第14話 勝手にやってろ

 目の前には見慣れた男の姿があった。

「アナタ……」

 女は必死に手を手を伸ばそうとするが、まるで足を何かに縫われているかのように全く動くことは出来ない。

「アナタ! アナタ!」

 女の叫びが届いたのか、男は女のほうを振り返った。

「十子……」

 夫はニッコリとは十子に微笑みかけた。

「アナタ、私……」

 十子が何か言いかけようとしたその時、男の額からドロリと赤黒い液体が流れ始めた。

 その光景に十子はゾッとする。

「どうしたんだい? 十子、こっちへおいで?」

 血まみれになった夫が十子にこっちへ来るように誘う。

「い、いや。私はまだそっちへは行きたくないっ!」

「そんな、寂しいことを言うなよ十子。……だって」

 夫は急に無表情で十子を見た。


「君 が 俺 を こ ん な に キ レ イ に し て く れ た ん じ ゃな い か」


 そう言ってニタァと笑い、そして、十子に向かって走ってくる。

「いやっ、やめて! イヤーーーーー!!!」

 その恐ろしさに十子は目を瞑って悲鳴を上げた。


『わっ。びっくりした』

「えっ?」

 夫ではない声に驚いて我に返ると、自宅ではない場所が目に映し出された。

「ここは……?」

 キョロキョロと十子が周囲を見回すと、そこには頭に包帯を巻いて腰掛に座っている文了の姿が見えた。服は最後に見たときとは変わって、病院着になっていた。

「あ、気がついたんですねー。おはようございます。あ、もう夜だからこんばんはですかねー」

 文了はニッコリと十子に笑いかける。

「ここは病院ですよ。十子さんが私の血まみれの姿を見て倒れちゃったんで、運んできましたー。ついでに私も検査入院という形で押し込められているんですけどねー」

 文了はそう言って引きつったような笑みをしつつ目線を逸らした。

「血まみれ……、あ、文了さん! 怪我大丈夫なんですか!?」

 十子は思い出したかのように、文了に容態を尋ねる。

「こんなに病室を歩けるくらいにはピンピンしているんですけどね。担当医がどうしてもって聞かなくて。今もこうして病室を脱走して十子さんに逢いに来たってわけですよ」

「歩き回って本当に大丈夫なんですか?」

「大丈夫、大丈夫。私の体は結構頑丈に出来ていますから。頭の怪我だってこのとお……いってぇ……」

 十子に元気な姿を見せようと、文了は自らの頭をペチペチと叩くと、キーンと頭に痛みが走って悶絶をし始めた。

「だっ、大丈夫ですか!!」

 十子はあわてて声をかける。

「大丈夫です。ちょっとやり過ぎちゃいましたね。まぁ、そんな話は置いておいて、結構お疲れだったご様子ですね。私が入ってきても気づかないくらいグッスリでしたよ」

「はい、そのようですね」

 十子は少し暗い表情を見せた。

「起きられる前にすごく魘されていたので、きっと怖い夢でも見ていらしたんでしょうね。そんなときに打ってつけのものをご用意したんですよー。じゃん!」

 文了は背後から大きいお重のような保存容器を取り出した。

「それは……なんですか?」

 十子は目をぱちくりとしながら、その容器を凝視した。

「これはですね……筑前煮です! この病院の婦長お手製なんですよ!」

 文了は容器の中身を今日一番の力の入れ方で説明した。

「お腹空いたりするから怖い夢や不安になったりするんです、これでも食べて元気出してくださいな」

 そう言って文了は背後から紙皿と割り箸を取り出して、保存容器に入っていた山ほどの筑前煮をお皿に盛って行く。

「これくらいで大丈夫ですか?」

 適量盛り付けたくらいで、文了は十子に量は十分かと尋ねた。

「はい、私にはちょっと多いくらいかもしれませんが」

「これくらい食べておかないと元気出ませんよー私も早速……」

 自分用の紙皿にはどっさりと煮物を盛っていく文了。

「でも、文了さんが頂いたものを私が食べて大丈夫なんですか? 文了さんの取り分が減ってしまうんじゃ……」

「大丈夫ですよ。あと容器2つ分はあるので! では、いっただきまーす!」

 文了は元気よく手を合わせると、大きく乱切りされたレンコンを箸に取って頬張った。

「んー。やっぱり鶏のかしわの油が野菜全体に染み渡っていて噛む度に味わい深いなぁー」

 とコメントをしながら幸せそうに目を細める文了。それを見て、十子もつられて筑前煮を口に運ぶ。

「美味しい……、なんだか懐かしい味」

「やっぱりお袋の味ってこういうのを言うんですかねぇー? なかなか真似できないことですけど」

 そういう文了の目はどこか寂しそうに見えた。

「文了さん……」

 そんな彼の様子を心配そうに十子が見ていると、


 コンコン。


 病室の扉からノックの音が聞こえた。

「はーい」

 十子が返事をすると、ガラッと勢いよく扉がスライドされ、そこから奈緒美がひょっこりと顔を覗かせた。

「もう! 十子の家に言ったら警察の人から十子が倒れてココに運ばれたって訊いて、飛んできたわよ! 大丈夫だった?」

 掴み掛かるような勢いで、十子に近寄ってくる奈緒美。

「う、うん。私は疲れで倒れちゃっただけだから平気。でも、私の頭に植木鉢が落ちてきそうだったのを、そこに居る探偵さん自らが盾になってくれて怪我を……」

 十子の説明に、奈緒美がくるっと後ろを振り替えると、そこにはぎこちない笑みで笑いかける文了の姿があった。

「あなたが探偵さんなのね。この間のご飯美味しかったわー。本当に料理がお好きなのねー」

「いやぁー。ただの自炊の延長線上ですよ。よろしかったら食べます? 筑前煮」

 文了は奈緒美に勧めたが、

「いえ、私さっきご飯を食べてきたばかりなの、申し訳ないけど結構よ」

 と断ると、文了はしょんぼりとした顔をして、

「そうですか……。あ、そろそろ私はお暇するとしますね。あとは二人でごゆっくりー」

 そそくさと帰る準備を整えて、文了は十子のいる病室から出て行った。

「雇った探偵さんは結構空気が読める人なのね。助かっちゃったわ」

「それで、何の用?」

 十子が首を傾げると、奈緒美はニヤリと笑った。

「決まっているじゃない。あの時の約束を忘れたわけじゃないわよね? って訊ねに来たのよ」

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