第16話 浴堂にて

 夜市が開かれている区画は遠目からでも明るく、夜半に完全な通行禁止となるまで酒や食事、遊びにと人々が繰り出し、立ち並ぶ酒家も屋台も大いに繁盛している。


「どこに消えやがった、あの野郎ども」

 涼国では、夏場は蒸し暑くなることもあり銭湯業が盛んであった。南方以外では他人に裸形をさらすことをあまり好まない国も多い中で、この習俗は異色ではある。


 さて、頭から湯気を立てた男たちが浴堂よくどうに乱入すると、洗い場や湯舟に入っていた客たちがぎょっとして振り向く。海綿で身体をこすっていた老人、まげをほどいて洗っている若者たち、湯舟の縁に腰かけ談笑していた太っちょと痩せっぽちの組み合わせ……。


「こっちですよー、賊はあちらに逃げて行きました……」

「おお!」

 誰かが呼び教える声につられ、いかつい面々が足音も荒く出て行ってしまった後、うつむいて髪を洗っていた二人の男は、すだれのごとく顔にかかっていた髪を払いのけた。


「上手くようですね」

「危ないところだったな、ふう……」

 生まれた姿もそのままに仁王立ちとなり、脱衣場のほうを睨みつけていた桂舜は、星衛が自分に背を向けているのに気が付いた。

「どうした? 何かあったのか?」

 背中越しに声をかけるが、星衛は腰を落とし、肩をいからせながらもこちらを振り返ろうとはしない。


「その……お願いですから、もう少し隠すなり何なりしていただけませんか。他の客も若君を見ておりますゆえ、何と申しますか、連れとして恥ずかしゅうございます」

「? 何故だ? 同じ男なのに隠すも恥ずかしいもあるか」

 いくつもの視線が桂舜の肌を突き刺しているが、常日頃から衆人環視で生活していた彼は気づかず、相手の言うことも理解できない。

 ただ、星衛の背に残る幾つもの鞭の傷を目の当たりにし、桂舜は胸がふさがる思いがした。

「ああ、こんなに跡がくっきり残っていたのか。私のために、そなたが……済まない」

 申しわけなさに思わず傷を撫でてしまい、相手の背がびくりと波打って震える。周囲の眼もますます胡散臭げになっていったが、公子はそれにも全く気が付かない。

「若君、あの、見られておりますので……」

「? それが何だ、変な奴」


 呟いて腰を下ろそうとした桂舜の後頭部に、

――がこん!

 瞬速で湯桶が打ち下ろされる。振り向いた星衛も間に合わぬほどの素早さだった。

「何を……!」

 打たれた頭を押さえ、飛びすさった公子は、自分に攻撃を仕掛けてきた者を一瞥して眼を剥いた。そこにいたのは、あばらも浮いてやせ細った老人だったからである。


「あんた、何だね。髷を解いて洗うなら、髪洗いの料金を先に払わなくっちゃ駄目じゃないか、さっきわしが見ていたが、払っておらなんだろう? 入ってくるなり服を脱ぎ捨て湯舟にどぼん! それに湯のしぶきを盛大に立てて洗うから周りに迷惑じゃ。お前はいったい、親に風呂の入り方も習っておらんのか? それとも生まれて初めて湯に入るのか?」


 星衛が何かを言おうとしたが、口をつぐんだ。桂舜がぽかんと相手を見つめ、だがすぐに「すまない」と頭をさげたからである。

「さあ、さっさと上がり、髪洗いの金を払ってくるがいい」


     *****


 桂舜は微行のためにいつも銅銭やいくばくかの銀を携行していたが、さすがに今日はこのようなことを想定していなかったために持ち合わせが乏しく、料金を払う段になって携行の小袋を逆さまにした。そこから、ばら銭とともに小さな木札が転がり出る。


「おや……」

 床に落ちそうになった札を手にすくい上げたのは、料金の出納すいとうをする小柄な男だった。


「この質札はうちの親族がやっている店ですよ。何か預けていなさるか?」

――質札? 明楽の乳母が持たせてくれたこの札が?


 思いもかけぬ言葉だったが、桂舜は何気ない風を装って話の帳尻を合わせにかかった。

「ああ、叔母から質草を出してきて欲しいと頼まれてるんで、明日か明後日にでも……」

 それを聞いた男は意外な言葉を口にした。


「もしおあしのお仕度ができているなら、これからでもまだ間に合いますよ」

「今から? もう夜も遅いだろう?」

星衛が口を挟むが、出納係は一笑した。

「ああ、夜市の日に限ってあの店は遅くまで開けているのですよ。うちの名を出せばきっと大丈夫です」

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