平田暁美 邂

「次―—はもういないか」


 今日も次の患者を待っている。

 赤沼の手引きで闇医者を始めてからは淡々と日々が過ぎていた。私は評判のない開業医なのだから、患者が来ない日もある。来る日は来る日で忙しすぎることもあるのだが、それ以上に来客がない日が多すぎて暇な生活だ。


 普通なら外に出向いて仕事を探すのだが、あいにくここら一帯の闇医者事業は赤沼に牛耳られている。特にヤクザなどの裏社会に関係している人の診察は必ず赤沼の耳に入ってしまう。

 そうなると基本的にはネットや口コミで訪れる一般を含めた患者しか相手にできない。だがそれも仕方のないことだ。いつか赤沼を排除するためのサイコパスを見つけるまで、できるだけ表立っての行動はしたくない。


 赤沼はサイコパスに殺されなければならない。自分の患者を作品と言っているあんなやつは、その作品に殺されるのがお似合いだ。私もその作品の一つであるが、残念ながら私には赤沼を殺すだけの力はない。


 襲うならまずはいつも一緒にいる秘書のような女性を引きはがして、護衛がいないところを襲わなくてはいけなくなる。赤沼はこの診療所に来る時には護衛を連れてこない。殺るならばこの診療所が最適だろう。

 秘書に関しては不明なところが多い。大学生の頃から見かけるようになったが、話したことはないしどんな性格かも知らない。だが、赤沼のことだから無能を自分の近くに置いておくとは考えにくい。護身術の類ぐらいは体得しているに違いない。殺害するならば不確定要素の秘書がいないときにしたいものだ。


 私が赤沼にできることはメスや包丁で切りかかることぐらいだろうか。スタンガンなどの武器は購入に足がついてしまう。同じ理由で罠を仕掛けることもできないし、殺し屋も雇えない。そのためにも不意打ちを食らわせるには、頭が狂っている来院者の協力が欲しい。まさか訪れた患者一人ひとりをわざわざ把握してはいないだろう。

 赤沼は確実に殺さなくてはいけない。取り逃したら即報復される。チャンスは一回。失敗は許されない。


 もともと私は警戒されている可能性もあるということも考えなくてはいけない。長年赤沼の指示に従ってきたし、信用もされていると思うが、赤沼の性格を考えると本当に誰かを心から許したことなどないだろう。故に私には監視がついていることを考慮して行動しなければならない。

 正直、監視は十中八九ついているとは思う。監視というよりは、成果物の経過観察としてだろうが。


 とにかく、私一人では赤沼を確実に仕留めるには疑問が残る。密かに協力者を探さなくてはいけない。




 外を見ると、横なぶりの雨が降ってる。

 この区画に降る雨は濁っている。看板は錆びているし、風俗店を除けばまともな店はない。麻薬は堂々と売り買いされているし、大きなヤクザの事務所があることも含めると日本の中でも有数のスラム街だろう。ヒラタがいるこのビルだって一階を除けば全てテナント募集のポスターが窓に貼られている。どす黒いものを洗い流そうとする雨が逆に黒くけがされている。

 そう見えるほどに、ヒラタが開業したこの場所は汚れ荒んでいた。


 気分転換に珈琲でも入れようと窓から離れようとすると、屋外の階段から騒々しい音が上に駆け上ってくるのが聞こえた。徐々に大きくなってくる音に嫌な予感を感じた時、扉が乱暴に開かれた。

 突っ込んできた巨体は転がりながら、ステンレス製の器械台に激突した。上に置いてあったハサミやメスが部屋の隅に突き刺さるような勢いで飛んでいく。


「誰だ? お前」


 ゆっくりと男は起き上がる。雨に濡れた小汚いコートが床をなぞり、濡れた布類がタイルに張り付く音を放つ。

 とっさにヒラタは身構えた。赤沼を殺そうとしているのが露見したのか? こいつは赤沼の手のものなのかもしれない。

 男は荒い呼吸を整えると、ずれていたフードを慌てて被り直した。


「…………」


 男は急いで振り返ると、駆け足で扉を閉めて全身を使って抑え込む。

 ぽたりぽたり、と濡れたコートについた雨粒が零れている。森閑しんかんとしたこの空間で、床を叩くその滴だけが響いていた。

 二人の視線が交錯する。


 フードで確認はしにくいが、男の額からは血が流れている。ナイフのような鋭利なもので切り裂かれた痕だった。

 小さくため息をつく。面倒ごとに巻き込まれているのは嫌でもわかる。

 今のところヒラタに対して何もしてこないところをみると敵意はなさそうだがどことなく様子がおかしい。


「お前は……危害を加えようとしているわけではないみたいだが、逃げている途中なのか? あいにくここは診察所だ。不衛生な状態でいられても困る。出て行ってくれないか」

「…………」


 男は何も答えない。

 戸惑っているのかどうか伺い知れないが、喋る気はなさそうだ。

 それにしても覇気のない顔をしている。ルックスは普通の日本人という感じ。屈強そうな濃い顔なのだが、困り顔はそれを上塗りするほど頼りなくみえた。


「何だ、お前。うんとかすんとか言ってみたらどうだ?」

「う……あ……」

「ふむ――――ん、それは!?」


 男のコートから覗かせるブルーの病衣。病院から逃げてきたのだろう。よく見ればコートにも値札が付いている。盗んだということか。


「赤沼という男を知って――」

「っ!? ぐ!」


 明らかに男の顔色が変わる。あの男の名前を口に出した瞬間に男がヒラタに対して警戒した。


「お前あそこの患者か?」


 男は静かに頷く。

 

「逃げてきたのか。あの場所から」


 コンコン。扉がノックされる。

 今度は誰だ。一緒に逃げてきたのがいるのだろうか。

 男の顔を見ると唇を噛みしめている。なおも扉を抑え込み外を警戒していた。どうやらこの男の味方ではなさそうである。


「ヒラタさん。ちょっといいですか?」

「ちょっと待ってくれ」


 外にいる男に悟られないように小声で男に耳打ちする。


「言葉がわかるなら、奥に隠れていろ。何とかしてやる。私もあの男の被害者だ」


 男は黙考した後に、ヒラタをとりあえず頼ることにしたのか、大人しく診察所の奥に身を隠した。

 その様子を見届け、扉を開く。


「いいぞ。入ってくれ」

「ヒラタさん。あの……って、どうしたんですか。なんか色々散乱していますけど」


 見返すと器械台の上にあったものが散乱したままの状態で放置されていた。せめて見えないところに寄せておけばよかったと後悔したが、待たせると怪しまれることを考えるとそんな暇もなかった。


「ああ、さっき転んでしまってな。それで乱れた衣服を直していたんだよ」

「ヒラタさんにしては珍しいですね」

「ところでなんだ長崎。赤沼先生が仕事を回してくれたのか」


 チンピラの長崎。ヤクザにこき使われている下っ端だ。面識があるぐらいで、関わりが深いわけではない。


「いや、ちょっとしたことなんですけどね。赤沼先生のところから気の触れた患者が逃げ出したらしくって、そいつを追っているんですけど見かけませんでした?」

「それでどうして私が知っていると思ったのさ」

「あー、それはですね。ヒラタさんいつもコーヒーを飲みながら窓から路地を眺めているじゃないですか。それでこの路地にその患者が逃げ込んでいるかもしれないと思って、ヒラタさんなら知っているかと思いまして」

「よく知っているんだな」

「へ?」

「私が珈琲を飲みながら、窓から外を眺めていること」

「ああ! それは! えっと、そのですね。アニキからそういう話を聞いたことがあったって思いだしたんですよ」

「ふむ。記憶力がいいんだな」


 ヒラタは長崎に微笑んだ。

 確かにヒラタは暇な時は珈琲を飲みながら外をボーっと眺めているのが好きだ。

 ヒラタは確信した。自分に監視はついており、その監視役はこの男の可能性が高い。ヒラタの私生活の動向など、チンピラ風情にまで共有する情報ではない。つまりこいつが監視役。


 一瞬考える。こいつを排除するリスクとメリット。

 排除してもまた監視はつくだろう。だが次の監視がつくまでの猶予に、できることならある。例えばあの男を匿う準備をするとか。


「とりあえず、そいつの外見は? いくら寂れた路地だからと言って人の通りが全くないというわけでもないからな。特徴ある外見だったりするのか?」

「ああ、それはですね。えっとあの病院で着るやつなんて言うんですか。手術の前とかに着るやつ着ているみたいです」

「それは手術着か病衣だな。そんな派手な格好ならすぐにわかると思うが、あいにく見かけなかった。こっちのほうには逃げてきていないんじゃないのか」

「そうですか。あ、携帯ちょっといいですか」


 長崎は携帯を取り出すと、誰かに連絡を取ろうとする。

 その様子を見たヒラタは携帯を持っている長崎の手を掴んだ。


「ちょっと待ってくれ」

「はい?」

「私のところに聞きに来たことは言わないでくれ」

「どうしてですか」

「面倒ごとに巻き込まれたくないと思ってな。一応ここから眺めてはおいてあげるよ。赤沼先生に連絡を取ればいいんだろ?」

「そうです。わかりました」


 長崎は手次早に連絡を取り、ここら一帯には逃げ込んでいないことを伝えていた。ヒラタは聞き耳を立てていたが、ヒラタの名前を口に出すこともなかった。


「お騒がせしました」

「早く帰ってくれ。お客が来るかもしれないんだ。あとさっさと散らばったものを片づけたいんでな」


 帰ろうとする長崎をさっさと出て行けと、シッシと追い払うような仕草をする。

 長崎はペコペコとへりくだるように頭を下げると、ふと思い出したように扉の前で呟いた。


「そういえば、ヒラタさん」

「何だ」

「どうして床が濡れているんですか。外には出ていないんですよね」

「それは今日来た患者が―—」

「扉から奥まで続いてますよ?」


 ヤバい。これは言い逃れできない。


「あ、あああああ!」


 何かヒラタが弁明をする前に、雄たけびが上がった。

 突如奥から男が飛び出てきた。


「おい、お前! 隠れていろって言っただろ!」

「何だこいつ。ヒラタさん!」


 男は長崎にタックルすると、そのまま押し倒した。熊のような勢いと体重に物を言わせた突進だった。

 押し倒した長崎の頭を掴むと、力任せに後ろに振り抜く。

 長崎の身体は壁に叩きつけられた。強打したせいか、呼吸ができていないらしく、必死に息を吸おうともがいていた。


 腕を振り切った男の握りこぶしの指の合間は、髪の毛が生えたようになっており、長崎の髪の毛を引きちぎったことがわかったが、なによりも驚いたことはその髪の毛に肉が付着していることだった。


 長崎の頭は紙幣ほどの大きさの頭皮がめくり上がっており、生々しく血を吹き出しながらブラブラと揺れている。男がゆっくりと手を開くと、髪の毛が宙を舞うとともにニチャと音を立てて長崎の頭皮だった肉切れが落ちた。

 驚くべき怪力だ。人間離れしているにもほどがある。


 ようやく喋れるようになった長崎が怒号を飛ばす。

 足をかばい、起き上がることすらできないその様は無様という言葉がお似合いだ。


「ひ、ヒラタさん! ヒラタさん! ひぃい。こいつどうにかしろよ! 早く!」

「…………」

「ヒラタ! 赤沼先生に連絡を!」

「…………」

「ヒラタ?」


 ヒラタは何も答えない。それどころか、周囲を見渡し散らかっているメスを手に取ると、無表情で長崎に歩み寄る。

 男は肩で息をしたままで、長崎にこれ以上危害を加える素振りは見せない。自分のやってしまったことに動揺するように、後ずさりながら事の顛末てんまつを見守っている。


「長崎。監視はお前なんだろ?」

「ヒラ―—!?」


 長崎の喉元にメスを押し当てる。

 本気だということを行動で示すように、ヒラタは軽く力を込めメスを喉に食い込ませる。血が一筋流れた。


「長崎。お前が監視しているんだろ?」

「ああ。そうだ」

「他には?」

「いない。ヒラタ、お前何をしているかわかっているのか!」

「監視カメラや盗聴器は?」

「知らない! 少なくとも俺には知らされていない!」

「そうか」

「なあヒラタ。赤沼先生に―—」

「ご苦労。あと、下っ端がこの私を呼び捨てにするな」


 ヒラタのメスが喉ぼとけをぐ。

 プクリと長崎の喉に血が浮かび上がると、濁流の様に吹き出してきた。長崎は両手を喉に当てて傷口を覆うが、血は溢れ出る一方だ。

 ヒラタは容赦なく手で覆われていない場所で動脈がない場所を的確にメスで刺していった。まるで作業というように、首元を何度も刺し、抜く。

 刺し、抜く。繰り返す。


 無表情に行うヒラタ。

 やがて長崎から生気が消えていく。

 長崎の死亡を確認すると、ヒラタは急ぎ電話を掛けた。


「死体を処理してほしいんだ。安心しろ。今死んだばっかりだ。新鮮だから早く来い」


 ヒラタは長崎の死体をビニール製の大きな袋に手早く詰め込むと、それを引きずりながら奥へと消えていった。

 床には血が掠れた後だけが残っている。長崎がここにいたと示すものはこの血痕だけだ。やがてこの血痕もなくなる。


 男は余りの出来事に硬直していた。

 ヒラタの手際の良さ。機械のような冷血な表情。殺人に躊躇がない非道さ。


 ヒラタが長崎を刺している時のあの表情が、男の記憶に焼き付いた。

 萎縮し、その場から動くこともできない。逃げてきたはずなのに、逃げ込んだ先も逆境に変わりなかった。男は絶望していた。

 五分ほど経つと、男のもとにヒラタが帰ってきた。


「お前、名前は?」

「…………」

「ふむ、喋れないんだな。えぇと」


 ヒラタが何か案を出す前に男は自分の額の血を指につけると、床に名前を書き始めた。

 文字は書けるみたいだが、血文字だからか筆跡は汚く読みづらかった。


 黒須。


「そうか。黒須というのか。なあクロス。一緒に赤沼を殺さないか?」


 脈絡のない発言にクロスは目を大きく開く。自分を抱き、両手を肩に当て、小さく戦慄わなないた。小さなウサギが震えているだけだった。


「お前ならできるさ。赤沼が存在することによって、私たちがこの世界に住みにくくなることはわかるだろ? 一生監視されながら生きるなんてまっぴらごめんだ。赤沼の傀儡かいらいになるのも、赤沼の思いのままに事が動いているのも気に食わない」


 クロスは押し黙る。


「それに、私はあの化け物に復讐しなければならない。奪われてしまった私の人生と家族のため。例え人殺しでも何でもするさ。そのために、力を貸してほしいんだ」


 ヒラタが手を差し出す。

 それに反応してクロスは一歩後ずさった。


 それは筋骨隆々の男が、細身の女に怯えている異様な光景だった。


「私が怖いか? クロス」


 少し間を置いて、クロスは頷いた。

 ヒラタは安堵したように笑みを浮かべる。


「良かった。君のソレは正しい感情だ」


 その笑みに警戒を緩めたのか、クロスは強張った身体の緊張を解いた。

 一歩ヒラタに近づいた。


「私はソレを取り戻したいだけなんだ」

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