第4話
(二)
湯屋から帰ってくる途中で、おけいを抱いた伊作にあった。
「こんばんは」
おてつは声をかけたが、伊作はうなだれたまま通り過ぎた。
おけいが気づいて、「うま、うま」と言った。
―変な人。
おてつは首をひねって見送ると、裏店の方に向かった。月が出ている。
それに隣町の細川能登守下屋敷で出している辻番所の高張提灯の明かりがあった。
顔がわからないはずはなかった。
げんにおけいは気づいたじゃないの、と思った。
おてつは実家に帰ると、長作と兄の藤太郎が晩酌をしていた。
「おい、おてつ。」
藤太郎が、自分の部屋には入るおてつに声をかけた。
「こないだ作次が晩飯食おうていうのを断ったんだって?」
「だって、遅くなると思ったから。」
「おや、あたしにはそう言わなかったじゃないか」
と、台所から入ってきたお勝が行った。
「何でもいいが、作次は何かご機嫌斜めだったぜ。楽しみにしていたらしいんだ」
「喧嘩などやめておくれ。せっかくいい縁談がまとまったんだから。」
「喧嘩なんてしていないわ」
とおてつは言ったが、別のことが気になって上の空だった。
ひどく元気がなさそうだった伊作の姿が眼に残っている。伊作などどうでもいいが、「うま、うま」と呼びかけたおけいのことが気になって上の空だった。
伊作は、泉州岸和田の殿様、岡部内善正下屋敷と土屋家の塀の間を入っていったのである。
おてつは、急いで袋小路のようなその道を走った。
道は釣の手に曲がっており、角に辻番所があって、塀に挟まれた道を提灯が照らしていた。
そこを抜けると、川端に出た。小名木川の流れに、月明かりが砕けている。
・・・あら、いた。
おてつは立ち止まった。新高橋の手前に、人影がうずくまっている。
紛れもなく伊作だった。「おー、おー」と喋っているおけいの声が聞こえる。伊作は懐に子供を抱えたまま、落ち込むほど川っぷちに身体を乗り出して、じっと蹲っている。
人通りは全くなく、微かな水温と、おけいの機嫌のいい声だけが聞こえる。時々おけいが元気よくふんぞりかえり、白い足裏が踊った。
そのたびに伊作は抱え直すが、顔は上げないで川を眺めているだけである。
岡部家下屋敷の堀離れによりかかったまま、おてつは黙って親子を眺めた。
・・・ああして、何を考えているんだろう。
と、思った。
おけいをおてつが預かったので、伊作は勤めに出られるようになったのだが、それで楽になったというわけではない。
寝るまでに、もう一度乳もらいがあるし、米を研いだり、洗濯もしなくてはならない。
伊作が、月明かりを頼りに、裏店の井戸端でこそこそ洗い物をしているのを見たことがある。
夜中に赤ん坊が泣き出せば、起きてあやさなければならないだろうし、男は疲れ切っているのだ、と思った。
・・・死んだかみさんのことでも思っているのかしら。
でもそれを思うくらいなら、少し身なりに気を配って、代わりの人をもらうことでも考えたほうがいいのに、とおてつは思う。
十日ほど前、お増の亭主の七蔵が、後添えでいいという女性を連れてきて、伊作の家で見合いの真似事をさせた。
だがやつれた顔に無精ひげを生やしたままで、着るものはすっかり垢じみ、聞かれることにろくに返事もできない伊作に、相手の女は人目見ただけで愛想を尽かしたらしく、すぐ断りの返事がきたとお増に聞いている。
不意に裾を乱しておてつは走った。立ち上がった伊作が、おけいを掴んで腕を突き出し、川に投げ込もうとしているように見えたのである。
何もしらないおけいがけらけら笑う声がした。
ひったくるようにおけいを抱き取ると、おてつはいきなり伊作の頬を張った。
「なんてことをするの、あんた」
おてつは息を弾ませていった。怒りで眼が眩んだようになっていた。
「あんた、この子を川に捨てようとしたね。あたしは見ていたんだ」
おてつは激しく言い募った。返事によっては、もうひとつ頬を張りかねない勢いだった。
「この子だけど・・・」
伊作がぼんやりした口調で言った。
「死なせるつもりじゃなかった。俺も一緒に死ぬつもりだった。」
「へん」
おてつは嘲笑った。
猛々しい気持ちになっていた。
「こんな川に落っこったところで、大人は死にきれませんよ。馬鹿馬鹿しい。
めそめそと死んだおかみさんのことを考えているらしいけど、あんた、おかみさんがどんな人だったか、知ってるんですか?」
伊作が細い眼を見開いておてつを見た。
「男がいたんですよ。あの人には。」
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