第7話「大きな樹の下で」③
「おーい!待ちたまえ、君たちー!」
振り返ると、手を振りながら原田がこちらに向かってきている。
「あれ?原田か?」
「だと思うよ。何かまだ欲しかったんじゃない?」
気付いた亮と理久が、振り返って自転車を止めた。
「よし、俺が行こう!」
俺は、すぐさま急ブレーキでドリフトを掛けると、反転して一気にペダルを漕ぎ出し、全力で原田に向かっていく。
「何事か、原田様ー!」
「そのキャラ飽きた。うざい」
グサリと音が聞こえてきそうな程、情け容赦ない言葉が胸に突き刺さる。しかも、全力で向かってきた俺を、あっさりと素通りするオマケ付きだ。さっき、思い切り背中に蹴りを喰らわされたので、ラリアットを喰らわされなかっただけマシとするべきか。
しかし、原田の言葉に少しホッとしている自分がいた。あのキャラは、終わりどころを見失って、正直自分でゴールが見えてなかった。
「さぁ、阿呆はほっといて、コンビニへレッツゴー」
「待たんかコラー!」
大袈裟に全力で自転車を漕いで、三人を追いかける。
原田は、「キャー!」とか言いながら立ち漕ぎに切り替えて加速し、亮は「ヤベ、変態が来る!」と相変わらずの悪ノリで、理久はそんな二人につられるがままに立ち漕ぎで俺から逃げようとする。
朝から続くこのやりとりが、たまらなく楽しい。
高校に入ってから、今日のメンバーと会うのは本当に久しぶりだ。中学の時は、俺たちはもちろん、原田も一緒になって今日のような阿呆なやり取りを毎日のように繰り広げていた。
俺がボケて、それに対して原田と亮が容赦なくつっこんで、それを理久だけが優しく笑ってくれて、昇は呆れて苦笑いを浮かべている。
毎日そんなことが続くものだから、毎日が本当に楽しくて、学校に行くのが本当に楽しみだった。
そんな日々がずっと続けばいいと思っていたのに、高校に入って俺たちは連絡を取り合うこともなくなり、会うのがこんなにも久しぶりになってしまった。
しかし、男連中に対しては久しぶりの再会にもそこまで緊張はなかった。昇と亮に関してはそもそも小学校からの腐れ縁だし、理久も二人と遜色ないくらいに仲良かったので(まぁ、多少俺の悪ノリに強引に合わせてもらってる感はあるが)、久しぶりに会ったとしても会えばすぐにあの頃に戻れるという確信があった。
だが、女子に関してはちょっと違う。正直、原田と芹沢に関しては、我ながら珍しく緊張していた。
事前に、亮から原田と芹沢が来ることは知らされていて、今朝あの二人が実際に来る前までは無駄にテンションを上げて、その緊張を紛らわせていた。
高校に入って、中学の時の女子がメチャクチャ可愛くなっているということは、よくあることだ。
実際、うちの高校でも同じ中学だったやつが何人かいるが、中学の時は全然目立たなかった女子が、急に垢抜けて学年トップクラスの人気女子になってたりする。女子の、中学生から高校生へのジョブチェンジというのはなかなかに侮れない。
それが、中学時代で既に学年人気同率首位を取っていた原田と芹沢の二人が、高校生になってどうなっているか。
楽しみであり、珍しくそれが緊張の種となった。
だから、他の男子連中に悟られないように、いつも以上にテンションのギアを上げていた。
男子の中では最後に昇が到着して、中学校時代に戻ったように亮とアホなやり取りを繰り広げ、俺もそれに乗っかる。
そんな中で、最初に来たのは原田だった。
中学時代から美少女と名高かった原田だったが、久しぶりに見るその姿は遠めからでも圧倒的美少女の貫録を残したままだった。いや、むしろその可愛さは更に昇華されていた。
格好は見たところシンプルな感じだが、まとっているオーラそのものがクラスにいる女子たちとはレベルが違う感じがした。
でも、緊張を紛らわすために最初に放った一言に対して、原田は轢くギリギリドラフトで応えてくれた。
その瞬間に、一気にあの当時に引き戻してもらえた。
あれだけの美少女とどうしてあの当時あんなに仲良くしていたのか。
会わない期間が三年近く過ぎ、あの当時の記憶が薄れている中で、それが自分の中で少し不思議になっていた。
しかしそれは、ひとえに原田のノリの良さと屈託のなさにあったと思い出させてもらった。
だから、今もこうして阿呆なやり取りを繰り返していられる。
「何なら、このままコンビニまで競争するか?」
試しに、けしかけてみる。
「いや、止めとく。さすがに、さっきみたいな全力疾走はこの後のことを考えると無理」
「よし、よく言った原田。とりあえず、少し落ち着いて自転車を漕ごうじゃないか」
流石に冷静になっている原田は、ゆっくりと減速していった。それに対して、ほっとしたように亮もサドルに尻を戻し、理久も合わせてスピードを緩めた。
「ったく、お前のせいでまた無駄に体力削られたぞ」
「えっ、それってもしかして私に言ってる?悪いのは、この下僕でしょ」
先ほど、おにぎりをもらってから、原田の俺に対する物言いはもう一切の容赦がなくなっている。これは、もしや悪魔に魂を売ってしまったか。
「何を言う、俺はお前のことを正面から受け止めてやろうと…」
「キモい。今度は、正面から蹴りを入れられたい?」
情け容赦ない返答。すでに、言葉で腹に蹴りを入れられた気分だ。
「ひ、ひどい…」
よよよ、と泣き真似をする。しかし、原田は我関せずキレイにスルーの構えだ。
「まぁ、阿呆はこのまま泣かせておくとして、何で原田来たんだ?お前、サイダーだろ?」
亮が話を戻す。何気に阿呆と言われたことは、話を終わらせてくれた礼にスルーしておいてやろう。
「えー。そりゃもう、私なりに空気を読んで心を砕いてきたわけだよ」
言って、原田は悪戯っ子の笑みを浮かべた。
一体、何のことだと思ったが、どうやら亮はその言葉ですぐにピンときた様子だ。
「…なるほど、昇と芹沢か」
「ピンポーン。大当たり」
そして、原田はにやりと笑った。
その会話に、俺も内心で「あぁ」と合点がいった。
―――
芹沢が来ても本当に大丈夫なのか?
今朝、原田が合流した後、俺はそんなことを思っていた。
事前に、芹沢が来ることを亮から聞かされていたのは、いざとなれば場の空気を和ませてくれ、という亮からの暗黙の依頼だった。
今日のメンバーの中で、本当の意味で昇と芹沢のことについて知っているのは俺と亮だけだった。かく言う俺たちも、どうしてあの二人があんなことになっているのかは、正直なところちゃんと分かってはいない。
それでも、あの二人がまともに顔を合わせた時の空気がどんな風になってしまうのかはよく分かっていた。
だからこそ、亮は事前に俺に芹沢が来ることを教えていたのだろう。
しかし、そんなことは露知らぬ昇は、あの時楽しそうに場を取りしきっていた。
その表情が、一瞬で凍り付くのだろうということは、俺と亮だけが知っていた。
そして、出発しようとした昇を原田が引き留めて、もう一人女子が来ることを告げた。
すると、昇の表情は見るからに引き攣っていった。
その時点で、恐らく昇はほとんどこの後の展開を予想していたんだと思う。
そして、芹沢が来たわけだが、あの時は思わず声が上がりそうになるのを堪えた。
遠くから、まるで天使のように綺麗な芹沢が自転車に乗って向かってきた。
中学生になってからはすっかり絡む機会がなくなってしまったが、小学生の時はほぼ六年間、亮や昇含めて一緒に遊んでいた仲だ。その当時は、俺たち男子三人と一緒に遊んでいた影響もあってか、むしろ男子よりも活発なお転婆娘だった。
小学生男子なんてのは、女子を特に異性として見ることなんてなかったし、それが男子と同じようにあちこち駆け回ってずっと一緒にいたら尚更で、何か特別意識するようなことはなかった。
しかし、中学校に入ってから芹沢は見る見るうちに綺麗になっていって、原田と並んでクラスの男子の憧れの存在になっていった。
そんな芹沢が、高校生になるとここまで化けるのか。
ショートパンツに半袖Tシャツというシンプルな原田に対して、芹沢は白のブラウスに七分丈のジーンズと大人っぽいスタイルだ。しかし、それがちゃんと似合っていて、まるでこれから別荘に出かけるお嬢様といった形容詞がぴったりと当てはまる。とても、これから炎天下の中を自転車で海まで向かうメンバーの一人とは思えない。
ひとしきり、原田と謎にキャッキャとはしゃぎ終えると、俺たちに対して声を掛けていく。そうして向けられる笑顔に、理久はともかくとしても亮ですら少し動揺しているように見える。
まぁ、確かにこれは反則だわ。
かく言う俺も、顔が引き攣っているのが自分で分かる。
『久しぶりだね、昇』
しかし、昇にだけは空気が変わった。
芹沢の一言で空気がピンと張りつめた。
芹沢は、ピタリと昇を見つめて静かに言った。声のボリュームはそんなに大きくないのに、そこには有無を言わせない迫力があった。
それに対して、昇はぎこちなく答えているが、動揺しているのがバレバレだ。特に理久は、「久しぶり」と言った芹沢に対して少し困惑している様子だ。
思わず亮の方を見ると、亮も俺の方を見ていた。
『どうするよ?』
口パクでそんなことを言ってきたが、こちらとしてはそんなことを言われても、という感じだ。
この場の空気は、パンパンに膨らんだ風船のように張り詰めていて、いつ爆発してもおかしくない。そんな危うさを抱えていた。
「よーし!これで全員揃ったね!」
しかし、それを豪快に割ってしまったのは原田だった。
「じゃあ、行こう!」
その声に、俺と亮も乗っかってテンションを上げて空気を元に戻しに掛かった。
そうして、何とかトラブルもなく出発することはできたが、昇にしても芹沢にしても、何だか思い詰めた表情を浮かべていたことが、頭に張り付いてしばらく離れなかった。
―――
「あの二人も、いい加減素直になればいいのにねー。傍目から見てると、何かじれったくて、ついお節介焼いちゃった」
原田は、呑気な感じで言っているが、今あの二人はあの樹の下で二人きりなんだと気付いて、今朝のことを思い出してしまった。
というか、それは大丈夫なんだろうか。どちらかというと昇が。
「えっ、あの二人って何かあるの?」
理久が、目を丸くして言った。事情を知らない理久にとっては、今朝の「久しぶり」しかり、何となくの違和感はあるものの、よく分からず困惑しているといった感じか。
「あっ、理久君は二人のこと知らないんだっけ?」
小学校は別々の学校に通っていて、中学校から俺たちと仲良くなった理久があの二人のことを知らないのは当然だった。原田も、中学からの付き合いということは理久と同じだが、そこは芹沢経由で大体の話を聴いているのだろうか。理久に対しては、昇が話をしない限り絶対にそのことは伝わらない。
むしろ、原田が知っているということは、やはり芹沢は昇のことを原田に話していたということか。
そして、その上で原田が今回の旅に芹沢を呼んだということは、果たしてどんな意味を持つのか。
「と言っても、多分原田が想像しているようなことじゃないと思うぞ、きっと」
理久の返答より早く、亮が割って入ってきた。
「何よ、それ。まるで、井川は分かってるような感じね」
「いや、正直俺もよく分かってはいないんだけど、恐らくは原田が思ってるのとは、意味が違うと思う」
「えー、それってどういう意味よ?」
「さしずめ、芹沢が昇のこと好きで近付きたいけど、でも昇が冷たくて近寄り難いからどうしよう?って悩んでる、って思ってないか?」
「……」
沈黙が何よりの答えだった。
「やっぱり」
ふぅ、と亮がため息を漏らす。
「…何よ。違うって言うんなら、一体どうしてあんな風になってるの?」
「俺たちも、あの二人とは随分長い付き合いになるけど、どうして今あの二人があんな感じなのかは、正直分からん。なっ、健吾?」
思いがけず、話を振られた。
「えっ、俺か?うーん、そうだなー。小学校までは普通に俺たち四人で遊んでたけど、中学校になってクラスが離れてから、芹沢とは疎遠になって今に至るって感じかな」
「えっ、芹沢さんって小学校の時は健吾たちと遊んでたの?」
理久が分かりやすく驚いたリアクションをする。理久からすると、今回の旅行にそもそも芹沢が来たこと自体が不思議だったかもしれない。
「あぁ、そうそう。何たって、俺たちは小学校の時はいつも四人で一緒に居て遊んでる仲だったんだぞ」
「そして、昇に至っては赤ん坊の頃からの付き合いだから、幼馴染度で言ったら俺とかより全然上」
亮が補足すると、理久はますますキョトンとして困惑している様子だ。
「えっ、でもだったら何で昇と芹沢さんは、何ていうかあんなにギスギスしてるの?」
理久のもっともな疑問に、俺たち三人は顔を見合わせて苦笑いを浮かべるしかない。
「うーん、それはねー」
原田は、困ったようにあははと笑って言葉を濁す。
「正直、俺たちもよく分からん」
亮は、キッパリお手上げのポーズでため息を漏らす。
「…まぁ、よく分からんけど」
俺たちにもそれは分からない。
「俺が思うに、昇のやつがアホなんだよ!」
でも、この旅を通して何かが変わってくれれば、と長年の友人として思っている。
―――
気が付くと、いつの間にか本当に眠ってしまっていた。閉じた瞼の裏で目を覚ます。
場に流れている空気に緊張は感じない。芹沢がどこかに行ってしまったということは考えにくいが、気配は一応感じない。俺が本当に眠ってしまったので、芹沢も安心して警戒を解いたのか。
額を汗が流れ落ちる。木陰は日向に比べて涼しいとはいえ、身動きせずにじっとして眠っていたら流石に汗は掻く。それも、眠りから覚めて意識が戻ってきたら、思い出したかのように一気に汗が溢れ出してくる。
しかし、身動きは取れなかった。気配は感じないが、恐らく芹沢は変わらずすぐそこにいるだろう。また、ここで動いてしまっては先ほどの空気に戻ってしまう。それは嫌だった。
何とか、あいつらが戻ってくるまで、堪えるしかない。
「おーい!買ってきたよー!」
思わず、力が抜けて声が漏れそうになった。遠くから聞こえてくる元気溌剌な声は、紛れもなく原田の声だ。
「おーい、死んでないかー、二人ともー」
そこに、亮も冗談を重ねてくる。
ゆっくり起き上がって、伸びをする。顔中汗だくで、少しは乾いてくれたと思ったTシャツも、再びぐっしょりと濡れてしまっている。
「遅かったな、お前ら。思わず寝ちゃったぞ。というか、パシリをさせた原田まで何で行ってるんだ?」
顔の汗を拭いながら、原田に抗議の目線を送る。こいつの意図していたことは何となく想像がついているが、皮肉の一つでも言ってやらないと流石に気が済まない。
しかし、当の本人は予想通り惚けたフリで、「いやー」とか言っている。
「サイダーだけでいいかなー、と思ってたんだけど、お茶も欲しくなってね。気の利かない下僕たちだったら買ってこないと思ったから、私もついて行ったんだよ」
「おい、下僕認定されているのは健吾だけだぞ。俺と理久は対等な立場だから、一緒にするのはやめろ」
「っておい、さらっと俺の下僕を公認するんじゃねぇ!」
亮と健吾の漫才で、原田に対する皮肉はすんなり流されてしまった。「あっ、ちなみに理久君は全然下僕じゃないからね」と言った原田に、「ちょっと待て、それは俺も下僕認定されているってことか!」と亮も悪ノリを重ねてトリオ漫才に発展してしまっている。
何か、まんまと図られたって感じだな。
漫才の合間で、こちらを見た原田がニヤリと笑った。これは、完全に確信犯だ。
「さーて、コントはこれくらいにして。ほい、サイダー」
まだ下僕認定を撤回しようとギャーギャー言っている健吾と亮を尻目に、原田はさらっと空気を切り替えて、コンビニ袋からサイダーを取り出して芹沢に渡す。
「あっ、ありがとう」
礼を言いながらサイダーを受け取った芹沢だったが、何か言いたげに原田を見つめている。
しかし、そんな芹沢に原田は満面の笑みを浮かべているだけだ。
「ほら、ぬるくならない内に飲んじゃおうよ、桜」
「あっ、うん」
言って、自分の分のサイダーを取り出して掲げる。それにつられて、芹沢も同じように受け取ったサイダーを掲げる。
「ちょーっと、待った!」
しかし、なぜかそれを健吾が制止した。
「…って、何?」
女子二人仲良くしているところに水を差され、案の定原田は不愉快さを隠そうともせず健吾を睨み付ける。
先ほどまで、自他共に認められる下僕扱いを受けていたせいか、原田の睨みに健吾は一瞬ひるんだ様子だが、すぐに気を取り直し自分のサイダーを取り出した。
「せっかく全員分買ってきたんだ。ここは、やっぱり乾杯だろ?」
そう言ってドヤ顔をするが、俺たちは総じてキョトンだ。
「…はっ?」
ここで、一切の遠慮なく全員の心境を代弁してくれるのは原田だ。
「どういうこと?」
「だって、こんな青春シチュエーションなかなかないだろ?自転車で海に向かっている高校生男女が、大きな樹の下でサイダーを飲む。これはもう、乾杯するしかないやつだろ?」
だろ?と言われても、いまいちピンと来ない。健吾の言わんとすることは分からなくはないが、なんでそこで乾杯になるのか。
実際、原田は「何言ってんのこいつ?」という最初の馬鹿にしたような表情は崩さないし、芹沢も苦笑いを浮かべるばかりだ。
「いや、良いんじゃないか?」
ところが、ここで思いがけず賛成したのは亮だった。
「健吾の言う通り、せっかくこんな青春っぽいことやってるんだ。大きな樹の下で高校生同士がサイダー持って乾杯するって、何かCMっぽくていいんじゃね?」
確かに、言われてみればテレビCMとかで使われそうなシチュエーションだ。
「あぁ、確かに。それなんか、楽しそうだね」
思いがけず理久も乗り気で、すでに自分の分のサイダーも取り出している。
「うーん、確かにそういう風に言われてみればありかもね…」
さっきまで完全に馬鹿にして引いていた原田も、どういうわけか一転してやる気になっている。これで案外、原田はミーハーなところがあるので、テレビCMのシチュエーションというのに少し心が揺れたか。
「うん、やろう!ねっ、桜」
「えっ、あぁ、うん」
すっかり心変わりした原田の勢いに押され、芹沢もつられて頷く。
「おぉ、皆良いノリだぞ!っていうか、亮が言ってから反応変わりすぎじゃないか?」
「まぁ、それは当然なんじゃない?あんたのただの阿呆な思い付きだけだったら、私は絶対にやってないから」
「ひどっ!」
原田の容赦ない言葉に、健吾は大げさにリアクションを取るが、その表情はショックを受けているどころか何やら嬉しそうだ。
「で、昇はどうするよ?」
そう、ニヤニヤ笑いながら亮がサイダーを差し出してくる。
もう、一つの返答しか残されていない状況に、苦笑いを浮かべてサイダーを受け取る。
「この状況下で断るとか、そんな度胸あるわけないだろ」
「よし!じゃあ皆、各々サイダーを持て!」
テンションのギアをさらに二つほど引き上げて、健吾が音頭を取る。
その音頭に、各々サイダーを掲げる。
「まだ、蓋は開けるなよ。乾杯した後に、皆で一斉に開けるんだからな」
「じゃあ、お前のはよく振っておかないとな」
「って、それじゃあ噴き出して俺がベトベトになるやつじゃねぇか!」
取りしきっている時でも、亮のいじりに対しての反応は流石だ。それに、理久や原田や芹沢も笑っている。
「コホン」とわざとらしい咳払いをして、健吾は場を立て直す。
「よし、では改めて乾杯をしようじゃないか。では、音頭は昇よろしくお願いしします!」
「って、俺!?」
思いがけないご指名に、素の声が出た。全く予想外のコースから球が飛んできた。
それに対して、健吾はにやりと笑った。
「そりゃ、確かに発案者は俺だけど、ここで音頭を取るのはやっぱりリーダーたる昇でしょ」
「いや、リーダーとか初めて言われたけど」
「じゃあ、今回の旅の発案者」
「最初の言い出しっぺは、亮だ」
「でも、取りまとめているのは昇だぞ?」
ああ言えばこう言う。亮も、ニヤリと笑って自分に悪い鉢が回ってこないようにする。
「ともかく、この乾杯に関しては健吾発案だろうが!健吾やれよ」
「いーや!俺は確かに発案者だが、音頭を取るっていうのは何ていうか…こそばゆくて性に合わんから、昇頼む!」
なるほど、そっちが本音か。というか、自分がそう思うことを俺にやらせんなよ。
「ほーら、ぬるくなっちゃうから、昇早くやってよ」
まだ文句を言ってやろうかと思ったが、更に原田からも催促が飛んでくる。そして周りを見回すと、すっかり俺が言うんだろうといった空気が流れていて、全員が俺の方を見ている。
これは、逃げられない空気だ。
ふぅ、とため息を一つつく。
「…わかったよ。俺がやるよ」
「よし、それでこそ昇だ!」
「ただし!健吾は貸し一つだから、覚えとけよ!」
せめてこれくらいはさせてもらわないと、割に合わない。
「げっ!」と大げさに仰け反るポーズを取る健吾に、皆がコロコロと笑っている。そんな健吾の惚けた姿に、怒りを通り越して笑いが込み上げてきて、つられて笑ってしまった。
ああ。確かに、これは何て言うか確かにすごく青春っぽい。
「で、何て言って乾杯する?」
よくよく考えてみると、飲み会なんてしたことのない俺たちは、実際に「乾杯」をするのは初めてだ。何となく、乾杯の前には何かを言うのは知っているが、一体何を言えばいいのか。
せめて、発案者はそれくらい考えているだろうと思ったが、
「…へっ?」
案の定、健吾は何も考えていなかったようだ。
「おい、そこは発案者が考えておけよ」
「いやー、乾杯ってシチュエーションはいいかなーと思ったんだけど、音頭の掛け声までは考えてなかった。何て言おうかね」
「普通に、今回の旅行に、とかじゃダメなのか?」
「却下。青春感が足りない」
せっかく言ってくれた亮の意見は健吾により瞬殺だ。
「…って、一瞬で却下かよ。じゃあどうするよ?」
「うーん、そうだなー」
言って、健吾は腕を組んで考え込んでしまった。と言っても、あまりグダグダしていると、流石にだれてきてしまう。現に、原田の右足が疼いている気がするのは、俺の気のせいか。
「なぁ、昇。今回のこの旅行って、何か名前は付けてないのか?」
また、思いがけない質問が来た。
「名前?そんなもの付けてないけど」
「じゃあ、今付けろ!それに対して乾杯しよう!」
「おい、そんな無茶振りありか!」
しかし、俺の抗議も空しく、皆は俺の音頭を待つ態勢になってしまっている。健吾も、俺に完全に丸投げすることで逃げようとしている。
こいつ、貸し二つだからな、と内心で宣告をして思考を巡らせる。
氷見への自転車旅行、は普通過ぎる。高校最後の自転車旅、もありきたり。高校生たちが、自転車で海に向かう旅。自転車、青春、海…
『海に向かって』
「……『海に向かって』なんてどうかな?」
とっさに浮かんだ名前だった。フレーズとしてはありきたりだし、何のひねりもない。でも、とっさに浮かんだ名前だった。
中学校の頃の同級生六人が久しぶりに再会し、自転車で海に向かってひと夏の想い出を作る。海に向かって、そこで何が起こるかは分からない。やることも何か具体的に決めているようで決めてはいない。
でも、そこに俺は何か期待しているのか。
だから、「海に向かって」。
そこで起こる何かに期待を込めて。
「……」
しかし、それを聴いた皆は固まってしまっている。全員がキョトンとした表情を浮かべて、じっと俺の方を見つめたまま動かない。
さすがに、ありきたり過ぎるか。
あながち悪くないかも、と思ったが、皆の沈黙が一番の答えだ。次第に、恥ずかしさが湧き上がってくる。咄嗟に何か名前つけろという無茶振りに何とか応えようとしたのだ。文句があるなら、他のやつが決めてみろというものだ。
「なんて、流石にありきたり…」
「いや、良いんじゃないか?」
沈黙に耐えかねて、前言撤回しようとしたところに、亮から思いがけない返答が飛んでくる。
「『海に向かって』か。何か、それこそ映画や小説のタイトルっぽくていいんじゃないか?」
「うん、良いと思う」
理久も賛同してくれる。社交辞令で言ってくれているのかと思いきや、理久の表情は嘘を言っている感じではない。
「うーん、悪くないんじゃない?」
原田も、思いがけずOKの返答だ。口ぶりとしては、「悪くない」だが、これは原田の性格からすると十二分に合格点だ。
「桜も、どうかな?」
しかし、原田は一言余計だ。なぜ、そこで芹沢に振る。
「えっ?…うん」
芹沢も、突然意見を求められて動揺している。俺の方は絶対に見ずに、明後日の方向に視線を泳がせるばかりだ。
「い、良いと思うよ」
芹沢は、俺の方は見ずに言った。その声は、この流れの中で言わされている感が拭えなかった。
本心では、芹沢はどう思っているんだろうか。
そんなことを一瞬考えて、自分の思考を振り払う。
どうして、芹沢の本心が気になるのか。そして、今の芹沢の反応に、なぜ俺は少し落ち込んでいるのか。
「よし、じゃあ今回のこの旅は、『海に向かって』だ!」
健吾の大声に、一瞬で沈みかけた気持ちが持ち上げられた。
そして、気を引き締め直す。
「…って、何俺の手柄横取りしようとしてんだよ!これだけ仕切らせといて、良いとこだけ取ろうとすんな!」
一瞬の動揺に気付かれないよう、無駄にテンションを上げる。
「なら、今回の旅は『海に向かって』だ!以後、ネーミングに関しての文句は一切受け付けないからな!」
言って、場を仕切り直す。すると、皆も改めてサイダーを掲げ直す。
「ほら、そうと決まれば昇早くやっちゃって!」
原田が待ちきれないとばかりに急かす。皆も、待ちきれない様子でソワソワしている。
「じゃあ、改めて」
言って、サイダーを掲げる。合わせて、皆も各々のサイダーを掲げる。
「今回の自転車旅、『海に向かって』に…」
「乾杯!!!!」
一斉にサイダーを交わす。ペットボトルなので特に音は鳴らないが、表面に掻いた水滴が飛び散る。
そして、一斉にペットボトルの蓋を開けると、プシュッと空気が抜ける音が鳴り響く。同時に、「うわ!」「何で俺も!」と健吾と亮の騒がしい声が響く。見ると、特に振ったわけでもないのに、健吾と亮のサイダーが噴き出して二人の手を濡らしていた。
「お前ら…そんなに空気読まなくても」
「って、ネタ仕込んでたわけじゃねぇ!」
「って、自分からこんなことするか!」
二人同時にツッコみが入り、思わず俺たち四人は噴き出した。
そうして、皆でサイダーを飲んだ。少し時間が経ったせいで少しぬるくなってしまっていたが、皆でこの樹の下で飲むサイダーは最高に美味しかった。
確かに、このシチュエーションは良い。
色々と無茶振りもされて困らせられたが、内心で健吾に礼を言った。こいつのお蔭で、また一つ想い出が増えた気がする。
そんな中、ふと視線が芹沢の方に向いた。
芹沢も本当に嬉しそうに皆と一緒にサイダーを飲んでいる。その笑顔は、何の遠慮もなく本当に楽しそうで、
その笑顔に、少し心が疼いた。
四人が買い出しに行って二人きりになった時、一瞬だけ見えた芹沢の横顔。あの横顔が、どうしてか脳裏に貼り付いて離れない。
皆で一緒にいる時はこんなに楽しそうなのに、俺と二人きりのあの時はあんなに寂しそうな表情を浮かべていた。
さっきも、芹沢は俺の方を決して見てはくれなかった。
今日一日、幾度か降りてきた寂しさが、また胸に降りる。
『海に向かって』
あと、半分以上の道のりを進めば、氷見に到着する。
海に向かって、そこで何が起こるのか。この名前を付けた自分の本心に、自分自身が苛立っている。
どうせ、何も起きるわけない。
そう思っているのに、自分の心はどうしようもなく素直だ。
俺は、自分の本心を飲み込むように、ぬるくなったサイダーを一気に飲み干した。
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