その後

第160話 新たな一日

 昨夜はたらふくラーメンを食ったものだから、次の日の朝は食欲が湧かなかった。

 京太郎は、希少糖入の温かい紅茶にヨーグルトを少し、という微妙に意識高い系の朝食を摂って、さっさと用意を済ませる。


――みんな心配してるかもしれないな。


 夜のうちにいったん顔出して、安心させてやるべきだったか。

 いや、子供じゃあるまいし、そこまで面倒見てやらなくても大丈夫か。

 そんなことを思いながら、会社を目指す。

 いつも通り、ビルの古びた階段を昇って、掃除の行き届いた廊下を進む。

 会社の鍵は、――どうやら空いていた。

 内心、ウェパルがいてくれるのかと期待する、……が、中にいたのは、昨日も見かけた、黒髪直毛の小柄な黒人女性だ。

 京太郎は今までの人生で黒人と話したことはないが、異世界紀行の経験から、もはやその程度で緊張するようなタマではなくなっている。


「おはようございますっ」


 昨日のオタク・Tシャツの印象を挽回しようと、元気よく挨拶。

 すると女性は、「うきゃきゃきゃきゃ」と笑った。京太郎は一瞬、ケニア北部に伝わる不可思議なダンスが始まるのかと思う。それだけ特徴的な笑い方だった。


「おはよう、京太郎ちゃん。昨日の今日で、よく来たわね!」

「ええ、まあ。……向こう側に残してきた連中のフォローもしなくてはならないので」

「偉いわ。ほっぺにチューしてあげようかしら?」

「それは、――その、また今度の機会で」


 ちょっとだけドギマギする。この新しい同僚に対する距離感が掴めない。

 ただ、なかなか社交的な人だとはわかった。


「私はグレモリー。よろしくね」

「グレモリーさん……ですか」


 やっぱり悪魔の名前なんだな。


「自分は、坂本京太郎です」

「うん。ちゃんと自己紹介できて、偉い偉い♪」


 そして彼女は、ちょっと背伸びをして、京太郎の頭をナデナデした。


「え……っ、あ、どうも……」


 三十過ぎの男が、十代にも見える女の子によしよしされる絵面である。

 京太郎は気が狂いそうになった。このようなプレイは恐らく、一時間いくらかのチャージ料金を払わなければ許されないサービスだと思ったのだ。


 一瞬、眉間を揉んで、


「では、そろそろ……」

「もう行っちゃうの? ――まだ話したいことがあるのになあ」

「しかし、急ぎますし」

「えーっと。ちょっと待ってね。……なんか通達事項があったよーな気がするから」


 そして彼女は、メイド喫茶の店員さんみたいにオーバーな動作で「うむむむむ……」と思い悩んで、


「……んーと。……あ、そうそう。京太郎ちゃん、今日から正式に”WORLD0147”の担当者になったから。……補佐役から昇格、ってところね」

「ああ、了解っす」


 ウェパルの”補佐”をした覚えはないが。


「一応、お給料もアップアップ! の予定らしぃから、期待しててね」

「えっ。本当ですか?」

「マジよ、マジ! 詳細が決まったらまた連絡するからね」


 二回目の給料からいきなり昇給とか。

 うまいこと時代の流れに乗ったベンチャー系企業のような……。

 だが、思ったほど気持ちは浮き立たない。

 京太郎は、ウェパルがいた席を少し見て、


「彼女は、戻ってくるでしょうか」

「――戻ってきて欲しい?」

「ええ、まあ」

「聞いたよ。彼女のこと、……好きなんだって?」


 顔をしかめて、視線を逸らす。小学生時代の合宿の夜、好きな子の名前を発表した次の日に学校の先生にまでその情報が出回っていた時のことを思い出したのだ。


「私ね、あのね、――その恋、応援しちゃう」

「あー、いや、……そういうお節介めいたものはその、結構なので……」

「うきゃきゃきゃきゃ」


 また、彼女は不思議な笑みを浮かべた。


「でも大丈夫。彼女とは近いうち、また会えるよ」

「本当……ですか?」


 ソロモンの話と違うな。


「うん。昨日LINEで話したら、そんな風なこと言ってたし」

「でも、――彼女、わりととんでもないことをやらかしたんじゃあ」

「向こう側で何しても、ぶっちゃけ裁く人なんて誰もいないからねぇ」

「それは……」


 確かにウェパルも、そのようなことを言っていた気がする。

 基本的に、向こう側での自分たちの行動は自由だ。

 ただ、世界を問題なく運営することさえできていれば。

 そう考えると、これほど楽な仕事はない、が。


「それに、私たちが管理してる世界って基本、ゴミ捨て場から拾ってきたジャンク品みたいなものだからさ。たぶん本当のところ、どうなっても、もともとゴミだし……みたいな感じなんだと思うな」

「それは、――私にはどうも、認められません。……廃棄される予定の世界だからって、そこには何億って人が住んでるんでしょう」

「そうだよ?」


 「だから何?」とでも言わんばかりだ。京太郎にはそれが空恐ろしい。


「だったら……そう無下に扱うわけにもいかないのでは」

「でもあなただって、快楽のため射精するたび、何億もの精子を無駄に死なせてるじゃない」

「え? ……えっと……」


 言葉に詰まる。とつぜん真顔で下ネタを繰り出すのは、この会社のしきたりか何かなのだろうか。


「まあ、……それとこれとは、アレってことで」

「ヘンテコな生き物だよね、人間って」


 からかわれているのだろうか?

 グレモリーは笑みを浮かべて、こちらを見上げるようにしている。


「でも、――これで、少しは希望が持てたでしょう? ウェパルとのこと」

「ええと。……まあ」


 しどろもどろ気味に応えて、京太郎はウェパルが閉まっていた鍵入れを探し、――その机の中が空っぽになっていることに気付いた。

 間髪入れず、”WORLD0147”の鍵が差し出される。


「ほい」

「……どうも」

「これまで通り、基本的に残業は禁止だからね。もしどうしても残業したくなったら、いったんこっちに戻ってきてから連絡よろしく」

「了解です」


 そして、机の上の『ルールブック』を手に、今日も一日が始まる。

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