第122話 世界の平和

 その竜は怒り狂っていた。

 何もかもを憎悪していた。

 理由は特にない。ただ、”怒り”という感情を無尽蔵に増幅されているのだ。

 これはあの、世界の管理者を自称する女、――ウェパルの仕業であるが、そもそも彼自身が望んだことでもある。


 あの奇妙な娘と出会ったのは、今からちょうど一ヶ月前のこと。

 彼女は、あろうことかニーズヘグの逆鱗を気安く撫でながら、こういったものだ。


――お前の命を、私のために使ってもらう。


 と。


 その時、彼は、北の地の底深く、あらゆる”固有魔法”を無効化するとされる神の金属、”オリハルコン”によって作られた檻の中で、ただただ存在するだけの生を続けていた。


 一日の楽しみは、洞窟から染み出てくる石灰が多く混じった水を嘗めること。

 檻の中から、舌が届く範囲の苔を喰らうこと。

 たま紛れ込む、間抜けな蝙蝠を睨み殺すこと。


 何もかもが、忌々しい同族の嫌がらせだということはわかっていた。


 不死の存在であることを定められた者にとって、口に何かを入れる必要はあまりない。

 だが、肉体が死ぬことはなくとも、心が少しずつ死んでいくことは、ある。

 死なない生き物を殺すための最も手軽な手段は、心を殺すことだ。

 考えることを止めさせることだ。

 もちろんニーズヘグも自身を閉じ込めた連中の意図がわかっているから、自我を保ち続けることに余念がない。

 泥の味しかしなくとも、彼は天井から落ち行く水を嘗め続ける必要があった。

 来たるべき復讐の時のために。

 そんなニーズヘグの目の前に、ウェパルはまるで、昼食後の散歩途中みたいに現れた。

 彼女は、――とてもとても、魅力的な笑みを浮かべていて。


 古来より、”竜”が人間に恋をするのは珍しいことではない。



 ふと、ニーズヘグが片目を開けて、周囲の気配を探る。

 グラブダブドリップは、未だ朝の静けさに包まれていて物音一つない。

 ただ時折、付近の四足獣が吠える音が聞こえてはいた。当たりを飛び交うワイバーンの接近を、果敢にも飼い主に警告しようというのだろう。

 だが残念ながら、すべては無駄な努力であった。ここいらの飼い主は皆、気力を奪われて指一本動かせないはずだから。


 再び目をつぶる。

 分厚い雲に遮られた日光が、暗闇の中で生き続けた彼にはほどよく暖かい。

 腹の底に渦巻く怒りや憎悪を持ってしても抗いきれない眠気が、全身を包んでいた。

 無理もない。

 北の谷からここまで、ぶっ続けで動いている。

 道中、同族の妨害にあった。何度か光線を吐く必要もあった。

 仕上げに、あの得体の知れない蛇の怪物みたいな生き物との一戦。

 体力はかなり消耗している。気力だけでは戦えない。そもそも彼は老竜なのだ。できればしばらく休眠状態に入りたい。だが、相棒がそれを許してくれるとも思えない。



 なお、京太郎が密かに”鑑定”した彼の能力は、以下のモノである。


――”世界樹噛み”ニーズヘグ

○固有魔法

 《限界突破》……肉体と魔力の成長に上限がない。

 《不老不死》……老いることも死ぬこともない。

 《破壊者》……物質を破壊する魔法に関する先天的な才能を持つ。

○通常魔法

 《空中浮遊Ⅴ》……重力を100%無視して自由に空を飛ぶことができる。

 《自己再生Ⅸ》……細胞の一片でも残っていれば自己修復する。

 《竜使役Ⅳ》……低レベルの社会性を持つ”竜族”の一群を従えることができる。

 《無限器官》……《飢餓耐性》の強化版。食事を摂らなくとも自動的に魔力が回復し、また最小限の消耗で術を行使できる。

 《破壊系Ⅰ》……指定した身体の部位に破壊のエネルギーを宿す。

 《破壊系Ⅱ》……口からあらゆるものを破壊する光線を吐く。

 《破壊系Ⅲ》……視界内に存在する生きとし生けるものを即死させる。


 長寿の者にしては、覚えている術の数そのものは多くない。

 だがそれも無理はなかった。彼の操る《破壊系》はそれだけでかなり強大な魔法とされており、習得難度は他の追随を許さないためだ。

 《破壊系》の術だけが”世界樹”を傷つけられるという。

 《破壊系》の術だけが、死なないはずの者を殺すことができる。

 故に、この術を覚えた生物が現れた瞬間に、この世に存在する全ての生き物と敵対関係になるといっても過言ではなかった。

 この術の使い手は、明確にこの世界に対して害意を抱いているためである。

 産まれながらにして他者を傷つけずにはいられない性質を持つためである。

 また、そうした者でなければ《破壊系》の術を覚えることはできない。


 ”世界樹”の世話を申しつけられたリカ・アームズマンだけが、鉄の手袋ヤールングレイブルによる《破壊系》の術の行使によって”世界樹”を破壊しうると考えると、――”造物主”によるちょっとした皮肉を感じざるをえない。



 当初ニーズヘグは、リカとの一騎打ちを望んでいた。

 だが、


――あなたの力ではリカには勝てないわ。向こうのが”現実改変”の優先度が高いもの。


 ウェパルはそう断じた。

 なんでもその勝負は、そもそも力の強弱の問題ではないらしい。

 魚が空を飛ばないように、鳥が海を泳がないように、古今無双のニーズヘグですら”勇者”に適わないというのは、揺るぎない事実のようだ。


――絶対に”鉄腕の勇者”とは戦わないで。あなたに死なれると困るの。


 そうと言われてしまえば、ニーズヘグも黙るしかない。

 一目見た瞬間から、彼はウェパルの言葉に絶対的に服従していた。

 何か、妙だと言うことには気付いている。

 彼女が何らかの術を使って、こちらの心を操作している気はしている。


――でも、安心していーよ。奴は私が対処するからさ。そっちはそっちの仕事に集中してもらえりゃーいいってわけ。


 だが、それでも一向に構わなかった。何せ彼は、長らく退屈だったのだ。

 石灰水を嘗めながら心が死んでいくのに耐えているよりは、今の状況はよほど刺激的だ。


――あなたに果たしてもらわなきゃいけない仕事は二つ。一つは、街に打撃を加えること。リカが震え上がるくらいの一発をよろしく。


 あと、もう一つ。

 もう一つはなんだったか。


――それは、……。


 そこまで思考が思い至った、その時だった。

 ワイバーンに対して吠える音とは別の、生きる者の気配が感じられたのは。


 その足音は、明確な意志に基づいている。――つまり、何らかの高度な知能を有する生き物の仕業だと言うことだ。

 この状況下において、それが異常なことだと言うことは把握している。

 ニーズヘグは、ゆっくりと首を起こして、そちらを見た。


――それは、……なんだったか。


 まあ、なんでも良い。

 ニーズヘグにできることは、生まれた頃からあんまり変わっていない。

 生きとし生けるもの、形あるものを何もかも破壊してしまうこと。それだけだ。


 そんな彼が、悪逆の代名詞でもあった彼が。

 自分のためだけに力を振るってきた彼が。

 今、――朽ちかけた我が身を奮い立たせ、戦いを決意している。

 その胸に誇りを掛けて。

 全てはウェパルの言葉を信じたとおり。


 この世界の平和を守るために。

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