第5話「大きな樹の下で」①

 太陽がてっぺんに近付いてくるにつれて、気温は容赦なく上がり始めた。


 出発した時は、吹き抜ける風や日陰が気持ち良いなんて思っていたが、走り出してから一時間を過ぎた今となっては、日陰を作ってくれるような樹や建物そのものがなくなり、どこまでも広がる田んぼ道だけが続いていた。と言っても、ここまで暑くなると、日陰だろうがあまり関係もない気もするが。


 滴り落ちる汗を拭うことが面倒くさくなってきて、さっきからタオルは首に巻いている。しかし、このタオルもすっかりベトベトで、もうあまり意味を成していない。


 容赦なく降り注ぐ夏の日差しと、うんざりするくらいの暑さ。そして、まとわりつくように鳴き続ける蝉の声が、やけに煩くなってきた。

 ニュースで連日やっている「熱中症」が、ふと脳裏をかすめる。


 今年も、「熱中症に注意」と学校やニュースでも言われていた。この暑さの中で、死んじゃう人もいるんだなー、なんて他人事のように聞いていたことが、今はすぐ側に立っていてもおかしくないように思える。


「皆ー、小まめに水分補給しろよ!あと、しんどくなったら遠慮なく言えよ。休憩取るから」


 後ろから声を掛けると、「はーい」とか「うぃー」とかそれぞれの答える声が連なる。


 ついさっき、十分間の休憩を取った時に見た皆の顔には、まだまだ疲れは見えていなかった。


 中学時代、テニス部の中でもズバ抜けて体力があった健吾は、出発時からちっとも変わらず、メンバーの中で一番元気だ。亮と理久にしても、部活のお蔭なのか汗は掻いているが疲れた様子は見られなかった。


 原田と芹沢についても、まださしたる疲れは見えない。元々、同じテニス部で、確か体力も結構あったように思えたが、その体力は今も健在みたいだ。むしろ、先頭でペースメーカーの役割を担っているのに、なかなかのペースで男子四人を引っ張ってくれている。


 と言っても、まだ出発して一時間しか経っておらず、全行程の中でも五分の一ほど来たくらいだ。しかも、ここから先、ますます気温は最高点に向けて上がっていくだろうし、疲れ始めてからの道のりはなかなかにしんどそうだ。


 何はともあれ、気を遣っておくに越したことはないだろう。


「あ――ち―――」

「……」

「あ――っち――」

「………」

「あ――――」

「って、うるせぇ!」


 たまらず、ツッコむ。


 さっきの休憩のときに、健吾が「ポジション替えよう!」と言い出して、今は理久と健吾が入れ替わって、隣を健吾が走っている。先頭の女子二人は変わらず、その後ろを亮と理久が走っているという陣形だ。


 そして、再出発してからまだほんの少ししか経っていないのに、隣で健吾はハンドルにもたれ掛かってしんどそうな表情を浮かべている。


「お前、この中で一番体力あんだろ!さっきは平気なツラしてて、なんでもうへばってるんだよ」

「いやー、確かに疲れてはいないんだけどさ」


 健吾は、もたれ掛かっていた体を起こした。同時に、額から汗がツツーっと顎へと滴り落ちていった。


「何はともあれ、暑い!」


 確かに、よく見てみると、健吾の来ているポロシャツは、全身すっかり滲んでしまっていた。顔を上げると、顔面からも止め処なく汗が流れ落ちている。


「うがー!氷見まで待てん!今すぐ、海に突っ込みたい!」

「おっけー。なら、氷見に着いたら、そのまま海に突っ込ませてやるよ」

「って、それ、自転車ごと突っ込むってことじゃねぇか!死ぬわ!!」


 全力のツッコみが返ってくる。暑い暑いと言っているのに、言ってる当人のリアクションが一番暑苦しい。


「ったく、久しぶりに会った友人に、何たる仕打ちだ」

「何言ってやがる。高校最後の夏の想い出に、そういう一ページもありじゃねぇか」

「お前がただ、笑えるネタにしたいだけだろうが!!」


 腕を振り上げながら全力で応えてくれる健吾のツッコミに、思わず笑えてくる。こいつとのこうしたやり取りは本当に面白い。


「でもまぁ、自転車で突っ込むのはともかく、このまま海に飛び込むのはマジでやっても良い気分だ」

「おいおい、そんなことしたらパンツまでずぶ濡れじゃねぇか」

「ふっふっふ、甘いな昇」


 不敵な笑みを浮かべると、おもむろに自分のズボンを指差した。


「この下は、海パンだ。俺は、いつでも海に入れるんだぜ」

「…って、氷見まで何時間も掛かるっていうのに、なんでわざわざズボンの下に履いてくるなんて、そんな鬱陶しいことしてんだよ」


 自分で持ってきたものもそうだが、男子高校生が履く海パンと言えば、膝丈までの長さがあるトランクスタイプが主流だろう。水泳部でもない限り、間違っても、ブーメランパンツのようなピチピチのものは履かない。見た目としても、ぱっと見はハーフパンツと言われても分からないようなデザインで、パンツタイプのような恥ずかしさはないが、ただ一つの欠点は、事前に履いていったりすると、ズボンの下にズボンを履くような形になって何とも窮屈になることだ。しかも、水に入るまでは、内側の網が地味にチクチクして痛い。


「というか、普通にズボン履かずに来ても良かったんじゃないか?トランクスタイプのやつだったら、別にそれ一枚でも変じゃないだろ?」

「ふっ、そんなこと言ってるから、甘いと言っているのだ。いいか、」


 そして、健吾は勝ち誇った顔、いわゆるドヤ顔で言い放った。


「俺が履いてるのは、ブーメランタイプだ。それも、ピッチピチのな」

「………」


 何も言わず、自転車を加速させた。


「ごめん、亮、理久、ちょっとペースを上げてくれないか?」

「コラ待て、昇!!」

「えっ、ペース上げるの?」


 声が聞こえたのだろう、原田がこちらを振り返った。


「……」


 それにつられて、芹沢もこちらを振り返った。


「……」


 そして、不覚にも目が合ってしまった。


「…いや、冗談だ。こっちの話、気にすんな!」


 なんでもない、というのをアピールしながら、前に向き直るように、身振り手振りで伝える。


「……」


 原田に言ったつもりが、先に前に向き直ったのは、芹沢だった。


 その前の一瞬の表情が、どこか冷ややかな気がした。


「ちょっと、冗談でそんなこと言うなー!結構、今も頑張ってるんだぞ」

「悪い悪い。このままのペースで大丈夫だ」


 片手で拝むポーズをとり、原田の機嫌を取る。


「まったくもー」


 文句を言いながら、原田も前に向き直った。しかし、何やら芹沢に向かって引き続き文句を言っているらしい。かすかに、芹沢の「まぁまぁ」という声が聞こえてくる。


 原田を窘めている芹沢の後ろ姿に、先ほどの冷ややかな視線が思い出される。その表情に、なぜだか心が騒ぐ。


「……のーぼーるー」


 恨めしそうな声が、後ろから追ってくる。


「むーしーすーるーなー」


 健吾の阿呆さ加減に、ホッとする。こっちが何を考えていようが、関係ないその軽いノリがありがたい。


 ブレーキを掛けて、健吾に並走するところまで、減速する。


「悪い、変態の横を走るのはちょっと……と思って」

「バカ野郎、勝手に変態認定するな!嘘に決まってるだろ!流石の俺も、トランクスタイプだわ!」


 唾を飛ばしながら必死に否定してくるが、健吾のキャラを考えるとまだ疑いは晴れない。


「…まぁ、お前が変態かどうかは、後で嫌でも分かるとして、じゃあそれこそ何でズボンの下に履いてきたんだよ」

「おい、ブーメラン履いてるかどうかではなく、疑惑が俺が変態かどうかにシフトしているのはどういうわけだ?……まぁ、それは単純に二重履きでもいいかと思ったんだよ」


 言いながら、少し決まり悪そうに苦笑いを浮かべる。どうやら、普通に履いてきたことを後悔してるらしい。


「まぁ、だったら次の休憩の時にでもズボンだけ脱いでもいいんじゃないか?原田と芹沢の真正面で」

「おい、その場所で脱いだら、間違いなく本当に変態のレッテルを貼られて強制帰還させられるコースだと思うんだが!?」


 その光景を思い浮かべると、すかさず原田から全力の蹴りを入れられて「帰れ!」と言われている健吾が容易に想像できて、思わず笑えた。


「いや、それは面白いな。じゃあ、採用で」

「全力で断る!!」


 間髪入れずに拒否してくる健吾の反応に、また笑いが込み上げてくる。やはり、健吾はあの頃と変わらず、バカで面白い。


 そんな健吾の明るさが、心底羨ましく思える。


「本当、健吾は変わらないなー」

「おい、何だそれは。褒めているのか?」

「いや、褒めてはいないかな」

「褒めてないのか!褒めろ!褒め称え、崇め奉れ!!」


 語彙力は、あの頃よりほんの少しだけ上がったのかもしれない。


「いやいや、やっぱり健吾は本当に変わらないよ。何か、安心する」

「何だよそれ。褒められてるかよく分からんが、まぁ褒められてると思うことにしよう」


 都合の良い解釈を勝手に取られたが、それはそれで良い気がした。実際、本心ではあながち褒め言葉も嘘ではない。


「そういう昇も、全然変わってないぞ」


 と、思いがけず健吾からの反論が来た。


「そうか?まだ久しぶりの再会からそんなに時間経ってないと思うけど、分かるもんか?」

「そりゃ、分かるわ」


 言って、少し不自然な間が空いた。


「お前ら、相変わらずこじらせてるみたいだからな」


 その言葉に、思わずブレーキに手が掛かった。


 横を見ると、健吾はそれまでのふざけた様子から一転、じっとこちらを見つめていた。いつもは、おふざけを言う時は我慢し切れずに口元が緩んでいることが多いが、今その口元はしっかり閉じられている。


「…えっ?」


 遅れて、言葉が滑り出た。しかし、頭の中はまだ整理できていない。


 こいつは、何のことを言ってるんだ。


 分かっているのに、分かろうとしない。自分の中で、矛盾がぶつかり合い、思考の邪魔をする。


「何のことだ?」


 惚けるにしてももっと良い方法があるだろうに、とっさに出た言葉は実に間が抜けていた。


「えっ、それはむしろ俺に言ってほしいのか?」

「……いや、言わなくていい。分かってる」


 観念して片手でお手上げのポーズを取る。


 「分かればよろしい」と勝ち誇った様子で健吾がニヤリと笑う。健吾にそうした態度を取られるのは非常に不本意だが、今の状況では何とも言い返せない。


「昇、相変わらず動揺してるのバレバレな。芹沢が来たとき、『あれ?』って思ったけど、やっぱり相変わらずなんだな」

「……」


 言い返せないと負けだと分かってるのに、言葉は出なかった。


「ったく、芹沢の話題を出すとすぐこれだよ。本当、バレバレ」


 休憩が終わり、並走相手が理久から健吾に変わった時、嫌な予感はしていた。理久は、中学の時の俺と芹沢の関係性しか知らないから、特に何かを言ってくることはないとは思っていたが、健吾と亮は違う。


 この二人は、小学校の頃の俺と芹沢を知っている。


「…うるさいな。別に、健吾には関係ないだろ」

「まぁ、それを言われちゃおしまいだけど、古くからの友人としては、やはりそこはどうしても気になっちまうわけで」


 健吾の口調は、この場を少し和まそうと砕けてはきたが、追求は止まっていない。


「小学校からの幼馴染二人が、高校になっても相変わらず犬猿の仲っていうのは、昔を知っているこっちとしては、何かとやりにくいんだよ」


―――


 田舎町で同じ地域、ましてや二つ隣の家に住んでいて、しかも両親共々昔から仲が良い。そんな関係で、お互いの家に同い年の子供が生まれたら、家族ぐるみの付き合いになるのは当然と言えば当然で、物心つく前から芹沢とは顔を合わせていたらしい。


 まだ、ようやくハイハイができるようになったぐらいの男の子と、誕生日が五ヶ月先の女の子。大きくなってしまえば気にも留めない数ヶ月の差も、赤ん坊の頃ともなればその差は大きく、知らない人に会うとすぐ泣いていた俺をあやしてくれたのは、ほんの少しお姉さんの芹沢だった。


 五ヶ月の差で、どんどん赤ん坊から子どもへと成長していく芹沢を、追いかけるようにして俺も大きくなり、ようやくその数ヶ月の差も少しずつ縮まってきた頃、同じ保育園に入った。


 田舎町とはいえ、同い年の他の子とちゃんと顔を合わせたのは保育園に入ってからが初めてで、芹沢以外の他の子がいることに、その頃の俺はただただドキドキしていた。


 当時、かなり人見知りだった俺は、他の子たちの元気の良さにただ驚くばかりで、入園初日はずっと緊張して俯いていた。


 皆で一緒にお外で遊ぼうとなった時、俺の手を引いて連れ出してくれたのは、やっぱり芹沢だった。


 この頃になっても、やっぱり芹沢は変わらず俺のお姉ちゃんだった。


 人見知りでも遊ぶのは好きだった俺は、徐々に慣れてきて、別の子とも仲良くなり、その時に亮とも友だちになった。


 そして、俺たちは小学校に上がった。


 俺と芹沢と亮は、その時からもう大分仲良くなっていて、登下校も一緒にして、土日となれば三人で色んな所で遊んだ。健吾がこの輪に加わるようになるのは、小一の夏休みからだ。


 学年が上がるにつれ、それぞれに友だちも増え、別の友だちと遊ぶ機会も増えたが、それでも変わらずにこの四人で遊ぶことは多かった。


 女友達が多くなっていった芹沢も、俺たちの誘いを断ることはほとんどなく、それどころか芹沢から「今週の日曜暇だから、なんかしようよ」と誘ってくることも多かった。


 そんな風にして、小学生の六年間の想い出には全てこの三人がいて、特に幼馴染の関係が続いていた芹沢との想い出は、亮や健吾よりも多かった。


 しかし、中学に入ってそれが変わった。


 中一の時、俺と芹沢は別のクラスになった。亮と健吾は芹沢と同じクラスだったが、運悪く俺だけが別のクラスになった。


 亮や健吾は、「俺たちとの日頃の行いの差だな」とか言って、一人はみ出てしまった俺のことをいじっていたが、芹沢だけは「昇だけ、別のクラスかー」と何となく寂しそうな表情を見せてくれた。


 そんな寂しそうな芹沢に対して、「まぁ、別に学校が変わるわけじゃないから」と、あの頃の俺は強がって見せていた。


 それから二年生に上がり、亮や健吾とはまた同じクラスになれたが、芹沢だけはまた違うクラスになった。


 しかしこの時、俺たちは中一の俺の時のように、一人はみ出した芹沢をからかったりすることはなかった。


 一年間で、芹沢はすっかり女友達をたくさん作り、一緒にいるのは女友達との方が圧倒的に多くなった。それでいて、クラスが変わったせいか、ほとんど顔を合わせる機会すらなくなっていた。


 そんな中、時々男友達からは芹沢の噂を聴くことがあった。


『芹沢って可愛いよなー』

『なんか、中学入って雰囲気変わったよな』

『お前、誰が好き?』

『芹沢?まじかよ、実は俺もなんだよね』

『芹沢、いいよなー』


 そして、三年生になって俺は芹沢と同じクラスになった。


 しかしその時、すでに俺と芹沢は話ができなくなっていた。

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