特別篇 『或る新刊の発売日』
ちょっと遅めにとった昼休憩にて。
「あー、……なるほど。今日、新刊が出るンすか。おめでとうございます」
俺は、かつて親交が深かった作家から電話を受けている。
「なるほどなるほど。売れりゃあいいっすね。……うん、うん。まあ、そうでないと続きが……はいはい。わかります。そもそも食ってけてないってね。はあはあ、なるほど。網戸が。台風で。修理費が。了解です。じゃ、仕事帰りにでも本屋に寄らせてもらいますよ」
言いながら、内心ちょっと苦笑していた。
――もう、廻谷浩介は編集者でも何でもないんだがな。
それでもいい、と、その作家は食い下がる。たった一冊買ってもらうだけで、ずいぶんな労力をかけるものだ。
まあ、それだけ業界全体の景気が悪い、ということかもしれない。
挨拶と近況報告もそこそこに、俺は通話を切る。
「はぁ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~」
深い深い、マリアナ海溝のように深い嘆息。
なんともかんとも。
どうにも最近、後ろ向きな話題が多い気がする。
先ほど連絡があったのは、わりと純文っぽいミステリーを書く作家で、俺としては間違いなく、いずれ世間に認められるであろう才能の持ち主なのだが、――。
『正直、ぼくもそろそろ、ヤングアダルト系に転向しようかなって思ってるんすよ。ほら、あっちの方が簡単に書けそうだし。こっちの業界はマニアがうるさいしで……』
気持ちはわかる。
たまに本屋とかのぞくと、なんとなーく景気よく見えるからなあ。ラノベって。
とはいえそれは、隣の芝が青く見えているだけだ。数が多く出ているということは、それだけ競合相手が多いってことでもある。そういうの、なんていうんだっけ。レッドオーシャンだっけ。たぶんそんなん。
向こうも向こうで、きっとあれこれ苦労しているのだろう。
「異世界もの、……ねえ」
元ミステリー系雑誌の編集者としては、そっち側の業界には明るくない。ってかそもそも、あんまり興味もない。
だが、異世界に憧れる気持ちはよくわかる。この厄介ごとばかりの日常から抜け出して、ドラクエとかFFっぽい価値観の世界へ飛び出していきたいってのはたぶん、わりと普遍的な欲望だと思う。
俺は、職場近くの自販機で缶コーヒーを買って、一息吐くことにした。
昨日から、ずっと心に引っかかっていることがある。
俺にとって唯一無二の親友。……坂本京太郎の一件だ。
昨晩、野郎が病院の一室で放った台詞を思い出す。
――実は私、この一ヶ月間、こことは異なる世界で仕事をしていたんだ。
と。
『人間失格』の主人公役を演らせたらピッタリ、って感じの、蒼白い顔で。
最初、俺は、「ああ、また始まったか」と思った。
京太郎は昔から、わりとそういう冗談を口にするタイプの人間だったのである。
だが、話を聞いていくうちに、どうもそうじゃないことがわかった。
妙な感覚だった。まるで野郎は、心の底から異世界が存在しているみたいに語るのである。
いつしか俺も、野郎の話に呑み込まれていた。
友人の頭が完璧にイカレちまったという実感よりも、野郎の話す”物語”の続きが気になっちまったんだ。
編集者の性っていうのかね? もうとっくに辞めてるんだけども。
「ふういぬむ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~」
再び、深い深い嘆息、ワケワカラン言語Ver。
なんとなく、スマホをのぞき込む。
『アルバム』機能をタップして、昨晩撮影した、京太郎の写真をチェック。
――ええと……この、渋谷のホームレスから買ったような革の腕輪が、”バクの腕輪”なんだっけ?
それと、百均で買った玩具みたいなのが”命の指輪”。
足にくっついてるレッグバンドみたいなのは”フリー・ジャンパー”。
あと、たまたまポケットに入れっぱなしにしていたという”焔の手袋”……だっけか。これが一番出来がひどい。その辺で拾ってきた軍手みたいな、ただの布の手袋だ。
奴が異世界で仕事をしているという証拠は、この四つだけ。
どれも、自主制作映画の小道具みたいなもので、まるで決定的ではなかった。
俺は苦い顔を作って、写真を閉じる。
だが。
この期に及んでなお、心の底では京太郎を疑っていない自分がいた。
なんだかんだ、俺もまだ若いのかもしれない。
この世のどこかには世界征服をもくろむ秘密結社が存在していて、正義のヒーローが巨悪と戦っている。……そんな、子供じみた空想を信じたいのだ。
まあ。
とはいえ。
――今週、京太郎を、……クドリャフカ、いや、工藤と会わせるのは見送ったほうがいいかもなぁ。
一応、奴とは来月最初の土曜日に会う約束をしてる。
そこで、かつてのお似合いカップルが再会、って筋書きだったんだが。
正気の保障もできてない男を会わせるのもな。
――しゃーない。
適当に誤魔化して、あの一件は保留ってことにするか。
二人のキューピット役は、またいずれ買って出ることにしよう。
京太郎は残念がるだろうがな。
あいつ間違いなく、工藤に未練たらたらだし。
それとも、あるいは。
案外、奴の”仕事先”で、素敵な相手と巡り会ったりしてな。
――まあ、そんなにうまくはいかないか。
ぐびりと珈琲を飲み干して、立ち上がる。あれこれ考え込んでいたせいか、休憩時間を大幅にオーバーしていた。上司にどやされるかもしれない。
「くっそ。どーせなら俺も行きてえな。……その、……なんだっけ」
たしか、奴の担当している世界の名前があった気が。
WORLD……0、1……。ええと。
まあいいか。
長く京太郎と付き合っていけば、そのうち聞く機会もあるだろう。
なんて。
結構俺も、あいつに毒されてるのかもしれん。
でも、ちょっとだけ思うんだ。
この世には、まだ見ぬ不思議なことがたくさん転がってるのかもって。
そう考えた方がきっと、……人生、面白いじゃないか。
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