黒須尚也
「おお、黒須君」
「赤沼先生。お元気ですか」
「こっちに寄ってくれないか。あまり足腰を使いたくないんだ」
「わかりました」
「最近は寄る年波には抗えないことを痛感するよ」
初老は椅子に深く腰かけている。垂れた頭を持ち上げることなく、首だけを動かして俺の足元を眺めていた。顔を見ることはない。故に目を合わせることもなかった。
「君も大成した。そんな君が私のような小汚い老いぼれに何の用かね」
「お礼を申し上げにきたのですよ」
「ああ、そうか。そうなのか。もうそんな時が来たのだな。知っているぞ。君のことを」
「どうかなされましたか?」
赤沼はため息をつくと、ゆっくりと目を閉じて感慨にふけりながら呟いた。
「君も裏切るのだろう?」
「何を馬鹿なことをおっしゃるんですか」
「知っているんだ。君の、その目を」
赤沼は俺の目を覗き込んでくる。しわくちゃになった皮膚に囲まれた
「俺の目、ですか?」
「ああその通り。それを見たことがある。ずっと昔に」
「そいつは先生のことを裏切ったんですね」
「その通り」
「そして、俺が先生を裏切るんですか? よしてくださいよ」
「よく頭が回る君のことだ。私のことも利用できる駒の一つに見ているんだろう?」
そうだ。
「先生にお世話になった身です。恩義は感じても、裏切るようなことはしません。そんなことを言わないでくださいよ」
「いいんだ。私は君に恨まれるようなこともしたしな」
「これのことですか?」
俺は髪の毛をかき分けて、左後頭部の手術痕を指さした。かつて赤沼に施術された時の痕は消えることなく未だに残っている。
「黒須君」
「はい、なんですか」
「私の邪魔をしないでくれたまえ」
「邪魔ですか?」
「私の計画を阻害するものを、邪魔と呼ぶ」
「もちろん、先生の邪魔はしませんよ」
「……その言葉も、ああ、懐かしい」
「はい?」
「あの時もそう言って、私は裏切られたよ」
「…………」
「君もわかっているのだろう。この世界の理不尽さに。マイノリティはもうこの国では生きていけないのだよ」
「だから、マイノリティであるサイコパスを増やしているんですよね」
「そうだ。社会的弱者であるサイコパスも社会的多数になれば、虐げられることはない。一般的には狂ったような思考でも、サイコパスが一般になれば、受け入れてくれることだろう」
赤沼の妄想は荒唐無稽だ。そんなこと無理に決まっているだろう。それに赤沼は自身の快楽と偽善を優先している節もある。世のため人のため、サイコパスのため、などと言っているが結局は自分のため。大義という言葉には程遠い。
「その考えは、やはり甘いのでは?」
「知っている。そしてこれが自己満足だということも」
「ならば、なぜ?」
「抗えないのだよ。罪悪感と使命感に」
「一人ひとりサイコパスを作っていては効率が悪い。そんなことはあなたが一番わかっているのでは?」
「ああ、もちろんわかっている」
「他に意味があるということなのですね」
「……いや、私が言いたいのは、この世界の理不尽さだけだ」
ただ、サイコパスを作っているというわけではないということなのか?
「先生、一言お礼を言いに来ただけなので今日はこれで失礼します」
「待ちたまえ黒須君」
珍しく赤沼が俺を呼び止めた。
いつもならさっさと出ていってくれと言わんばかりに、貧乏ゆすりがごとく杖で床を叩き始めるというのに。
「なんでしょうか?」
「サイコパスも人間なのだから。頭ごなしに否定して、淘汰しないでほしいものだ」
「サイコパスは淘汰されませんよ。人間という種は完全ではない。必ず劣等種が存在する。働きアリの原理のように健全な人間からもサイコパスは生まれる」
赤沼先生。あなたには本当にお世話になりました。あなたのような聡明な人は狂っていても素直に尊敬します。今日はあなたに別れの挨拶に来ただけでしたが、どうやらわかっているご様子。
あなたにどこまでこの先の展望が見えているのかは知りませんが、あなたに裏切り者と言われても、俺は俺のやり方で貫き通しますよ。
「黒須君」
「はい?」
「私はもう長くはない。最後に覚えておいてくれないか」
「何でしょうか」
「私たちは決して癌ではないのだ。考え方が違うだけの、人間だ」
「心に留めておきます」
赤沼に背を向け、俺は別れを告げた。
「では、お元気で」
「ああ、せいぜい頑張りたまえ」
赤沼が消息を絶ってから、一か月が経とうとしていた。赤沼失踪の一報は赤沼が関与していた裏社会に混乱をもたらしたが、遅かれ早かれ収束する。特に赤沼の代替となるような人物が現れたのならば、なおのことだろう。
――――成嶋秀樹の書き置き
暗がりから女が現れた。歳は二十後半あたりといったところだろうか。歩き方といいその身なりといい、育ちが良さそうな女だった。服は全身真っ黒。蜘蛛の巣のようなデザインで、胸のあたりが大きくはだけていた。だが扇情的なのは胸のあたりだけで、ゆったりと揺れるそのドレスの様子はまるで社交ダンスを想起させるものだった。
「よろしいでしょうか」
「あんた誰?」
「あなたがクロスさんですか? 噂では喋れないと聞いたいたのですが」
「ああ? 俺が喋れない? 馬鹿言うなよ。それに俺は黒須さんじゃない」
「あら、すみません。では黒須さんは一体どちらに? お会いなさってくれるというから、ここまで来たのですが」
「黒須さんは奥の方にいるよ。あんたは……誰だ?」
「何? 津田っち忘れたの? 今日はお客さん来るって黒須様が言ってたよ」
津田の隣にいつからいたのか、女子が座っていた。その少女はかつてのあどけない面影を僅かに残しつつ、立派に女性へと変身を遂げていた。流れるようなロングの黒髪を払いのけて十八歳になった山岸真紀は艶やかに微笑んだ。
「山岸。お前退院してたんだな」
「まあね。一週間ぐらいで退院できたよ」
「そうか。てっきりもっと長いかと思っていたよ」
「心配した?」
「いや。むしろそのまま死んでほしかったよ」
「何よ!」
「あの。いいですか。黒須さんは―—」
ドレスの女の言葉を遮るように山岸と津田は話を続ける。わざと無視しているというわけでもなく、口論が白熱して女の存在など忘れてしまっているようだった。
「母親になって一つ成長したかと思ったけど、そんなことはないみたいだな」
「出産したからってすぐに変わるもんじゃないもん」
「言葉遣いは馬鹿っぽいし。何が『もん』だよ」
「馬鹿なのはそっちでしょ。大学にも通えなかったくせに。ニート! ニート!」
「あのなあ! 俺は探偵業やってんだから、ニートじゃない」
「自称探偵。ニートじゃん」
「そういうお前こそ。高校も通ってないじゃないか!」
「高卒資格認定受かってるし。しかも大学受かっ――」
「静かにしろ」
一声で部屋は静謐に包まれる。
扉が開き、男が奥から姿を現す。二人の喧騒を聞くに堪えないと判断したのだ。
巨体にぴったりあったスーツ。それに似合わない黒いコートを羽織るように着ている。威圧するような巨躯と雰囲気。無関心に周囲を見渡す瞳は、覗き込むものに男の高圧さを感じさせた。
「失礼した。ミズ・アンナ」
「あなたがクロスさんですか?」
「確かに私が黒須だ。手駒が見苦しいところを見せてしまったが、これでも二人は優秀だ。幻滅はしないでくれ」
「ええ。黒須さんの噂はこちらにも届いていますから、特に心配はしていませんよ」
「日本語が上手だな」
「他の国の言語を勉強する機会に恵まれただけですよ。それに名前は呼び捨てで構いませんよ。日本には敬称をつけるという文化は聞いたのですが、『ミズ』もそういうことなのですか?」
「ん? ははは! 向こうも面白いのを寄こしたな」
「どうかしましたか?」
「いや、何でもない。失礼した。確かに日本では初対面の人には敬称をつけるのが一般的だ。現にあなたも私を『さん』づけで呼んでいる。私は社交辞令としてあなたを敬称をつけて呼んだだけだよ」
「からかいの意味もあったということですね」
「そういうことだ。さてアンナさん。二人に自己紹介を頼めるかな」
「改めまして皆様。私、シェンカレフ組のアンナ・ザリバートと申します」
「シェンカレフ? 何それ」
山岸が小首をかしげる。津田も説明を求めるように黒須に振り返る。
「ロシアンマフィアの大派閥アントン・シェンカレフ組だ。大陸にいるマフィアの中では五本の指に入る」
「そんな人と黒須様は繋がっているんですか! 流石です!」
「といっても彼にとって俺……ああ、失礼アンナさん。普段身内で喋る時の一人称は俺なんだ。この場ではそれでいいかな」
「もちろんかまいません。それに私のことも呼び捨てで構わないと言いましたよ」
「外部の人間に呼び捨てはどうかと思うが、これ以上はくどいだろう。ではアンナと呼ぶことにするよ」
「ええ。意向を汲んでくださり、ありがとうございます。ついでに言いますと、私はシェンカレフ組では下っ端の方ですよ。日本語が喋れるという理由で選出されただけですから」
「でも黒須様。そのシェンカレフとかいうのが直に挨拶に来るのが筋というものでは?」
シェンカレフ組でのアンナの立ち位置が下っ端だと知って、黒須がなめられていると思っての発言であった。
「シェンカレフさんにとってはここは大きな市場ではないだろうからね。あと山岸。彼と私では立場が違いすぎる。私のような力のない人間がシェンカレフさんと会えるのは奇跡に近いんだ」
「でも、黒須様は!」
「黙っていろ」
「……はい」
何か余計なことを口走ろうとしたのを黒須は察したのか、客人を前にそれとも口が過ぎると思ったのか、静かに山岸を睨みつけた。
「黒須さん。彼女はどうしてここにいるんですか? そっちの方が気になるんですけど」
「これからやることを少し手伝ってもらおうと思っている」
「……アンナは向こうでは何やってる人なの?」
人前で黒須に怒られてふてくされながらも山岸は疑問を口にした。
「私が携わっているのは麻薬と人身売買です。日本に来た理由もそうですし」
「日本にはどのくらいの滞在を?」
「詳しくは言われてませんが、おそらく引き上げの指示があるまででしょう」
「とりあえずこちらで衣食住は提供しようと思うのですが、どうですか?」
「そうですね。お金には困っていませんが皆さんのことも興味がありますし、甘えさせてもらうことにします」
アンナはにっこりと微笑みかける。真っ赤な口紅の上から塗られたグロスが暗い部屋の光で怪しく光っていた。
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