第3話
おてつが、許嫁の作次と小名木川の橋の袂まで来てしまった時である。
「悪いけど。」
おてつは言った。
「あたし、今日はこれで帰るわ。」
伊作は驚いたように言った。
「子供が気になるの。」
「子供?」
一瞬、作次の顔に険しい色が走ったようだった。
「子供ったって、あんたの子供じゃないだろ」
作次にしては、珍しく皮肉な口調だった。
不機嫌な顔になっている。
どこかでおけいの泣き声が、耳の奥で泣き続けている。
「おっかさんが大変なんです。もうそろそろ夕方だし。すみません。」
「謝ることはないさ。」
作次は、憮然とした声で言った。
それからきっぱりと決心したように、
「じゃ、またな。俺一人で行ってくる。」
取り返しがつかないことをしたような気がしていた。
作次を怒らせてしまったことが、気分を重くしている。
次作は、夕暮れから夜のひとときを、おてつと二人だけで過ごそうとしたのだ。
出台茶屋というところに行くつもりだったかもしれない。池之端から湯島にかけてそれらの店が多かった。
作次の行動はおてつにはわからなかった。だが、次作が望むなら、そうした方がよかったのかもしれない。
戸を開けると、おけいの泣き声と、お勝の大声が耳をうった。
「おーら、おら、おら。泣くんじゃないよ。」
「すみません、おっかさん。」
おてつは家に駆け上がった。台所から、赤ん坊を背中に括り付けたお勝が、怪訝そうな顔で振り向いた。
「おや、どうしたの?」
「帰って来ちゃった」
「帰ってきたって、作次さんはどうしたんだい。」
「うん、途中で別れちゃったの」
おてつは急いで母親の背中から、赤ん坊を引き剥がした。
おてつの顔を見ると、「うまうま」と言った。
「お乳、まだなんでしょ?」
「ちゃんともらってきたよ。変な子だよ、お前に抱かれるとけろりとしているんじゃないか。」
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