津田彰浩

 影だ。

 影が揺らめいている。


 道路の上を乱雑に塗りつぶされた影が歩いている。

 クレヨンで画用紙に描いたような粗さ。このことを話したら、親は何かのアニメーション作品だと言う。

 頭と腕、脚があるから『人』だとは思う。人型の影だということは視認はできるが、俺の脳みそは人とは認識していない。


 生まれてから俺は人間というものを見たことがなかった。だが人間がどういうものなのかは知っている。姿かたちは小さい頃イラストで知った。写真に撮った人間は影に見えるままだが、絵に描いたものはどうやら影には見えないらしい。


 影は俺に向かって話しかけてくることがある。話している内容は理解できるし、受け答えはできる。抑揚のない声で話しかけてくるその様は、顔のない機械と話している感覚だ。

 

 普通の人間は人が影に見えることなんてないみたいだし、俺がおかしいのだろう。病院にも定期的に通っているが、認知機能障害や脳障害の疑いがあると医者に言われれた。特に相貌失認の可能性が高いが、顔に限らず識別できないことを考えると、原因不明の病気である可能性が高いらしい。先天的な相貌失認の場合、声や振る舞いで個人を識別するが、俺の場合声も機械音声の様に聞こえてしまう。相手の服装も認識できない俺が唯一個人を判断するのは立ち振る舞いしかない。



 

 俺の日常生活はとにかく不便だ。影に顔はついていないし、声も似たように聞こえるから、人の区別がつけられない。名前を言われても、全て同じような形をした影なのだ。モルモットに一匹ずつ名前を付けて覚えるのと同じだ。


 だが、長く一緒に住んでいる親というものや、小さいころから一緒にいたような影は少しぐらいなら判別はつく。影の動きの癖や、喋り方で判断するんだ。親も俺が人間を認識できないことを知っているから、話す前に自分が誰かを明らかにしてから話し始めてくれる。「オ母さんよ。今日の晩御飯はお魚よ」といった具合に。


 今となっては少なくなったが、小学生のころは影が多いところに行くと度々奇声を上げてしまっていた。駅にも近づけず、人が多い場所は駄々をこねて行きたくないと糾弾した。街を練り歩く影の群れに足をすくませ、その場にへたり込むこともしばしば。最近となっては影に慣れてきたが、やはり影の群れが騒めく渋谷のスクランブルなんてテレビで見るだけでも鳥肌が立つ。


 

 人間との生活で一番苦労しているのは集団生活である。特に学校は最悪だった。名前を覚えることが出来ないのだから、話しかけるとすることもできない。日ごろから無言を貫きただそこに鎮座するような俺は周囲から浮き、いじめの標的にされるのも時間はかからなかった。


 言葉が理解できないわけではない。何を言われているのかはわかるゆえに、小さい頃の俺には堪えた。

 誹謗、中傷、無視、嫌がらせ、暴力、贔屓。


 親からの虐待だってある。一言目には「どうして」という言葉。

 どうして何も言わないの?

 どうして普通の子じゃないの?

 どうしてそんな目で見るの?


 どうして? そんなの俺が聞きたい。

 どうして俺がこんな目に合わなくてはいけないのだろうか。どうして俺は他と違うのだろうか。どうして俺は……




 影におびえながら生きていかなければいけないと身体に染みついてきたころ、中学三年生の時に不思議な一体の影が話しかけてきた。


「ネえ、昨日の休み時間に図書室で――」

「コいつ、オかしいから近寄らない方が。喋らないから。気持ち悪いから向こうに行こう」


 少し甲高い不協和音はだいたい女子の声だ。だが、それ以上はわからない。こいつが誰なのかとか、それ以上にどんな名前なのかとか。


「デ、でも……」


 左右に影が揺れる。知らないやつとの会話はなるべく避けるほうが良い。面倒ごとに巻き込まれるだけだ。



「ホら、喋らないでしょ」


 他の影が話しかけてきた影を連れ去っていってしまった。

 誰だ、あいつ?


 学校は嫌いだ。親を名乗る影に言われて強制的に通わされているが、義務教育が終わったらすぐにでも誰もいないようなところに隠居したい。お金は適当に工面すればいいだろう。どうせ俗世から離れるんだから、盗みとかの犯罪をしても構わない。人里離れたところでゆっくりと余生を過ごそう。こんな影が溢れているところで一生を過ごすなんてまっぴらごめんだ。


 今日も図書室の隅の誰も来なさそうな席で、ひっそりと佇む。今の時間は通学路に人が多い、家に帰っても影が待っている。かといってどこかに移動すると見知らぬ影が闊歩している。その影が声をかけてきて、クラスメイトだったりする。そしてそれが誰かわからないまま、愛想笑いで何とか取り繕う。考えてみてくれ、ストレスでおかしくなりそうだろ?


 だから俺は図書室に閉じこもる。目立たないところに陣取り、動かない。正直言えばトイレに閉じこもりたいが、この学校のトイレは匂い立つのであんまりしたくない。


 今日は何を読むか。昨日でドストエフスキー読み切っちゃったしな。


「ア、アの」


 ゲーテあたりでいいか。

 

「アの! 津田君」


 俺に話しかけていたのか? 誰だ?

 跪いて本棚を物色していた俺が見上げて確認したその姿は相も変わらず、真っ黒に彩色された影。


「昨日ドストエフスキーの『罪と罰』読んでいた?」

「ああ、読んだけど。それがどうしたの?」


 影は左右に揺れる。


「栞挟まっていなかった?」

「栞? 挟まっていたよ。一応司書さんに預けておいたけど」

「本当? アりがとう。探していたんだ」

「ふーん。じゃあ、俺はこれで」


 用事は済んだみたいだし、さっさと本を選んで戻ろう。


「アの」

「まだ何か?」

「戯曲を探しているんですか?」

「どうしてそう思うの?」

「よくここで放課後本探しているから」


 影は右腕を本棚の下部に向ける。


「えっと……ごめん名前知ってるかな? 俺」

「アっと、私同じクラスの水野です」

「水野さんね。俺人の名前覚えるの苦手だから多分忘れるかもしれないけど、まあよろしく。それで、ゲーテでなんかおすすめの本あるかな」

「『ファウスト』とかどうですか?」

「面白いの?」

「ゲーテの中では有名な方ですし、私は韻文が面白いと思いました」

「わかった。読んだことないし、読んでみるよ」


 本棚からゲーテを探し、『ファウスト 上巻』を取り出す。かなり薄い本だった。ここらへんの外国人作家の本って厚さが本当に極端なんだよな。

 立ち上がって自席へ戻ろうとすると、水野から無意識に呟くように声が漏れていた。


「ナんだ。全然違うじゃん」

「は? 何が?」

「イえ、津田君のことを友達がおかしいって言っていたので」

「まあ、噂にもなっているしいいよ。別に俺は気にしていないし。あまり人に関わりたくないのは事実だし」

「昼休みの時もすいません。本当はあそこで否定するべきでした」

「ああ、昼間の子だったのか。何か言いかけていたけど。あれは栞探していたのか」

「ソれもありますけど、前から津田君と話しをしたいと思っていて」


 なんか変な子に絡まれちゃったかな。



 

 水野はそれから毎日図書室にやってきて俺に話しかけてきた。俺には影が誰かを識別することはできないから、最初のうちは誰が話しかけてきているのかわからなかったけど、少しずつ水野の癖は判ってきた。

 水野には独特なリズムで左右に身体を揺らす癖があった。それは話しかけてくるときに必ず行う。あとあまりにも人の名前を覚えないことがわかったのか、必ず「水野だけど隣空いてる?」と聞いてくるようになった。


 図書室に水野が来るようになって、最初のうちは隣で勝手に読書をしていた。俺にとってはあんまり歓迎する状況ではなかったが、無駄に干渉してこないのと存在感がないのが幸いして、不思議と不快感を感じなかった。今となっては勉強を教える間柄になっていた。

 


「おい、水野」

「ナに?」

「お前いじめられたりしてないか?」

「ウうん、ドうして?」

「いや何でもない」


 俺と関わることで虐められていないかが気がかりだったが、杞憂だったか。


 ドロリと影が剥がれ落ちた。地面に落ちるよりも早く影は霧散する。

 影の頭部の横に黒とは違う色彩が見えた。黒ではない、それは俺が求めていたものだ。

 初めて人肌というものを見た。




 鏡に映った影は俺を見つめている。


「手伝いに来た」

「エっと? あの人の?」

「そうだ。縛り付けるだけなんだろ?」

「うん」


 小さな影だ。顔も髪型も服装もないから、それ以上は判らない。

 ただ妙に媚びた声ですり寄ってくる気持ち悪さがある。

 こいつとこれから何回も会わないといけないのか。


「アなた名前は?」

「ああ俺? 津田」

「津田ね」

「やけに見下した影だな。おい」

「影?」

「なんでもねえよ。とにかくやることやったらすぐ行くから」

「ワかった」


 こんな温もりも感じない影じゃなくて、人間に会いたい。

 きっと異世界に迷い込んだ一人ぼっちの人間だと言われても、俺は納得してしまう。

 水野の頬は温かかったのだろうか。

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