幕間

 今日は一日中掃除の予定だ。

 赤沼の血は予想以上に飛び散ってしまっていた。両腕両足を力任せにいだのだから、当たり前と言えば当たり前である。デスクや椅子に染みつくように飛び散り、扉の前の血溜まりが蛍光灯を映している。


 クロスは申し訳なさそうにして、ヒラタの顔を伺いながら隠れて床を拭いていた。ヒラタがクロスに指示を出す度にクロスの身体はビクリと震える。

 その様子に困り顔を浮かべてヒラタはクロスに対してため息を吐いた。


「おいおいクロス。何も知らない奴が見たら、私がお前を恐怖で服従させているみたいじゃないか」

「…………」


 クロスは血溜まりに再度視線を向ける。


「……はぁ。仕方ないだろ。そもそも赤沼の四肢を千切ることは最初から決めていたんだから。何か感づかれるよりはここで応対した方が良かったんだよ」




 前回赤沼がヒラタの元を訪れた時は、まだヒラタはクロスと出会っていなかった。ヒラタ単身では事を起こそうにも、女性一人という状況は誰の目から見ても不利だ。

 相手は高齢の男性だとしてもヒラタは油断しなかった。スタンガンを用意して来訪した赤沼を襲おうとしたこともある。だが、相手は常軌を逸した狂人、サイコパス。何を考えどう行動するかわからない。そしてそれは社会から見て異質でもある存在。そんな相手にヒラタは単身では敵うとは思えなかった。


 更に前回の赤沼には連れがいたため、クロスと会うまでは赤沼の処方箋は出さないことにしていた。今回その連れはいなかったのが気がかりだが、当初の目論見は成功したのだから十分だろう。


 赤沼の四肢を引きちぎった後、ヒラタは急いで赤沼の止血をした。意識は飛んでいたので麻酔をかけずに縫合し輸血した結果、赤沼は辛うじて生き残った。手術を直ぐにできたおかげでもある。


 赤沼に繋がれている心電図は今にも停止しそうである。赤沼の手術台の周りにも、おびただしい量の血がき散っている。

 赤沼は静かに息をしている。ままごとに使う人形でもこのようにここまで不格好ではない。右腕は肩口、左腕は肘、右脚は股関節、左足は膝から先が千切られているのだ。人形ならば綺麗に腕と脚が取れるのだから、左右非対称アシンメトリーの彼はさしずめ芋虫といったところだろう。二度と歩くことはできないだろうし、目覚めることもないのかもしれない。


 手術を終えたヒラタとクロスは、とりあえずシャワーを浴びることにした。体についた血とその匂いを洗い流すとヒラタは揚々と告げた。


「よし、クロス! 祝いにフレンチでも食べにいくか!」


 クロスに一年前に買い与えたフォーマルスーツを着るように命じると、ヒラタ自身も深紅のドレスに身をくるみ、夜の街へと躍り出た。


 連続強姦魔の吉沢巧が言うようにヒラタは美人である。もっぱら屋内にいるためその肌は病的に白く、美容院に行くことも少ないため、髪の毛は腰の少し上辺りまである。髪の毛は邪魔になるという理由で普段は後頭部で団子状にし、ボールペンで留めている。

 衣服もそれほど持っているわけではない。普段は白衣で過ごしているし、白衣の下は基本的にジーンズとニットだ。唯一視覚的に変化するのはこのニットだけであり、同じメーカーのニットの色違いを日替わりで着るだけである。

 つまり、ヒラタは面倒臭がり屋でファッションにも興味がない、引きこもりドクターなのだ。


 そんなヒラタが意気揚々ときちんとした身だしなみで出かけることに、クロスは驚きを隠せなかった。途中でヒラタはクロスを美容院の前に立たせ、憶することもなく中に入った。約一時間後、店から出てきたのはショートカットになったヒラタだった。


「ふむ。どうかな、クロス。似合っているか?」

「…………ヒラタ」


 綺麗である。久しぶりに笑うヒラタを見て、クロスは顔を逸らす。照れた顔を見せないように。


「何だクロス。見惚れたか?」


 ヒラタもクロスの様子を見て、小さく笑った。

 そんな間にも赤沼の命の灯は小さくなっていく。重症の赤沼を置いて食事に行くなど普通は考えもしない。今もなお、赤沼の目は覚めない。少し困るが、最悪死んでもらっても構わないと思っている。

 正直ヒラタにとってそんなことはどうでもいいのだ。クロスと共に復讐を果たしたことを喜ぶ方が大事だった。


 フレンチを堪能した後、二人は診療所に帰る。赤沼の様子を一瞥し、生きていることを確認した。そこでヒラタは我に返った。


 掃除をするのを忘れていたのだ。血は乾き始めており、これから掃除をする場合、かなり手間がかかる。時刻も11時を回っている。


「まあ、いいか」


 その日は血まみれの部屋のことは忘れて、寝ることにした。




 クロスが同じ場所を何度も拭いている。血が固まってこびりついているからである。シャウカステン――レントゲン写真やMRIフィルムを見る際などに使うディスプレイ機器――には、書道家の見事な払いのように血がいであった。


 バケツは赤黒く染まっている。雑巾をゆすぐために入れた雑巾が逆に赤く変色するほどだ。

 何度も水を入れ替えなくてはいけないせいで、先ほどからクロスが流し台まで何回も往復している。


 クロスが血の拭き掃除で行ったり来たりしているのに対し、終始ヒラタは資料や器具に血がかかっていないかの点検をしていた。

 ヒラタはそもそも掃除をする気は全くない。面倒臭いから。汚れるから。疲れるから。


 二人が作業を進めていると、扉がノックされた。


「あ、あの……ヒラタさん?」


 制服を着た女子が顔を覗かせた。

 ハートの刺繍が入ったピンク色のハンカチを持っているであろうその少女は、数日前にここを訪れた浅井涼花である。


「浅井さんか。すまないね。今散らかっているんだよ」

「え? ……ひぃ――っ!」


 涼花は血が飛散している部屋を見て、生理的に悲鳴を上げてしまうが、直ぐに声を飲み込む。


「奥の診察台の上に爺さんが転がっているから、それ好きにしていいよ」

「奥の、お、爺さん?」

「いや、君に出す予定の処方箋はあるけど、どうにもこれを処方できるような『薬局』が見つからなくてね。海外まで行けばあるんだろうけど、浅井さんは高校生だし難しそうだろ?」とヒラタは涼花に同意を求める。


「……あ、はい」

「だから困っていたんだけど、丁度手ごろなのが入ってね。君にいいと思って呼んだんだ。向こうの方に置いてあるから、案内してあげるよ」


 ヒラタが奥の方に涼花を誘う。診察室は壁も床も白である――今は赤沼の血で所々汚れていている――が、ヒラタが手招きする奥の扉の中からは光すらも差し込んでこない。

 一介の少女であればヒラタの後をついていくのにも勇気がいるに違いない。もちろん涼花も一瞬考慮し戸惑ったが、好奇心がまさった。


「えっと。クロスさん、でしたっけ?」


 血溜まりには慣れたようで、汚れを避けながら近づいて拭き掃除をしているクロスに声をかける。


「…………」


 クロスは手を止めると、会釈した。


「お、お疲れ様です。頑張ってくださいね」


 クロスは不器用に笑みを浮かべると拭き掃除の方が大事なのか、特にそれ以上反応することもなく自分の作業に従事した。涼花も自分にそこまで興味がないことを悟ると、ヒラタの後に付いていった。


 赤沼の身体が置いてある部屋に涼花を連れ込むと、暫くヒラタの説明が続く。長く楽しむための死なない程度にいたぶる方法や、人が死なない程度に痛めつける方法を丁寧に涼花に教示する。


「どうしてすぐに潰しちゃいけないんですか?」

「こういう状態の人間を用意するのも楽じゃないんだ。次にいつプチっとできるやつが現れるかわからないだろ? それまで正気で待てるか?」

「それは……でも……我慢ぐらいはできますよ」

「もっと高揚感がある人間をヤりたいというのは理解しているつもりだ。だけど、人間をバラバラにした後に欲求に耐えられるとは思わないよ。私は大丈夫。絶対にヤらないと言って、ヤってきた人間を何人も見たんだ」

「…………そうですね。ヒラタさんが言うんだからそうなんですよね」

「私の言うことに従ってくれれば、悪いようにはならないさ」


 涼花は納得したように頷いた。

 数分後、ヒラタだけが部屋から出てくるとクロスに指示を出す。


「クロス。録音ボタンを押しな。その赤いやつだよ」


 指示通りに録音ボタンを押すが、クロスには何の意図かはわからない。


「ん? サイコパスの独り言にも需要があるんだよ。お前が来る前の患者の『薬』さ。私からすればかなりの変態だな」




 涼花に対してヒラタが期待しているのは拷問官としてである。

 だから、今回の赤沼で試してみて適性を確かめてみることにしたのだ。ヒラタの言うことが聞けるか。適度に痛めつけることができるか。

 本来なら支払わなくてはいけない法外な値段が請求されない場合、つまり金銭よりもずっと価値があるような人物だとヒラタが判断した場合はこの診療所では別の方法をとっている。ヒラタの雑務や臓器提供まで様々な種類がある。


 浅井はいい患者だ。

 とても扱いやすい。

 

 ヒラタは満足げに顎をさすった。

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