第138話 良き夢小説の条件
フィクションの世界におけるドキドキハラハラが、その受信者にある種の悪影響を与える、という考え方がある。
これは”夢小説”と呼ばれる娯楽が一般に普及し始めたころから提唱されている危険性であり、実を言うとこの世界においてそれは、ほとんど科学的に証明されていた。
まず、良き”夢”は他者に良い影響に与えることははっきりしている。良き”夢小説”の効能により多くの犯罪者が改心している実例があるためだ。これをある種の洗脳であると語るひねくれ者もいるが、多くの犯罪者は自主的に”夢小説”によるセラピーを受けることを望んでいるためあまり説得力はない。
そして、良い”夢”が良い影響を与えると言うことはもちろん、悪しき”夢”が悪しき影響を及ぼすのは極めて必然的な考え方である。
京太郎たちがそこへ向かうのはかなり先の話になるが、”中央府”と呼ばれる国のファーストエンペラーは、この”夢小説”に関する強烈な弾圧を行ったことで有名だ。
彼が行った弾圧により、多くの”夢小説”が焼かれ、”夢小説家”の首が撥ねられた。もちろん、跳ねられた小説家たちの魂魄を蘇らせるような慈悲は与えられずに、である。
なお、ファーストエンペラーが規定した、良き”夢小説”の条件とは、以下のようなものである。
① ”夢小説”は、この世の中が清く正しく美しく、神の名において何の問題もなく運営されていることを証明するものでなくてはならない。
② ”夢小説”の主人公は、一切傷つかない。苦しまない哀しまない敗北もしない。なぜなら争いごとがある世界は不完全なものであり、そうなると①と矛盾するためだ。
③ ”夢小説”の悪役は、(現実に存在するそれと違って)極めて明白な悪でなければならない。彼らに感情移入の余地はいっさいなく、ただ害悪を周囲に振りまく装置として登場する。
④ ただし、悪役の存在は①と矛盾することがあるため、彼らの正体は皆、不思議で素敵な異世界の妖精さんだということにする。
なお、そうした”夢小説”に対する弾圧を総じて、”フンショ・コウジュ”という。
”中央府”のファーストエンペラーが提示した決まりに従って、この物語においても一つ、ストーリー中に存在するストレスの排除を実行してみようと思う。
いま、侵入者を撃退すべく立ち塞がっている”ロト”は、まもなく敗北するだろう。
この後、坂本京太郎は、特に苦戦することもなく勝つ。
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ブゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ………――ン。
ブゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ………――ン。
『モーモーモーモーモーモー』
ブゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ………――ン。
ブゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ………――ン。
『モーモーモーモーモーモーモーモーモー』
何か、機械が駆動するような音が聞こえていた。
まるで、壊れかけの冷蔵庫が悲鳴を上げているような。
事前に聞かされたソフィアの解説によると、今の時間は”水牛”が接続されているらしい。どこかから聞こえてくる『モーモー』はそれだろう。
街に接続されているはずの彼らを目の当たりにするためには、目の前にいる怪人を始末する必要があった。
辺りを見回す。
天井、床、壁と、妙な紋様がびっちり刻まれた、妙な建物であった。
見たところ築数十年は経っているだろうか。
古びてはいるが、それでもあと百年は保ちそうである。
薄暗く、どこか湿気ているその空気の中、その騎士はまるで永遠にそうしているつもりであるかのように立っていた。
その見た目は、――他の死霊の騎士より一回り大きい程度で、そうは変わらない。
しかしその胸元に何故か『不純異性交遊』と大きく書き殴られている。何者かに悪戯書きでもされたのかもしれない。だがその者が放つオーラには、そうした軽率な真似を許さない何かがあった。
――呪術、か。
以前、ぱらぱらと『ルールブック』をめくっていたときに一度、目にしたことがある気がする。
だが正直、びっくりするほど記憶になかった。当時の京太郎にとってその項目は、百万個ある危険なもののうちのたった一つに過ぎなかったためだ。
死霊の騎士は、まずその腰に装着してあった諸刃の大剣を引き抜き、
『我が、――』
「ウリャー!」
先制攻撃を繰り出したのはサイモンである。どうでもいいからコイツをさっさとぶっ倒せば解決するんだろうという、やけっぱちな感じがあった。
だがその一撃は、京太郎の精神には大きな助けとなっている。現代日本に生きる坂本京太郎にとって、戦端を開くという行為そのものに妙なプレッシャーを感じていたのだ。
ようやく、はっきりと覚悟が固まる。
一度始まってしまえば、もはややり合うほかにないだろう。
これは、――自発的に相手を傷つけるという意味では、京太郎にとって初陣と言えた。
彼はこれまで一度たりとも、殴ったり蹴ったりして相手を叩きのめしたことがない。たいていの場合はステラに任せたり、そうでなくとも『ルールブック』の力で相手を無力化することがほとんどであったためだ。
自分でも少し意外だったのは、戦いにおいて、自分が傷つくこと、それそのものはあまり怖くないということ。
それよりむしろ、自身の暴力によって取り返しの付かない何かが起こってしまうことの方がよほど怖い。
とはいえサイモンの一撃は、ロトの身体に傷一つつけられていなかった。
「まだまだァッ!」
白い肌の青年は、続けざまに金色のガントレットを振るう。
その頑強な胸元にワンツー、ストレート、裏拳、苦し紛れに一発蹴りをいれてみたり。”無敵”ルールが働いていなかったら間違いなくサイモンの方が怪我していたであろう鈍い音がする。
「ちょ……なんだ、こいつ……堅ッてぇ!」
ロトは仁王立ちに立ったまま、彫像のようにこちらを見下ろしていた。まるでスーパーマンに立ち向かっていく無力なチンピラの絵面だ。
『我、神の加護受けし者なりて』
その言葉はどこか、勝ち誇っているかのようだ。
「コンにゃろ……そのお面みてーな顔、ぶっ飛ばしてやるッ!」
「落ち着け、サイモン」
――”お面みたいな”じゃない。実際にお面だ。
どうも、この新しい友人にとって、戦いというものは基本的に「ぶん殴ってわからせる」以外の何ものでもないらしい。いくら言って聞かせても、サイモンはただひたすらロトの顔面にガントレットを叩き込み続けるのだった。
「コン、の、――!」
ガツ、ガツ、ガツ、と、金属の反響音が聞こえてくる。フルフェイスの兜で覆われているその鎧の中身も、やはりがらんどうらしい。
その間、坂本京太郎が考えなければならなかったのは、どう戦えばやりすぎないかということ。
こちらが傷つくのは、あんまり怖くはない。
だが、こちらの攻撃力が高すぎて、建物の機能を崩壊させてしまっては元も子もない。
坂本京太郎は目を細めて、嘆息する。
しばらく悩んで、――悩んで悩んで。
――たぶん、これなら……。
数ある選択肢の中から選んだのは”命の指輪”であった。
「――命よ。漲る力をその身に宿せ」
そして彼は、自分の指に嵌まった指輪を噛んだ。
読者のドキドキハラハラを避けるため、もう一度だけ宣言しておくのが無難だろう。
坂本京太郎は、一切苦戦することなく勝つ。
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