第6話「大きな樹の下で」②

 ペダルを回すごとに、汗が地面に滴り落ちた。


 太陽を遮るものがない、田んぼの中の一本道をひたすら漕ぎ続けている。休憩から、まだそんなに時間も経っていないと思うが、それでも流れ落ちてくる汗の量はもう随分長く自転車を漕ぎ続けているかのように異常だ。


 額に噴き出した汗を手のひらで拭い取り、地面に撒き散らす。そうする度に、地面には黒い斑点模様が広く浮かび上がる。


 ちらりと、隣の健吾の様子を見る。


 健吾は、さすがに体力はあるのか、疲れた様子は尚もない。しかし、さすがに暑さで顔は同じように汗だくで、小まめに吐き出している息の音が聞こえてくる。


 結局、芹沢との話は、お茶を濁す形で終わらせた。


『昔とは色々違うんだ。あまり気にすんな』


 そう言った俺に対して、健吾は納得のいかない様子だったが、大きく息吐き出し、「なら、それでいい」と言うと、きっぱり話を終え、あとは元の健吾に戻って、それまでの真面目な会話が嘘のように阿呆なやり取りが続いた。


 そして、一段落ついた今、容赦ない真夏の太陽にうんざりしているわけだ。


「……あれ?」


 前の方で、誰かが声を上げた。


「ねぇ、あれ見て」


 声の主は、どうやら芹沢だったらしい。何か見つけたのか、その声はやけに弾んでいる。


「何か、すごい大きい樹がない?」

「あっ、本当だ!」


 女子二人で、遠くの方を指差してはしゃいでいる。


「なんだ?」


 その声につられて、男子四人もそちらに目を向けた。


 田んぼのあぜ道の先、綺麗に整備された芝生が広がる草原に、大きな樹が生えている。まだ、距離は結構あるが、それでもここから見てもその大きさは十分に分かる。


「すげぇな!あの樹めちゃくちゃでかくないか?」

「ねぇ、行ってみようよ!」


 言うが早いか、すぐさま原田は加速し、一気に列を離れていく。


「あっ、由唯待って!」


 それを追いかけるように、芹沢も後を追って加速していく。


「女子二人は元気だなー」

「んなこと言ってねぇで、とっとと俺たちも行くぞ!」


 呑気にそんなことを言ってると、いつの間に前に出ていたのか、健吾は立ち漕ぎであっという間に亮と理久を抜き去った。


「ほら、理久もぼーっとしてねぇで行くぞ!」

「えっ?あっ、う、うん!」


 健吾の勢いに押されて、なぜか理久も立ち漕ぎに切り替えて健吾の背を追うように走り出した。


「……」

「昇は、行かないのか?」


 苦笑しながら、亮が横に並んでくる。前の四人は、さっきまでの疲労はどこへやら、グングンスピードを上げて遠ざかっていく。


「そういう亮は行かないのか?」

「行くよ。ただ、昇一人を置いてくのも悪いなー、と思って」


 そうして、ニヤリと笑う。


 この笑いの意味は、長年の付き合いで分かる。


「勝負か?」

「ご名答……っと!」

「って、おい!」


 言うなり、亮はすぐさま立ち漕ぎに切り替えて一気に加速した。


「てめぇ!」

「先手必勝!」


 亮は、高らかに笑いながらグングン加速していく。


 勝負として持ちかけられた以上、公平なスタートではないものの負けるのはやはり悔しい。こちらも、立ち漕ぎに切り替えて思い切りペダルを回して亮の背を追いかけるが、差は見る見るうちに開いていく。


 やはり、自転車は最初の加速が早い方が有利だ。


 それにしても、どいつもこいつも疲れてたんじゃなかったのか。


「とーーう、ちゃーーーく!!」


 真っ先にスタートを切った原田の声が前から飛んできた。


 立ち漕ぎのせいで、左右にブレている視界の先には、すでに木陰まで入った原田が、拳を突き上げて高らかに笑っていた。


「…って、由唯速い!」

「くそ、追いつけなかった!」

「いや、健吾は十分追いついてると思うよ」


 続けて芹沢、そして何気に芹沢まであと一漕ぎというところまで追いついている健吾が続き、そのスピードに苦笑いを浮かべている理久が続く。


 そして、


「ゴーール!最下位は昇ー!!」

「くそー!…って、こんな不公平な勝負あるかー!」


 結局、亮との差は全然縮まらず、不本意ながらに最後の到着となった。


「昇、遅いねー」


 そして、こういう時意地悪く絡んでくるのは決まって原田だ。かなりのスピードを出してたように見えたが、息がほとんど切れていない。


「って、俺が遅いんじゃなくて、亮がフライングしたんだよ」

「なに?自分の敗北を俺のせいにするのか。なんて奴だ……」


 そうして、見るからに「うわー」という目でこちらを見る亮に、軽く腹が立つ。


「昇、負けは素直に認めないと格好悪いよ」

「うるさい!真っ先に飛び出していった原田には言われたくない!」


 原田も悪ノリで、亮と二人して「うわー」という目でこちらを見てくる。その二つの視線に耐えかねて、思わず顔を逸らす。そうすると、更に負けた感が強くなるが、この二人がタッグを組んでいる時に言い争うのはあまりに分が悪すぎる。ここは、グッと耐えるが吉だ。


「ねぇ、皆、そろそろお腹減らない?」


 思いがけず、この空気を破ってくれたのは芹沢だ。


「ちょうど今、十二時も過ぎてるし、この樹の下なら割かし涼しいし、お弁当も広げられるからいいと思うんだけど」

「賛成!」


 すかさず、原田が満面の笑みで賛同する。


「そうだなー、時間的にも場所的にもここはいいかもな」

「大賛成だ!飯食わんと、もう動けん!」


 亮と健吾も重ねて賛成する。


「決まりね!じゃあ、自転車は少し向こうに置いて、ここにレジャーシート広げよう」


 言うが早いか、原田は木陰ギリギリのところまで自転車を進ませ、荷物を下ろした。それにつられて、俺たちも移動して荷物を下ろす。


 女子二人は手際よくリュックサックの中から二つほど大きなレジャーシートを出して、木の側に広げた。俺たちもそれを手伝い、シートの端はそれぞれのリュックサックを置いて重し代わりにする。


「意外と、木陰に入ると涼しいのな」

「うん、風も気持ち良いし絶好のお弁当スポットだねー」


 亮と原田はこの場所にご満悦で、嬉しそうにそれぞれリュックサックを探っている。


「あーーーっ!!」


 そこに、やかましい声が響いた。


「うっさい、バカ。何?」


 やかましい健吾を、バッサリ一刀両断するのは、やはり原田だ。毎回、健吾のリアクションに対して原田は容赦ない。


 しかし、いつもはそれでテンションが戻る健吾も、今回は違った。


「…昼飯、忘れた」


 リュックサックの中を覗きながら、がっくりと肩を落とした。


「用意はしてたのか?」

「母さんが、おにぎり作ってくれてたんだけど、思い切り玄関に忘れてきた」


 亮の問いかけに、健吾の声は徐々に尻すぼみになっていく。


 ところが、「うおー!」と雄叫びを上げると、勢いよく仰向けに倒れ込んだ。


「くそー、コンビニでも行くかー!」

「本当、吉川は相変わらずねー」


 ごそごそと自分のリュックサックを探りながら、原田が呆れた声を上げる。


 その一言に、さすがの健吾もムッとしたのか、勢いよく起き上がった。


「おい、原田。あんまりそんなことばっか…」

「ほい」


 健吾の前に、キッチンシートに包まれた物が差し出された。


「…………へっ?」


 たっぷりの沈黙を経てから滑り出た言葉は、何とも間抜けだった。


 健吾の前に差し出されている包み。その形は、どう見てもおにぎりだった。


「私のおにぎり分けてあげる。こんなこともあろうかと、たくさん作ってきて良かった」


 ところが、健吾はまだぽかんとしたまま、視線を原田とおにぎりの包みと交互に行ったり来たりさせていた。


「何?要らない?」


 首を小さく傾けて、健吾に問い掛ける。その無防備な表情、仕草は、自分に向けられたらドキッとせずにはいられない、原田必殺の「嫌なの?」ポーズだ。これをされて断れる男を、俺は見たことがない。


 しかし、それを健吾の前でするとなると、その意味は少し変わってくる。


 絶対、何かあるな。


 おそらく、他の男子全員がそう思った。しかし、実際に直接喰らった健吾は、


「原田様!!」


 まるで、王様に傅く臣下のように、原田の元へ跪いた。


「このご恩は、一生忘れません!!」

「良きに計らえ」


 一方の原田も、さも女王のように差し出された健吾の両手におにぎりを渡した。


 しかし、跪いて「ははー!」とか言っている健吾は気付いてないが、健吾を完全に見下している構図にいる原田は、実に邪悪な笑みを浮かべている。


 その表情に軽い戦慄を覚え、同時にこの先健吾に訪れるであろう不幸に、心の中で手を合わせた。


「もう、二人とも、アホなことやってないで、準備するよー」

「アホだと!お主、原田様に向かって、何たる口の利き方!」

「って、何どさくさに紛れて私をアホ呼ばわりしてんのよ!おにぎり取り上げるわよ!」


 「ははー!」と言うが早いか、すかさず跪き、「忠誠のポーズ」をとる。そこまでして、おにぎりを取り上げられたくないのか。


「あはは。もう、吉川はアホだなー」

「…って、おい理久。どさくさに紛れて、お前までそんなことを言うのか?」


 さらっと改めてアホ認定をした理久に対して、流石の健吾も少しショックそうだ。理久は、普段あまり冗談を言わないので、今の理久の発言は完全に天然だ。つまり、冗談ではなく本音ということだ。


 完全に原田の家来(奴隷?)になってしまった健吾は、命令に従ってテキパキと原田がリュックサックから出すお弁当を運び、レジャーシートに広げていく。その都度、「遅い!」「アホ!」とか言われているが、健吾はその度に「申し訳ありません!原田様」と完全服従の姿勢を貫いている。その様子に、俺たちもゲラゲラ笑いながら、同じくそれぞれ持ってきた弁当を広げていく。


 俺や他の男子は、見たところ同じようにおにぎりの包みを持ってきただけだが、女子二人は何やら大きめのお弁当箱をそれぞれ一つずつ持って来ていた。


「何だ、それは?」

「ふふーん、気になる?これはねー…」


 言って、原田がニヤリと笑う。


「さぁ、桜も一緒に開ける準備して」

「えっ?ああ、うん」


 つられて、桜も何やら恥ずかしそうに自分の持ってきたお弁当に手を掛ける。


 何事か、と男子四人もそれを覗き込み、


「せーーのっ!!」

「「おおお!!!」」


 男子たちの歓声が響いた。


 開けられた二つのお弁当箱には、それぞれ所狭しとおかずが並べられていた。原田の持ってきた方には、お弁当箱いっぱいに唐揚げが並べられており、サイドには彩りとしてプチトマトやレタスも敷かれている。


 そして、桜のお弁当には、卵焼きやウィンナーが並べられており、それもサイドには彩りのプチトマトとレタスが敷かれている。


 分量的に、どちらも明らかに一人分ではなく、少なく見積もっても三~四人分くらいある。


「やっぱり、お弁当と言えば唐揚げは外せないから、作ってきたんだー。この原田様お手製の唐揚げだぞ、ありがたく食え」

「ははー、原田様、ありがたく!」

「ありがたく!」


 完全にひれ伏している健吾の横で、なぜか亮も一緒になってひれ伏している。


「ふっふっふっ、敬え敬え」


 そんな阿呆二人の様子に、原田はすっかりご満悦だ。


「せっかくの旅だから、おにぎりだけってのも味気ないかと思って、桜とそれぞれ分担して作ってきたんだー。ね、桜?」

「う、うん。でも、結構砂糖多めに入れたから、もしかしたら結構甘いかも。皆の口に合えばいいけど…」


 言って、芹沢は恥ずかしそうにもじもじしている。そんな芹沢に対して、原田は完全にふんぞり返って満足げな様子で、二人の様子は気持ち良いくらいに正反対だ。


「桜様!」


 健吾は、身体を桜の方に向けてひれ伏した。


「一生、付いていきます!」

「いやいや!そんな大したことしてないし、それに一生はちょっと…」


 健吾の勢いに、芹沢は完全に引いた様子だ。そして、返す刀で浴びせ掛けた言葉が、何気にひどい。


「…ちょっと待て!今、何気に振られたか、俺!?」


 そのまま、健吾は別の意味で突っ伏してしまった。


「えっ、えっ?あっ、そ、そう意味じゃなくて!」

「やはり、俺には原田様しかいないんだー!」

「いや、私も一生付いてこられるのは迷惑だから」


 そして、原田のトドメの一撃だ。それで、ジタバタしてた健吾は完全に沈黙した。


 しばらく、沈黙が落ちて、


「あははははは!!」


 誰からともなく、笑い声が巻き起こった。まるで、示し合わせたかのような一緒のタイミングでの笑い声は、一塊の爆発となった。


 皆が腹の底から笑い、満面の笑みを浮かべている。原田なんかは、涙を拭いながら、抑えることのできない笑い声に、お腹を引きつらせている。


「もう、吉川本当にアホすぎ!」


 すぐ隣で、芹沢も笑っていた。それは、今日見た中で一番の笑いだった。大きく口を開けて、原田と同じように涙を拭っている。


 今日見ている中で、芹沢はずっとどこか寂しげな表情を浮かべていた。しかし、それが今こうして皆と楽しそうに笑い合っている。


 それに対して、内心ほっとしている自分が居て驚いた。


 この旅が始まる時は、芹沢がいたことに対してイライラしている自分がいた。でも、今は芹沢が目の前で笑ってくれていることに何故かほっとしている。


 この数時間での自分の心境の変化に内心戸惑いながら、それでも今この時は思い切り笑おうと思って、腹の底から声を上げて笑った。


―――


 原田の唐揚げ、そして芹沢の玉子焼きは、本当に美味かった。


 唐揚げは、冷めているにも関わらずそこまでベトベトしていなくて、噛むとニンニク醤油で味付けされた肉汁が溢れ出してきた。原田は、「今朝、パパッと作ってきただけだよー」とか言っていたが、確実に昨晩から仕込んでいたものだった。


 芹沢の卵焼きも、確かに甘くは作ってあったが、醤油と砂糖のバランスが絶妙で最高の味付けだった。


 それぞれの料理のクオリティに、男子たちの手は止まることなく動き続け、食べるたびに、「うめー!」と誰からともなく歓声が上がった。最初はふんぞり返っていた原田も、次第に「そんなに美味しい?」と照れ始め、終盤は女子二人の口数が減ってずっと照れていた


 男子たちの手はノンストップで動き続け、二人が用意してくれた唐揚げと卵焼きはあっという間に完食されてしまった。あまりのスピードに、「ちょっと、ご飯のおかずに持って来たのに、なんで先におかず食べ切っちゃうのよー」と原田からは呆れられた。


 中でも、おにぎりも原田からもらっている健吾の反応は大袈裟で、何度も「原田様!」と叫んでいた。しかし、皆から立て続けに言われる褒め言葉には照れた原田も、健吾にだけは例外らしく、何度も「原田様!」を繰り返す健吾に、挙げ句の果てには「うっさい、下僕!」と思い切り背中に蹴りを入れた。


 その時、「あぁ、やっぱり下僕扱いなのか…」と皆が納得したように頷いていた。


 昼ご飯を終えて、時間を確認すると、時刻は間もなく一時。思いの外、早いペースでここまで来ている。


「結構、早いペースで来てるよな」


 亮は、今回の旅のプランを俺と一緒に練っていたので、大体の行程は把握している。確かに、二人で考えていたペースよりも随分早い。


「おう、これならもうちょいここでのんびりしてていいかもな」

「おっ、だったら!」


 健吾は、バネのように跳ね起きた。さっきから、健吾のテンションは終始マックスだ。


「だったら、ちょっと俺コンビニ行きたいな」

「えっ、せっかく私がおにぎりあげたのに、まだ食べるの?どんだけ食べれば気が済むの?」

「違う!これからのこと考えて、飲み物補充しておきたいんだよ!」


 背中に蹴りを入れられたことで、健吾は下僕キャラをとりあえず止めていた。


「でも、コンビニなんてこの辺にあるか?」

「来る途中、一軒それっぽいの見えてたよ。多分、自転車で十分掛からないくらいのところかな?」


 亮の疑問に対して答えたのは理久だ。そういわれてみれば、大手ではない田舎ならではの小さなコンビニを道中目にした気がする


「射程圏内だ!よし、行こう」


 言うが早いか、すぐさま健吾は靴を履いて、早々に自転車の元へ走っていった。


「理久、行くぞ!」

「えっ?あぁ、分かったよ、ちょっと待って!」


 道案内役が必要なのか、問答無用で理久を呼ぶ。それに文句も言わず、理久も慌てて立ち上がって靴を履く。


「待ってよー」


 もう自転車に跨り、今にも走り出しそうな健吾を、理久は慌てて追いかけていった。


「あいつ、めちゃくちゃテンション高いな」


 健吾のテンションに、呆れを通り越して感心する。


「まぁ、女子二人の手料理食べたんだ。単純バカの健吾なら、ああなっても不思議じゃない」


 一方、亮の物言いは容赦がない。ひどい物言いだが、これを健吾本人の前でも平然と言ってしまうのが亮だ。


「お前は行くか?コンビニ」


 言いながら、亮はもう立ち上がっている。しかし、特にあの二人に追いつこうというものではなく、その足取りは慌てずマイペースだ。


「うーん…」


 正直、コンビニに行って何か欲しいものはなかったし、腹もさっきので充分に満たされている。


「うーん、荷物番がいるだろ?欲しいものも特にないし、それに俺はちょっとのんびりしたいから、ここいるわ」

「本当か?悪い、頼むわ」

「ちょっと、私たちに片付けさせておいて、男子はコンビニ?」


 男子たちによって、すっかり空っぽになった弁当箱を、ティッシュなどで拭いて片付けていた原田から、抗議の声が飛んでくる。


「悪い。弁当作ってきてくれたお礼に何か買ってくるから、それで許してくれないか?」

「じゃあ、私、サイダー!」


 すぐさま態度を変え、返事は即答だ。


「ほら、桜も何か頼みなよ」

「えっ、いいの?」


 即答の原田とは違って、芹沢は男子たちをパシリに使うことには抵抗があるようだ。


「いいよ。三人もいるから、荷物持ちには困らないから」

「…じゃあ、私も由唯と同じサイダーで」

「じゃあ、そういうことでよろしく!」


 まだ、少し遠慮がある芹沢に対して、原田は清々しいほどのお返事だ。


「うぃー、了解ー」


 軽く返事をすると、亮も二人の後を追っていった。


 二人は、亮が来ると思っていたのか、自転車のところで待っていた。


「亮、おせぇぞ!早くしないと置いていくぞ!」

「今行くー。原田様から伝言あるから、しかと受け取れ、下僕健吾」

「ははー!…って、お前が下僕と呼んでいいと言った覚えはないぞ!」


 深々とお辞儀をしたと思ったら、すぐさま顔を上げてツッコミを入れてくる。さっきから、健吾はキャラの移り変わりが激しい。


 亮が追いつくと、自転車のところで何やら健吾がギャーギャー言っているようだが、それを亮は軽くいなして、その横で理久は苦笑いを浮かべている。


 そのまま、ギャーギャー喧しく男子三人は行ってしまった。


「ったく、あいつらは…」

「ようやく、静かになったねー」

「そうだねー」


 ようやく訪れた平穏に、ドッと疲れが来て倒れるように寝転んだ。完全に、健吾のハイテンションにあてられた。


「ちょっと。お昼ご飯食べるなりすぐに寝るなんて、中年のお父さんじゃないんだから」

「うるせぇ。疲れてるんだから、ちょっと寝るだけだ」

「うーん、その発言がもうおじさん…」


 大分失礼な物言いをされているが、無視してそのまま横になる。背中で原田が芹沢に呆れた顔を向けていることは容易に想像できるが、気にしては負けだ。


 狸寝入りを決め込むと、それ以上原田は何も言ってくる様子はなく、すっかり静かになった。


「……」


 本当は寝るつもりなんてなかったが、こうして横になってみると思いの外楽で心地良い。実際、ここまですでに二時間以上自転車を漕いできているわけだから、疲れていないはずはなかった。


 また、さっきまで炎天下の下を自転車で走っていたことを考えると、この樹の下は本当に涼しい。それが、こうして横になって身体を休めると尚のこと感じられた。


 風が吹いて、汗に濡れた服をはためかせた。それが実に心地良く涼しい。頭の上から木の葉同士が擦れる音が降ってきて、そのBGMも涼しさを演出してくれた。


 あぁ、本当に眠ってしまいそうだ。


 本当に、この樹の下は気持ち良い。このままここで一日を終えてもいいかも、なんて冗談半分に思ったが、すぐにあのうるさい男子たちが帰ってきたら出発になるだろう。


 ただ、それまではここで、


「…悪い、本当に少しだけ寝るわ」


 言っておかないと、何かちょっかいを出されかねない。原田のことだ、このまま俺を大人しく寝かせ続けてくれるはずがない。


 でも、こうして断っておけば、さすがの原田もちょっかいは出してこまい。


「……」


 しかし、原田からの返答はなかった。無視というのはひどい。いや、むしろもしかすると今このタイミングで何かを仕掛けようとしているのか。


「お……」


 「おい」と言って振り返ろうとした瞬間、何故だか身体が固まった。


 気のせいかもしれないが、息を呑むような音を聴いた気がする。そして、それが俺の声と身体を止めた。


 何だか、空気が張り詰める感覚を覚えた。身体は固まったままで、起き上がろうと少しだけ上げようとした身体を無理に止めている。その態勢も辛いが、それ以上にこの場の空気がやけに息苦しく、息をしたいのに喉が張り付いてちゃんと動いてくれない。そして、動悸が早まっていく。


 …まさか?


 今、考えた可能性に冷や汗を掻いた。


 ままよ、と少しだけ上げていた身体をそのままさらに上げて、顔を上に向ける。


 その視界の端に、


 じっと遠くを見つめている芹沢の横顔を見た。


 マジかよ。


 とっさに、ただ態勢を直そうとしたように装い、寝直した。わざとらしく「うーん…」とでも言えたら良かったが、声が出なかった。


 一瞬しか見えなかったが、そこには芹沢がいて、原田の姿も気配もそこにはなかった。


 どういうわけか、今、この樹の下には俺と芹沢しかいない。


 なぜ?


 そんな疑問が浮かぶなり、それに重ねて原田のいたずらっ気たっぷりの顔が浮かんで、思わず唇を噛む。完全に、謀られた。


 多分、俺が横になるなり原田はこっそり男子三人の後を付いて行ったのだろう。恐らく、芹沢に口止めしながら。


 芹沢と二人きり。そして思い返される、先ほどの自分の何気ない発言。


 思い出すと、頭の奥がカッと熱くなる。


 いや、何言ってた、俺?


 「寝るわ」と言った。そして、それを聴いているのは今芹沢しかいない。


 そう思うと、涼しかったはずのこの空間が、一気に暑くなってくる。いや、暑いのはこの場所じゃなくて、俺自身か。


 って、動揺しすぎだろ、俺。


 そのことに、イラッとする。たかだか、芹沢と二人きりになったくらいで、こんなにも動揺している。横になっていることすらも落ち着かない。


 でも、今さらこの場を離れることなんてできない。


「……」


 もう、ここで横になってじっとしているしかなかった。さっきの問い掛けに対して、芹沢からの返答もなかった。


 聴こえていない、ということは恐らくない。俺は聴こえるように言ったのだから。


 だが、それに対して返答がなかったということは、どういうことか。


 そうだよな、俺と二人きりの状況で返事なんかしたくないよな。


 そう思った自分に、なぜかまたイライラした。


 考えるな、考えるな。もう寝てしまえ。


 呪文のように心の中で唱えながら、眼を閉じた。 


 本当に、このまま眠ってしまえば楽なのに……


 そう願いながら、心臓の鼓動を内側で聴きながら、深く深く眼を閉じた。


―――


「しーっ……」


 しーっ、じゃないって……


 ついさっき、可愛く人差し指を口元に立てながら、静かにコンビニに向かった親友の顔が思い出されて、ため息が漏れそうになる。


 男子三人が、コンビニに行こうと盛り上がっていた時、私は由唯と片付けの真っ最中だった。


 おかずを持っていこうと提案したのは由唯からだった。


『お弁当箱を持っていくと、ちょっと荷物かさばるし重いし大変だけど、せっかくの旅だよ!これは、男子たちをぎゃふんと言わせるためにも、私たちで作っていこうよ!』


 口ぶりは少し乱暴だが、それが照れ隠しであることを私は知っている。そして、言ったからにはしっかりと前日から準備をして、本当に美味しい料理を作ってくる家庭的な女の子の一面があることも。


 そうして、男子たちによってあっという間に空になってしまったお弁当箱を綺麗にしていたら、吉川と理久君が先に行ってしまい、井川も付いていくようだ。


 しかし、どうやら昇は行かないらしい。


「……それで許してくれないか?」

「じゃあ、私、サイダー!」


 由唯は、遅れて向かおうとしている井川に遠慮なく飲み物を注文している。


「ほら、桜も何か頼みなよ」

「えっ、いいの?」


 由唯が私にも話を振ってくれたのはありがたい。正直、パシリのように使ってしまうのは申し訳なかったが、実際甘い飲み物が欲しい。


「いいよ。三人もいるから、荷物持ちには困らないから」


 井川もそう言ってくれたのでそこは甘えることにする。


「…じゃあ、私も由唯と同じサイダーで」

「じゃあ、そういうことでよろしく!」


 「うぃー、了解ー」と軽い返事をして、井川も吉川と理久君の元へ向かった。そして、賑やかに三人でコンビニへと行ってしまった。


「ったく、あいつらは……」

「ようやく、静かになったねー」

「そうだねー」


 由唯に答えるように言うが、この会話には昇も入っているので、少し緊張する。さりげなく会話に混じってしまったが、大丈夫だろうか。


 そのまま、昇は仰向けて寝転がってしまった。


「ちょっと。お昼ご飯食べるなりすぐに寝るなんて、中年のお父さんじゃないんだから」

「うるせぇよ。疲れてるんだから、ちょっと寝るだけだ」

「うーん、その発言がもうおじさん…」


 由唯は、相変わらず昇に対して(昇に限ったことではないが)の物言いに容赦はない。しかし、その由唯の物言いを無視するように、私たちに背を向けて昇は横になってしまった。


 由唯は、私に目を向けて「まったくもー」と言わんばかりの表情で小さく息を吐いた。その仕草に思わず笑い掛ける。


 由唯と昇のやり取り。このぞんざいさは、お互いに仲が良いからこそできる適当さだ。


 昔は、私も由唯と同じようにこんな軽口を叩けていたのに、今はそんなこと絶対にできない。


 この二人のやり取りを見ていると、いつも少しだけ切なくなる。


 昇は恐らく狸寝入りだろうが、あまり騒がしくするのもそれはそれで悪い。由唯もそれは思っているのか、目だけで「どうしようか?」と聞いてきた。


 しかし、突然何かを思いついたように目を見開いた。


 そして、私の方をじっと見てニヤリと笑った。


 えっ、何?


 由唯がこの表情をするときは、何かいたずらを考えた時だ。


 嫌な予感がした。


 由唯が、ゆっくりと立ち上がった。私が驚いているのを横目に、そろりそろりと靴の方へと忍び足で歩いていく。


 「ちょっと!」と思わず声が出そうになったところで、由唯は人差し指を唇に当てて「しーっ……」のポーズを取った。そのポーズに、思わず固まる。


 そして、何もできず戸惑っている私の耳元に顔を寄せてくると、


「……じゃあ、頑張ってね」


 「何を!?」なんてことを言わせてくれる隙もくれず、気付かれることなく由唯はビニールシートから出て靴を履くと、そのまま私に笑顔で手を振って自転車の方へと歩いて行ってしまった。


 動けなくなった動けなくなった私は、その由唯の姿をただ呆然と見ていることしかできなかった。


 そして、昇と二人きりというこの息の詰まる状況だ。


 息をつきたくても、それだけで昇に今の状況に気付かれてしまうんじゃないと思うくらい、この場所は静かで、それが本来は心地いいはずなのに、昇と二人きりというだけで、なぜかこんなにも苦しい。


 何でだろう。


 今日、何度零したか分からない呟きが、心の中に落ちる。


 あの頃。まだ、他四人の誰一人としていなかったあの頃を思い出して、今のこの状況を見ると、どうしようもなくため息が漏れそうになる。


 いつ、変わってしまったんだっけ?


 そんなことを思うくせに、その答えはあっさりと導き出される。


 中学三年生の時、二年ぶりに同じクラスになったのに、その時私たちはもう話ができなくなっていた。


 何があったわけでもなく、ただ何となく昇に話し掛けに行けなくなっていた。その頃から昇は、私に対して「こっち来んな」オーラが出ていて、それが単純に学校で話し掛けられることに照れていることなのか、それとも純粋に来てほしくないということなのか分からなかったけど、でもそれを確かめるのも怖くて、結局話しかけられないまま中学を卒業して、高校もこうして昇とは喋らずじまいで来てしまった。


 そして、今日久しぶりにまともに顔を合わせた時の昇の反応は、高校ですれ違う時とは比べ物にならないくらいに冷たく、明らかに避けられているのが分かる。それを見ると、純粋に嫌われてしまったんじゃないかなと思えてくる。


 特に身に覚えがないのに嫌われてしまうというのは、本当に寂しい。


 だけど、それを確かめる勇気がない自分も何だか悔しくて、そういう時にいつも「由唯ならできちゃうのかなー」なんて無いものねだりをしてしまう。


 そもそも、由唯なら幼馴染で仲良かった男子とこんな風にならないと思うけど。


 そう思う時、いつも由唯の底抜けの明るさが羨ましくなる。


 しかし、こうして全く身動き取れない状態は、なかなかに辛い。いっそ、動いちゃおうか、と思った時だ。


「悪い、本当に少しだけ寝るわ」


 息が、止まった。


 絶妙なタイミングだった。


 バレてもいいや、しんどいから動いてしまおう。そんな諦めの気持ちを覗かせた瞬間、投げ掛けてくる言葉として、これはなんと言うか、


 ずるい。


 飛び上がるほど、驚いたはずだ。でも、なぜだか身体はピタリと止まり、息を詰めていたおかげで声も出なかった。


 でも、身体の内側の音が止まらない。


 一瞬の静寂の後、堰き止められたダムが放流を開始するように、全身の血液が流れ出す。心臓の鼓動が、全然止まらない。


 なに、これ?


 胸も顔も耳も、心臓の音で訳が分からないくらいうるさいのに、頭の奥の方だけが静まり返っている。


 まるで、体と心が切り離されたような感覚。


 おそらく、由唯に対して言ったのだということは分かるが、言われたのだから答えないとおかしい。でも、言葉が出てこない。声が出てこない。


「……」


 また、息が止まりそうだった。


 昇が、不審に思ったのか少し身体を起こそうとしている。


 …やめて!


 蛇ににらまれた蛙の気分はこんな感じかと、なるべく自分の気配を消すように、心臓の音よどうか漏れないで、と切に願いながら息を詰めた。


 しかし、昇はそれ以上起き上がろうとしなかった。中途半端な態勢で止まって、そこから動かない。


 気付かれた?


 しかし、まだ昇からはこちらは見えていないはずだ。ということは、まだ昇は気付いていない。


 動揺していることを悟られてはいけない。もし万が一、昇が振り向いてきたとしても平静を装わなければいけない。


 努めて、意識をただ前方の草原へと向けた。なるべく、昇のことは気にしないように、ただ何も考えないようにとただただ前方を見つめた。


 少し昇が動いたように目の端に映ったが、気にしないようにとただ前を見続けた。


 そして、少しずつ身体の中の血流が元に戻り、心臓も落ち着きを取り戻し始めて、ちらりと昇の方を見ると、もう昇はすっかり元の態勢に戻っていた。


 そこで、ようやく身体に入っていた力が抜けた。


 心臓の音が治まってきて、ようやく先ほどまでの静けさが戻ってきた。


 そうして、ここってこんなに静かだったんだな、なんてことを思って、


 同時に、「バカだなぁ」と小さく心の中で吐き出した。

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