第5話

(三)


「今日はまさか逃げだしゃしないだろうな」


 作次は笑いながら言った。

 えぇ、大丈夫よ、と言ったが、おてつは自分の笑いがこわばっているのを感じていた。


 そういう作次をみていると、おてつはこの人のことを何も知らない、という気がした。

 おてつは伊作の姿を見た気がした。同じ裏店のもの哀しげなやもめの姿が映っている。そういう形で作次と見比べたことは一度もない。

 慌てて、おてつは伊作の姿を眼の裏から消した。


「どうだい、一杯やらないか」


 作次が盃をさしてきたが、おてつは頑なに俯いたままでいた。

 そうしていると、急に強い不安に包まれるのを感じた。


「あんたは飲まないんだな」


 作次は言った。箸を割ったが、おてつは出ている皿に手をつける気にはならない。


 そしておてつは、いつの間にか暗い道を急いだ。裏店の露地に入ったとき、おてつはおけいの泣き声を聞いた。

 伊作の家は、まだ灯が灯っている。


 しばらく立ち止まって、そっと戸を開いて土間に入った。


「こんばんは」


 と声をかけたとき、おてつは心が決まったと思った。

 障子の中には、おてつが面倒見なければ、誰もみてくれる者のない父親と子供がいる。

 この方がよかったのだ、と思った。


 障子を開けた伊作は、びっくりしたようにおてつの顔をみて、しばらく黙ったが、「これはどうも」と言った。


「上がっていいかしら。」


 とおてつは言った。伊作は、「へい」と口籠もったが、

「こんな遅くに家に来ちゃ、家の人に怒られませんか」と言った。心配そうな声だった。


 おてつはおけいのおしめを開いてみた。

 びっしょり濡れて、股が赤くなっている。


「ほら、だめでしょ」


 浮き浮きした口調で、おてつは言った。


「おしめを取り替えないと、すぐこうなるんですから。」


――この子の面倒を見て、伊作さんも身ぎれいにしてあげるのだ。


「伊作さん、あたしをおかみさんにしてくれません?」


「そんな冗談はやめてください。」


「どうして冗談なの?あたしは、本気よ」


 家の者たちが怒るだろうな、と思った。

 その時は、ここに逃げてくればいい。おてつは自分の幸福に自信があった。 

 作次のことは、ひどく遠い昔のことのように思えた。


 おてつは片手でおけいを胸に抱きながら、もう片方の手を伊作に差し伸べた。


「おかみさんにするって、言って」


 伊作はそれでも長い間おてつの顔を見つめたが、おてつがくたびれて手を下ろしたくなったとき、ようやく伊作が手を握った。


 

 伊作の手に少しばかり力が加わるのを感じながら、おてつは思った。



 ・・・本当に、意気地なしなんだから。



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おてつ @kounosu01111

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