。


 そして、直射日光にさらされていないTシャツの下も、完全サウナ状態で熱気が籠っていてすごく暑い。


 もはや全身汗だくで、Tシャツからズボンまでずぶ濡れになってしまっているので、ここまでくると、化粧落ちとか髪型とか若干やけくそ気味にどうでもいいやーと思ってきてしまう。それでも唯一思うのは、今日着てきたのが一番のお気に入りの白Tシャツでなく、透けにくいTシャツにしたことだ。行くときはどちらを着るか迷って、最終的にこちらを選んだ出発前の私に心からありがとうと言いたい。


 知らず知らずのうちに溜まっていた疲労感、そこに合わせてこの暑さ。


 それだけで、気力を削ぐのには十分だというのに、


「うおー!マジで暑いぞーー!!」


 どうして、このタイミングで隣を走るのがこのアホなんだろうか。


「…吉川、とりあえず黙るか、息止めるかどっちかにして」

「って、片方の選択肢死ねって言われている気がするのは俺の気のせいか!?」

「気のせいじゃないから、遠慮なく息止めてくれていいよ」

「おう、そうか分かった!…って、マジで死ぬわ!」


 このしんどさの中で暑苦しいほどのノリツッコミを返してくる。


「うぅ、今の状況で吉川に変なボケ投げるんじゃなかった…吉川のテンションのせいで、私の体力がますます削られる」

「こらこら、心外なことを言うなよ。俺は、こうして元気を振りまくことによって、皆に元気を分け与えるヒーロー…そう、例えるならアンパンマンのように!」

「とりあえず、全国のちびっ子達に謝って、そのまま私に自転車ごと土下座しなさい」

「どんなアクロバティックだそれは!素人やったら完全顔面粉砕コースじゃねぇか!」


 吉川は、こりもせず全力稼働のツッコミ全開だ。


 呆れた顔でも見せてやろうと思ったけど、不覚にもクスリと笑いが零れてしまった。自転車ごと、地面に突っ込んでいく健吾の絵が頭の中に浮かんでしまった。


 吉川とは、今朝会った時からずっとこんなやり取りを繰り返している。中学の時から、こんな感じで吉川とはアホなことを言い合っていた気がするけど、高校生になって久しぶりに会ったというのに、むしろあの頃以上にテンポが良くなっている気がする。


 吉川本人には絶対に言わないけど、このやり取りを面白いと思ってしまっている自分がいることは、悔しいけど認めざるをえない。


「いいんじゃない?一回、粉砕して作り直したら、もっといい顔になるかもよ?」

「なるか!」


 恐らく今日一番の疲れのピークかもしれないこのタイミングで、吉川が隣にいるのは何気に悪くないかもしれない。こんなアホなやり取りをしていると、多少なりとも気が紛れる。そうしていくうちに、少しずつ足も戻ってくるかもしれない。


 今、一番前は昇と井川が走っていて、私たちは真ん中。最後尾に、桜と理久君が付いてきている。昇と井川が先頭なのは、道のりも半分を過ぎてきたところで、そろそろ道も分かりにくくなってくるので、先導するということだった。


 後列を決める時に、今までのように桜と並走でも良かったが、せっかくなので男子と並んで走るのも面白そうかと思って、私がポジション変更を提案した。


 桜には悪いが、理久君と並走ならのんびり行けるかな、と吉川を桜に押し付けてしまうことを考えていたら、吉川の方から「では原田様、私の隣に」となぜか下僕よろしく私の隣にかしずいてしまった。


 そして、その場のノリで「ふむ、ご苦労」なんて言って、まんまと配置を決められてしまった。あの時の私のバカ。ノリに身を委ねるな。


 しかし、思っていたよりも今の状況を楽しんでいる自分がいるので、それは結果オーライと言うべきなのだろうか。


 ふと、意識が後方へと向く。


 少し離れ気味の後ろで、桜は理久君と楽しそうに話をしているみたいだ。


 桜と理久君が並んで話しているというのは、相当珍しい。むしろ、初めて見る光景かもしれない。


 中学時代、昇きっかけで今回の男子メンバーとも絡んでいたけど、そこに桜が混じるということはなかった。井川と吉川も、実は桜とは小学校時代に一緒に遊んでいたということらしいけど、中学からメンバーに加わった理久君とは、全然交流がなかったと思う。実際、中学時代に二人が何か話をしているというのは見たことがない。


 だが、後ろから感じる気配は思っていたよりも楽しそうで、二人とも自然に会話をしているみたいだ。


 そこまで考えて、そういえば中学のテニス部時代、桜も理久君も部長だったので見えない所で話す機会は度々あったのかな、と思い当たった。


 二人とも、真面目で大人しい印象だけど、実際は周りが思っている以上に明るく社交的だ。タイプも近いので、結構気も合うのかな。


 って、何でこんなに桜のことを気にしているんだろう。


 完全に視点がお母さん目線になっていて、我ながら内心苦笑する。自分のあずかり知らぬところで、桜はちゃんとやれてるんだろうかと、気分は子離れできないお母さんだ。


 余計なお世話なのは、桜の性格を考えても重々承知のつもりだけど、今日はずっと桜のことを気に掛けている気がする。それというのも、「海に向かって」に誘ったことに、若干私自身が負い目を感じているのかもしれない。


 色んな意味で、桜にとって今回の旅行は決して居心地が良いとは言えないと思う。それは、桜自身も恐らくメンバーを伝えた時点で分かっていたことだと思うけど、それでも桜はこうして来てくれて一緒に居てくれている。


 だからこそ、声を掛けた張本人としては、できる限り桜には楽しんでほしいと思っている。


 そして、余計なお節介もあれこれしてしまっている。


「ところで、吉川」

「うーん?どうしたー?」


 ハンドルに突っ伏した姿勢で、けだるそうに自転車を漕いでいた吉川が、そのままの態勢でこちらを向く。


「吉川、何でさっきコンビニに行こうなんて言い出したの?」


 吉川の提案は、若干違和感があった。いくら体力バカとはいえ、結構なペースでここまで走ってきて、ようやく休憩らしい休憩ができるというのに、わざわざコンビニに行くなんて、正直体力の無駄遣いだ。


 しかも、当の本人はコンビニに着いてあれこれ見た挙句、「俺の望むものがない!なぜだ、神よ!」とアホなことを言って、結局サイダー一本しか買わなかった。


 それも、休憩の時の乾杯ですでに空になってしまっているし、さっき吉川はほぼ満タンの二リットルペットボトルをガブガブ飲んでいた。わざわざコンビニに足を運んでまで必要だったとは、とても思えない。


 いや、むしろ元々何も買うつもりはなかったのか。


 そう考える方が自然だった。


 となると、思考は余計なお節介に向く。


「何でって、そりゃ飲み物の物足りなかったからに決まってるだろー」

「あんた、さっきアホみたいにガブガブ飲んでたじゃない。二リットルほぼ満タンなのを」

「いちいち、アホみたいって付けるなー!流石の俺も傷付いているんだぞ!」


 さっき思ったことは、若干前言撤回だ。やっぱり、今のこの体力でこのアホに必要以上に付き合うと、こちらの体力がもたない。


「まぁ、それはどうでもいいとして、実際どうなのよ?」

「どうでも良くはねぇけど…って、何でそんなこと気になるんだ?」


 逆に問いだたされると、言葉に詰まる。


 もしかして、昇と桜を二人きりにできるかもって思ったんじゃないの?


 そう言ってしまえばいいけれど、よくよく考えてみると、我ながら本当にお節介にも程がある。


 というか、この吉川がまさかそんなことを考えていたとはとても思えない。


「…いや、何となく」


 結局、吉川の方はまともに見れず、滑り出た言葉も尻すぼみで何とも頼りない。


「あれー?何となくって、気になるなー。それこそ、こんな疲れている状態で何となくで原田様がそんなことを言ってくるとはとても思えないなー」


 しかし、健吾はまるで先ほどの仕返しとばかりに詰め寄ってきた。顔は見えないが、口調は完全におちょくっている。


 それに対して、スマートにさらっと受け流せればいいのに、私の吉川に対しての沸点はあまりに低い。


「うっさい!ええ、そうよ、ちゃんと気になることがあったから聴いたの!」


 睨み付けて一気に畳み掛ける。そうすれば、直ぐに攻守は元に戻る。吉川は「ひぃ!」と言って一瞬で下僕へ逆戻りだ。


 「すいませんでした!」を繰り返す吉川を、なるべく威圧感を消さずにプレッシャーを掛け続ける。自分としては、多分に照れ隠しの意味合いも強いので何とも微妙な気持ちだけど。


「…それで、改めてその質問は一体何だったのでございましょうか?」


 ある程度威圧が終わり、すっかり縮こまったところで、改めて吉川が聞いてくる。その態度は、まさしく主人に叱られた下僕のそれだ。


 しかし、聴こうとしていることは、むしろ私の方が恥ずかしいので、呆れたフリでそのまま前を向き続ける。


「いや、ひょっとしたらひょっとして、吉川は桜と昇をあの状況にしようかと思ってコンビニに行こうって言いだしたんじゃないか、って思っただけ」


 一気にまくし立てた。やはり、口に出して実際に言ってみると思った以上に恥ずかしい。どれだけ私は、桜のことを気にしているのか。


 あの時、吉川が連れて行ったのは男子二人だけだ。あの場で私も抜けない限り、そんな状況は訪れないし、そもそもあの提案の時点で昇も行くと言っていたらそんなことにはならない。桜のことで色々気を揉みすぎて、思考が変な方向に行ってしまっているんだろうか。


 さっきの吉川のおちょくった口調が頭の中でリフレインしてきて、その感じで来たらすぐにねじ伏せてやる、と臨戦態勢になる。


 ところが、吉川は黙ったままで何も言ってこない。


 なるほど、そういうパターンで次は来るのか。


 この沈黙の時間は、私にとって結構恥ずかしいのに、それを楽しんでいるのか。

 

 そういうことなら、先手必勝。早い所さっきと同じようにねじ伏せて、この話はこれで終わりだ。


「って、吉川聴いて…!」


 「るの!」と続けようと顔を向けたところで、固まった。


 なぜか、ポカンとした顔で吉川がこちらを見つめている。


「えっ?」


 その反応に、こちらも思わず固まる。吉川の表情は、決してバカにしている様子ではなく、図星を言い当てられて開いた口が塞がらない、といった感じだ。


 まさか、吉川は本当に、


「まさかあんた、本当にそんなことを考えて?」


 そうだとしたら、吉川への認識を若干改めないといけない。桜と昇の今の微妙な関係を知っている吉川が、私の行動も予測して(不本意だが)あの提案をしたのだとしたら、それはなかなかにファインプレーかもしれない。


 あんな短い時間二人きりになったところで、というのは桜の性格を知らない人の言い分だ。桜にとって、恐らくあの時間は大きな意味を持つ。


 それを、狙ってやったのだとしたら、


「吉川、あんた…」

「あぁ!言われてみれば確かにそうなったな!」


 一瞬、思考が止まった。


 今、こいつは何と言った。


 吉川は、「あぁ、そういえば!」と何度もうんうん頷いていて、一人で何やら納得している様子だ。


 しかし、私は今頭の中で巡らせていた思考が、浜辺の砂のようにさらさらと流れ落ちていく感覚を覚えた。


「えっ、じゃああんたは本当に飲み物買いに行くつもりだったとか?」

「いやー、そのつもりだったんだけど、コンビニ着いた時に、『そういえばもう一本なかったか!』と思い出したわけよ。二リットルをさらに追加して持っていくのは、流石にしんどいだろ」


 さっきのと合わせて二度目の前言撤回だ。


 やっぱり、こいつは本当にただのアホかもしれない。


 何の遠慮もなく、大きなため息を吐き出してやる。


「…あんた、とりあえず黙ってくれたらいいよ」

「えっ、俺なんかした!?何でそんなテンション下がってるの、原田様!」


 そこから、執拗に「何で何で!」と聴いてくる吉川を、「うっさい!」の一言で黙らせて、そこからは無駄に削られた体力を温存させることに徹した。

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