第二部

湯本真一

 ドンッ!

 ふいに背中を押されて気づく。殺された。


 電車が眼前に迫り、全身が強い衝撃を受けた。電車の顔と呼ばれる部分にまず頭部が接触し押し付けられると共に、膝頭が砕け電車の下に引きずり込まれる。

 痛みを感じた瞬間に、視界がブラックアウトする。


 電車の甲高いブレーキ音がホームに響く。ホーム上で呆気にとられていた人間は何が起こったのか理解すると、悲鳴を上げた。


 朝の不運な事故だった。ホーム上が混んでおり、押し出されるように一人線路に落ちてしまっただけの話だ。背中を押してしまった女性の顔は蒼白になっている。


 車輪に巻き込まれた被害者の身体を残すものは肉片と血と髪だけ。ミキサーのようにかき混ぜられ、周囲にはむせるような血の匂いが充満していた。


 ホーム上で物珍しげに死体を眺めるサラリーマンの姿がある。彼も好奇心で近寄る野次馬の一人だ。だが、見る人から見ればその眼は常軌を逸していることがわかる。

 彼の趣味を行うのは夜であり、死体も見れないことが多い。そのため、彼ははっきりとした死体の様子に興奮していた。サラリーマンの名前は湯本真一。


 湯本は人を線路に突き落とすのが大好きだ。


 線路に人を突き落とすコツは三つある。


 まず深夜帯を狙うということだ。一人でいることが多いし、端が暗いホームもある。後ろから密かに近づくためには深夜はベストな時間帯だと言える。


 次に駅の選別だ。監視カメラの数と死角。深夜のホームの人数。ホームの端が暗いかどうか。そして、どれだけ条件に合う駅を見つけられるかと言うことだ。同じ駅での殺人は一年は開けた方が良いと考えていた。


 最後に一番重要なことだが、泥酔している酔っ払いを狙うということだ。酔っ払いと言うのは注意散漫になりやすい。周りのことなど注意していないし、退避スペースがあるにも関わらず目の前のホームに必死に登ろうとする。もちろんよじ登れることは少ない。例え上っても酔っ払いが落ちたというだけだ。大体のことは記憶が飛んでいるか、酔っ払いの戯言たわごととして片づけられるだろう。

 

 なぜ湯本が人を突き落とすようになったのか。それは些細なことだった。新卒として就職し、仕事にも少し慣れてきたころの会社の飲み会の帰り道。二本乗り継いで、終電を待っている時に口論になってしまったことがあった。肩が当たったとかいうくだらないことが原因だった。

 その際もみ合いになり、誤って二人とも線路に落ちてしまったのだ。飲酒しているせいもあり、二人共なかなかホームに上がれない。暫くすると遠くから二つのライトが近づき、警笛が耳をつんざいた。

 慌ててよじ登ろうとするが、湯本は大学生から体を動かしたことがほとんどない。最後に運動したのは高校時代の体育である。一緒に落ちてしまった口論していた相手も同様に運動不足が祟って上れないでいる。焦りから額から冷や汗が伝う。


 やっとのこと湯本がよじ登ると、そのまま転がるようにホーム上に仰向けに寝転がった。自分の命が助かったことと、恐怖から解放された安堵が駆け巡っている。生の喜びを感じていると、男の声が邪魔をした。


「助けてくれ! さっきは悪かった。早く助けてくれ!」


 湯本は冷めた目で男を見ると、左から迫る電車を確認した。男は少しぽっちゃりとした体躯で、想像するに40代ぐらいの年だろう。ホームに自力で上がるのは難しいのかもしれない。


 男の生死は自分で決めることができる。人の人生を決定できるという状況に湯本はぞくりとする愉悦ゆえつを感じた。まだ23歳の社会の小さい歯車である自分が、自分より大きな歯車を慈悲もなく壊すことができることが愉快だった。


 だが男にも家族がいるし、逆の立場だったらと思うと腹立たしいと思うだろう。肩がぶつかったのなんて、どちらがぶつけたかなんて実際お互い判っていないし、冷静に考えればそこまで怒ることの程でもない。


 湯本は一本の蜘蛛の糸を垂らす。手を差し出すと生への執着から、男はすがるように抱きついた。腕が千切れそうなほど湯本は後ろに全体重をかけ、両手で男の腕を引っ張った。


「は、早くしろ!」


 男の怒鳴り声と同時にブレーキ音が迫り、ライトで湯本の視界はホワイトアウトした。

 男の断末魔が聞こえる。視界は赤く塗り替えられた。


 この後、駅員が警察を呼び、事の成り行きを説明した。

 口論になり、揉めた後に線路に落ちたこと。

 先にホーム上に上がり男を助けようとしたこと。

 男はホームと電車の間に挟まれて死んでしまったこと。

 そして監視カメラと照らし合わせて事実を確認すると、湯本はパトカーに送迎され帰宅した。


 帰宅後、湯本は絶頂していた。

 自分は生き残ったのだ。あのスリルを他の人にも味わってもらいたい。この感覚を共有してもらいたい。

 サイコパスがこうして一人生まれた。


 無防備な状態の人間を落とすのは気持ちが良かった。抵抗もできずに線路に落ちていく様、線路上でパニックになる様は滑稽で愉快だ。

 普通に生きていただけなのに、数秒後に死ぬことがわかった時の凄絶せいぜつな顔。非常に面白い。

 線路に寝そべって電車の下の隙間で生き残ろうという人も一人いた。結局お腹の肉が削げ落ちて死んでしまった。

 人の生死を決めることができるという神のみに与えられた権利を有している。ああ、なんて最高なんだ。


 殺しは二か月に一回と決めた。あまりにも多いとさすがに疑われるだろうと思ったからだ。

 今日も居酒屋で酔わない程度に酒を飲んで時間を潰す。二か月に一度の娯楽の日。これから人を線路に突き落とすという快楽を想像するだけで、酒の肴になる。いつもより酒も進む。


 終電間際。ターゲットを決めた。千鳥足の男がホームの端で吐いている。あの種類の監視カメラの録画範囲は確認済みだ。男が吐いている付近は映っていない。

 タイミングよく、アナウンスが流れる。


「まもなく一番乗り場に普通「おえぇえええ」きが8両で参ります。あぶないですから、黄色い点字ブロックまでお下がりください」

 

 頃合いか。


「一番乗り場に電車が参ります。ご注意ください」


 ドンッ!

 アナウンスに合わせて男の背中を押す。

 男は突っかかって、そのまま線路に落ちていった。


 こっちを向いてその顔を見せてくれよ。

 湯本が会心の笑みを浮かべる。


「特等席から眺めてみたらどうだ?」

「は?」


 女の声が聞こえた瞬間。

 殴り飛ばされたかのような強い力で背中を押された。背中が、押された? 誰に?

 頭から落ちそうになったが、体をよじって右半身から着地した。線路上に転がり落ちる。すぐに立ち上がりホームを覗き上げた。


 暗い色の服装の巨漢だった。後ろには付き添うように白衣を着た女が立っている。すぐ後ろにいることさえも気づかなかったのは不覚としか言いようがない。自分がずっと安全な場所にいると錯覚したのが悪い。


「糞がっ! 何しやがる!」


 湯本は激怒したが、すぐに冷静になった。彼らは駅員を呼ぶわけでもなく、突き落としてしまったことを謝るわけでもない。何かおかしい。


「お前らも同業者か?」

「同業者?」

「線路に突き落とすのが、生きがいかってことだよ!」

「一緒にしないでくれ。ほら、もう電車が来るぞ」


 白衣の女は無表情に湯本を見下ろしていた。湯本はこの二人組に助けを求めても無駄だと諦観する。女との会話に時間を割きすぎたせいで、退避スペースにはもう間に合わない。今まで見てきたからわかる。これから圧倒的な質量をもった物体が突っ込んできて、自分は死ぬのだ。

 湯本はこれから自身に起こるであろう惨劇を想起した。今まで殺した人間の顔が浮かんでくる。死に際の絶望した顔。生き残るために必死にもがくその様。その体験を自分もできることへの限りない興奮。


「これかぁああ! こんな、こんな絶望を感じていたのかぁあ! もう助からないこの瞬間に! ああああああああ!」


 湯本は足を震わせながら、失禁していた。

 嬉しくて震えているのか。恐怖で震えているのか。誰にもわからない。


 湯本は手を大きく広げ、自分の息子が胸に飛び込んでくるのを待ち構えるように迫ってくる電車を迎えた。


「狂ってやがる」

「なあ、おっさん。一緒にイこうぜ。天国にも昇れるさァ!」

「そこの人! 早く引き上げてくれないか! こいつおかしいんだ。おげぇえええ」

「来いよォ! さあ! 俺は死な――」


 ゴン!

 鈍い音と共に呆気なく男と湯本を引き殺した。神だとおごった人間の末路は呆気ないものだった。


「ふむ、後は頼んだよ。成嶋さん」


 暗がりから私服の初老が姿を現す。石黒勝を連れてきた成嶋という警官だ。


「どうしてあいつが線路に突き落とす愉快犯だとわかったんですか?」

「おいおい。私はサイコパスの専門医だぞ。一目見た時からあいつは色々とサイコパスに通じるところがあったんだよ。でも翌日の朝に必ず事故があった駅で降りているというのは、警察も調べがついてよかったと思うが」

「それはそうですね。お恥ずかしいところをお見せしました」


 成嶋はハンカチを取り出すと、かいてもいない汗を拭く。


「私もあなたに色々と返さなくてはいけない貸しがあるからね」

「ありがとうございます、ヒラタさん。私も今回の件で色々なやつに貸しを作ることができましたよ。あいつが男を落とす瞬間もカメラの向きを変えて録画しましたし、犯人として扱えます」

「今私たちがいる場所は映っていないんだろう?」

「ええ、もちろん。クロスさんの怪力のおかげで、あいつが後追いで飛び込んだようにも見えますし。……まあそれでもだいぶ苦しいかもしれませんから、流石にこちらでうまくやっておきますよ」

「それじゃあ私はお暇させてもらうよ。クロス、行くよ」


 ヒラタはクロスと共にホームの階段を降りて行った。


「運転士もかわいそうにね。トラウマもんだよ」


 成嶋は運転士に同情しながら、小走りで鉄道警察隊が控えている場所に向かう。

 

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