吉沢巧
「次」
「あ、はい」
現れたのは壮年の男性。
「座れ」
「どうも」
ドスン、と大きな音をわざと立てるように座る。
「ふむ」
近くで見ると、思った以上にガテン系の人間だったようだ。小麦色に日焼けし、腕や胴回りは太く、着ているTシャツはパンパンに張っていた。
カルテによると、歳は36。身長は187。体重は73。土木業に従事。
「先生。綺麗なお方ですね」
彼の語り口からは優しさ、物腰が低いという印象を受けとれる。
「どうも。で、用件は何だ?」
まあ、ここに受診しに来ている以上、こいつもサイコパス。そんな生やさしくはない男だ。カルテによると、こいつの正体は。
「先生を強姦しに来たんですよ」
男は急に立ち上がると、ヒラタの白衣を掴む。そのまま、柔道の技の一つ、体落としを流れるようにかけると、瞬く間にヒラタを投げ伏せてしまった。
「おいおい、いきなりだな。こんなことされると、お前の症状を治す気が失せるんだが。世間で注目の連続強姦事件の犯人なんだろ」
地面に押さえつけられてもなお、カルテを離すことなく、悠長に男に話しかける。
「ああ、俺のことか。調べはついているんですね。ですが、あなたは本当に俺を治せるのですか?」
「まあ、それが仕事だからな」
ヒラタは自身の置かれている状況がわかっていないのだろうか。大の男に組み伏せられている今、ヒラタの行く末は明白だった。
「どうして、あなたは抵抗しないのですか? 犯す前の女はだいたい泣いて許しを請い、俺にすがる。なんでもしてもいいとさえ言う。だから壊す。メチャクチャにしてやる」
ヒラタは呑気にカルテを眺めている。男の質問も無視して話を進める。
「幼少期に虐待あり。この分だと母親だな。なるほど、世の中の女がすべて母親のように非道だと思っているのか」
「いいえ先生、違いますよ。世の女をすべて母に重ねるんです」
「ふむ」
運良く近くに落ちていたボールペンを片手で取ると、カルテを地面に置き、ヒラタは何やら書いていく。
「母は俺が14の時に死にました。交通事故で勝手に死んだんです。当時の俺は母を殺す計画を立てていた。殺す決意も十分すぎるほどだった。だが、母に、勝手に、死なれた! 逃げられた! 俺の気持ちがわかりますか? 先生」
「分かると言ったら?」
「この手を先生の首にかけて、あなたの顔が青ざめていくのを楽しみながら、その指をゆっくりと閉じていきます」
男ははにかみながら、ヒラタを押さえつける力を徐々に強くしていく。
「だろうな。まあわからんよ、女だからな。溜まりに溜まった殺意の矛先は一般女性に向けているというわけか」
「母にはいつか巡り合うと思うんです。母は死んで、きっと転生したんですよ。だから、今もどこかで生きているんです。そして、俺を待っている。ビクビクして震えながら」
「転生しているなどと、本当に思っているのか?」
「女どもは俺の前で許しを請う! ああ、たまらない! この征服感!」
ヒラタの目にこの患者は重症に映っていた。こんな男を形成するには、想像できないほどに母親から受けた虐待は酷かったのだろう。
「これ以上事件を起こすと、どんなに逃避行が上手でも捕まるぞ。ここで治療を受けるか? 母親の呪縛に囚われ続けるか?」
「そうですねえ。先生、あなたが女でなければよかったのに」
「男だったら良かったか?」
「それでも、殺します。頼まれているんです。あなたを殺すようにって。死体となったあなたを犯すのはさぞ、気持ちがよさそうです」
男はゆっくりとヒラタの首に手をかけようとした。
刹那、ヒラタは叫んだ。
「クロス!」
いつからだろうか、ヒラタに手をかけた男……いや連続強姦魔、吉沢巧の後ろに、これまた巨躯な男が立っていた。クロスと呼ばれた男の体格は吉沢より一回り小さいぐらい。マスクとニット帽、ぼろぼろの黒コートを着ている不気味な男。吉沢を無関心に見下ろすその目は、彼の冷血漢を物語っていた。
ゴツゴツとした両手がしなるように獲物に伸びる。吉沢の首根っこと後頭部を掴むと、野球選手が豪快なスイングをするような速さで、腕を回転させて捩じ切った。
ゴキュッ、と嫌な音を立ててヒラタの上にまたがっていた人物の顔は本来あるべき位置の正反対を向く。
「あぐっっっッ!」
吉沢の断末魔。以後沈黙。
その凄まじい形相と生気の無くなった目。そしてヒラタは自身に垂れかかる意思なき腕をとり、脈拍が無いことを調べると吉沢の死を確信した。
「殺しの依頼か。まさかアイツの差し金ではないだろうし……狂人どもの事情に詳しい弊害だな」
「ヒラタ……」
クロスと呼ばれた男は吉沢の足を掴んで吊るすように持ち上げた。
「クロス。その死体は使うから、冷凍室に入れておいてくれ」
「…………」
無言でクロスは吉沢を引きずっていく。
ハッと思い出したかのように、クロスの持っている『かつて吉沢だったもの』に、にやけながら声を投げかけた。
「もう処方箋は出しておいたよ」
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