第137話 見てはならないもの

 怠惰な娘がいた。


「んー、くぁ、ふあぁぁぁぁぁ……」


 怠惰で、引きこもりがちな娘が。

 彼女は今、この世界で最も安全な場所の、半年は取り替えていないシーツの中でうずくまっている。

 その亜麻色の髪はぼさぼさで、目の下には小さな隈ができていた。さいきん趣味の読書が捗りすぎていて、寝不足気味なのだ。

 その口元にはペッタリとよだれの跡。彼女は脊髄反射的に、それを服の袖でごしごし拭った。

 総じて、まともな神経の女子であればおよそ他人には見せたくない格好であろう。とはいえ彼女は、わりと人前でもこのような姿を露わにする。


 もう一つ、彼女の個性を象徴する、大きな特徴があった。

 その胸にくっついた、巨大な肉のかたまりである。

 彼女を目にした者の多くは、全く同じ感想を抱くであろう。


――デカけりゃいいってもんじゃない。


 と。

 それもそのはず、彼女のバストサイズは148センチほど。重さにして8.5キログラム。二つ合わせて五歳児と同等の重さである。これは、この”WORLD0147”に存在する全ての”人族”比べても、最も巨大な乳であった。


 彼女の名は、ルーネ・アーキテクト。こう見えて由緒ある家系の者である。

 だが彼女は、それを誇りに思ったことは一度としてなかった。むしろ自分を、穢れた血の者だと考えている節がある。彼女はかの有名な義士、ロトによる近親相姦によって生まれた者の子孫であるためだ。

 そんなふうに考えているものだから、――自分が”英霊使い”の才覚に恵まれており、その血族の恩恵により、かの偉大なるロト・アーキテクトを使役できると知ったときも、大した感慨はわかなかった。


 目を覚ましたルーネはまず、ひっくり返った亀のように両腕をかさかさする。腹筋の力だけで起き上がることができないためだ。


「一号。……一号おる~? はーりーはーりー」


 すると、常に一基だけ付いているお世話役の英霊が、無言で手を差し出した。


「うーん。……むむむ。ふむ……」


 彼のごつごつした手を借りて、彼女はようやく半身を起こす。

 胸だけでなく、彼女の身体は全体的に肉余り気味で、だらしがない。とはいえデブと蔑まれるほどではなく、人によっては熱狂的に欲望をかき立てられる類の体つきだ。


「ふにゃぁああああああああああああああああああああああああああっ……」


 そうして彼女は、股の当たりをぼりぼり掻きむしって、


「どや? 今日も今日とて、平和かね?」

『……』

「おーい」

『…………』

「んもー。たまにはなんかしゃべれっちゅーねん。ホンマはちゃんとしゃべれること、知っとるんやぞ」

『………………………』


 その時のルーネ・アーキテクトにはまったく知るよしもないことであったが、彼女はいま、とてつもない幸運の元にあった。何せ、――異世界の”管理者”による、精神を苛むルールの範囲外にいるのだから。

 その原因は、ルーネが今いる場所と無関係ではない。

 この、引きこもりのためにあるような地下空間は、グラブダブドリップの中にはなかった。――どちらかというと”迷宮”の一部に組み込まれている。

 そのため、彼女は地上で起こっているありとあらゆる異常事態に気付かずに、今の時間までのんびり眠れていたのであった。


「………………よっしゃ、今日も一日、仕事すっかねー!」


 そして彼女はベッドを抜けだし、布団を羽織った状態でのそのそと移動を開始する。

 部屋は正方形に作られた空間で、広さは九畳ほどだろうか。

 隅っこにあるベッドから、その反対側の隅っこにある仕事机へ。


 そこははっきりいって、牢屋よりよほど息の詰まる空間であった。

 まともな神経の人間が閉じ込められれば、半日で音を上げてしまうような空間であった。

 とはいえ、ルーネにとってはそうではない。彼女はこの場所を何よりも愛していた。

 彼女にとって外の世界は広すぎる。外の世界の人々は攻撃的すぎる。


 彼女はまず、のんびりした仕草で昨夜の食べかけのパンと、すっかり冷めてしまった紅茶、そしてカチカチになった鹿肉の燻製を順番に手に取り、もしゃもしゃと喰らう。

 たっぷり十数分ほどかけてそうしたあと、仕事机の上に雑多に書かれた予定表、そしてロト・アーキテクトから毎日受け取っている業務日報を見て、

 

「えーと、今日はヘンリーニキに代わりのメンテ頼まれたんやったかな……」


 そして、ぽいっと雑に放り出されていた”転送球”を手に取る。


「あぶねーあぶねー。遅刻するとこやった」


 と、そこで、”転送球”を持つその手を、ふだん”一号”とだけ呼んでいる英霊が止めた。


「うおっ、びっくりした、なんやなんや?」

『………………………』


 一号が、がしゃがしゃと音を立てて首を横に振る。

 そして、かなりの間を作ってから、(英霊は皆、”音を発する”という行為のために、いちいち術式を組む必要があるためだ)言葉を紡ぎ出した。


『あやうし』

「ほへっ?」


 ルーネが首を傾げる。


「危険って……どういう?」

『街はついに滅びぬ。ひとえに風の前の塵に同じくして』

「それマジ? ……なんか、どっかの外敵に襲われたってこと?」

『いかにも』

「そんなら向こう行ったらあぶないがな」


 そこで彼女は少し考え込んで、


「あーでも、どないしょ。ひょっとすると、わけわからん連中が施設に来とるかもわからんし。ウチの力が必要かもわからんし……って、あれ?」


 ルーネは、すぐ手近にあるその”マジック・アイテム”を手に取り、まじまじと眺める。


「なんか一回分、使われとるな。なんやこれ。ウチ、なんもしてへんねんけど」


 彼女が見ているのは、――自身の胸に刻まれた紋様であった。彼女は自分の胸にくっついている二つの肉の塊を、そのまま”マジック・アイテム”として運用しているのである。男であれ、女であれ、まず彼女と相対した者は、その巨大な乳に傾注するためだ。今のところこの戦術は古今無双の戦果を発揮している。


「んー……。ま、ええわ。もし必要になったら、ご先祖様……ロトから連絡あるはずやし」


 その時だった。

 一号の身体が、がくがくがくと揺れて、


『緊急事態発生。緊急事態発生。術士殿の救援を求む』


 とだけ、いつもとは違う甲高い声で叫んだ。


「げ」


 顔色が蒼くなる。


「きんきゅーって。それつまり、荒事があるってことやがな。……かなわんなぁ」


 ルーネは、少しだけ考え込んで、


「……といっても、まあ。……うん。施設内にも”塩化”の術式は組み込んどるし。最悪の場合でも何とかなるっしょ」


 すると一号は、ルーネの手のひらの中にある”転送球”を、ぱっと奪い取る。まるで、「ぶっちゃけそうした方が無難」とばかりに。

 ルーネが一号を気に入っているのは、こういう時、自分を思いっきり甘やかしてくれる点にあった。


「あんたもそう思う? ――じゃ、そうしよっか」


 ルーネはあっさり納得して、とことことベッドに戻る。

 そして、頭から布団を被った後、数分で再び眠りにつくのだった。



 もちろん、いつまでもそうであった訳ではない。

 怠惰な彼女は間もなく、――とあるあきれ顔の男にたたき起こされることだろう。

 とはいえそれは、もう少し後の話であった。

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