第28話 悪魔の証明
京太郎が元の世界に戻ると、ウェパルと目が合った。
彼女はひらひらと手を振って、
「おっつー」
という。
「おやおや? なんだか
「……いや」
京太郎の頭には先ほどの”魔女”の言葉が反芻している。
――あたしらは、とっくの昔、……この、最期の箱庭に逃げ込んだ時点で、ゆっくりと滅びることを選んだのさ。いまさら足掻くつもりはないよ。
これは厄介な問題だった。
生きる気力を失った人に、再び立ち上がることを強要するのは難しい。
そもそもこの一件、暴力をもってでしか解決できないのか。
嘆息混じりに、京太郎は自分の『ルールブック』を机に置き、ついでに余った”食肉獣”の缶詰を記念品代わりに飾った。
「何それ」
「『ルールブック』で出した生き物だよ」
「……生き物なの? それ」
「ああ。中に美味しいものが入ってる」
「へー」
ウェパルがそれをまじまじと見て、
「そういえば、おなかへったなー」
「食べるかい? これ」
「あー……いや。やめとく。異世界の食い物とか、お腹壊すかもだし」
「そっか。けっこういけるんだが」
京太郎は上の空で応えて、
「じゃあ、今日は帰るよ。お疲れ様」
「え」
ウェパルが不思議そうな顔をした。
「え?」
京太郎も不思議な顔をする。
「何かまずい?」
「いや、……別にまずいことはないけど」
昨日今朝と、いつもひょうひょうとしていた同僚がどこか、動揺しているように見える。それどころか頬が少し紅潮しているではないか。
京太郎はそれを奇妙に思いはしたが、”魔女”に与えられた課題の方が大きく心を占有していた。
――まあ、風邪気味とかだろう。
そう解釈して、
「じゃ、お疲れ様」
「ええと……おつかれー」
京太郎は言って、力なく手を振るウェパルに背を向け……、
――なあ、ウェパル。君さえ良ければ、こんど一緒に飲みにでもいかないか。
――ま、考えとくよ。
ギリギリのところで思い出した。
京太郎は実にさりげなく振り返り、
「ところで今日これから、空いてる?」
「ん? まあ、空いてなくはないけど? ……ソロモンから許可もとったし」
「じゃ、飲みにでもいかないか」
彼女の口角が上がったところを見るに、正解を引いたらしい。
「……しゃーないな」
何事も、一度は試してみるものだ。
彼女の期待に背くところだったと危うく思いつつ、京太郎は胸をなで下ろす。
”魔女”に対する答えを見つけるのと同じくらい、この会社で信頼を得ることは重要だ。
もし、自分が何かの理由で会社から首を切られたとして、……困るのは恐らく、京太郎だけではない。
それだけは断じて避けなければならない事態であった。
▼
「ふーんふーん、ふふふふーん♪」
ウェパルは上機嫌に鼻歌を歌いつつ、猫のように京太郎の右腕にじゃれついている。
――すごいな。これが西洋風のデートというやつなのか。
とか、少し偏見じみたことを思いつつ。
「あのぉ……ウェパルさん?」
「なに?」
「いくらなんでも、昨日今日出会ったばかりの男に懐きすぎじゃないかな。……ぎゅうぎゅう胸を押しつけるのをやめなさい」
尻軽女と思われても知らないぞ、という警告のつもりだったが、
「いいの、いいの♪ 私、久々の外出でテンション上がってるから~♪」
「なんだか言葉が通じていない気がするが……」
「うふふ。……いやあ、今回は誘ってもらってラッキーだったよ。ダメ元でソロモンに聞いたら、あっさりオッケーが出てさ」
くすくすくす、と、甘えるように笑うウェパル。
相変わらず、人肌が恋しくてたまらないとばかりに密着してくる。彼女の甘い匂いが鼻腔をくすぐった。
京太郎は思う。
――この娘たぶん、男子ばかりのサークルに入って人間関係をめちゃくちゃにしたりとかするタイプの女だ。
サークルクラッシャー娘の危うさはよく知っている。そういうのに童貞を喰われた結果、未だ女性を憎み続ける羽目になっている友人のことも。
しかし一方で、ちょっとした火遊びを楽しみたいという気持ちもなくはなかった。いくらなんでも、そこまで枯れてはいない。
――一応、どこかでゴムを買っておくべきだろうか。……いや、しかし……。
そんな懊悩を知ってか知らずか、ウェパルはどんどんと京太郎を駅前へと引っ張っていく。
そこで少しだけ本屋に立ち寄って、数冊ほど大判の本(チラリとのぞき見たところ、なんと成年向けエロ漫画の類であった)を買い込んでいるところを横目に、スマホで近所の居酒屋を検索する……が、
――参ったな、女連れで行く居酒屋など知らんぞ。
京太郎たちのいる桜台駅前は学生街が近いこともあって、安めの飲み屋で溢れかえっている。が、どう考えても初デートにふさわしい雰囲気のところはなかった。
光ヶ丘まで足を伸ばせば、以前、兄に紹介してもらった良い店を知っている。だが、奢らされる可能性があることを考えるとあまり調子に乗った出費は許されない。はてさて。
「おまたせー。じゃ、どこいくー?」
「色々考えてるところなんだが。……ちなみに、そっちはオススメ、あるかな」
「ないよ。だって私、そもそも外出する機会、ほとんどないし」
「え? じゃあ、この辺の店、入ったことないの?」
「ないねぇ」
――そうか。なら近場でもいいな。
そこで京太郎は苦肉の策として、ちょっとだけオシャレな創作料理を出す個室系居酒屋を目指すことにする。
そんなところ一人では入ったこともなかったし一生入ることもないだろうと思っていたが、そこそこゆっくりできて、旨いものを出すという噂を耳にしていたのだ。
結論から言うと、その選択は正解だった。
そこは、暖色系で統一された、落ち着いた雰囲気の店で、京太郎たちは二人、なんか薄いチーズでトマトを包んだような料理に舌鼓を打つ。
「いやー、ウマイウマイ。さすがしばらく暇してただけあって、いい店知ってんじゃん」
「……たまたまだよ」
無職時代のことはあまり触れないで欲しい、というのが正直なところ。
「ところでふと、気になったんだけどさ」
「なあに?」
「君、あの、ソロモンさんとは付き合ってるの?」
そう訊ねたのに深い意味はなく、二人が並べば美男美女の白人カップルができあがると思っただけだ。
すると、ウェパルはけらけらと笑った。
「ソロモンと私が? ……ないない、天地がひっくり返ってもね。あの人、愛妻家だから」
「えっ。ソロモンさんって結婚してるの?」
「うん。……まあ、奥さんとっくの昔にくたばっちゃったらしいけど」
「――そう、なのか」
あの脳天気そうな性格からは想像も出来ない、暗い過去だ。
「できれば彼とも飲みたいな」
「運が良ければね」
「ところでさ」
「ん?」
京太郎は、聞くならこのタイミングを置いて他にないだろう、と思って、こう訊ねた。
「君は悪魔なのか?」
「え」
「ちょっとスマホで検索してね。ウェパル。あるいはウェパール。イスラエルの王様、ソロモンが使役するとされた悪魔の一柱だ」
「わざわざぐぐったん? すけべすぎる……」
疑問に思ったきっかけは、些細なことに過ぎない。
ウェパルは以前、『
その言葉に違和感を覚えたのだ。
もし自分なら、そうした不便なルールを採用するだろうか?
ソロモンやその他の同僚とすれ違った時、不都合な事態が発生しないだろうか?
そこでふと、思いついたのである。
ひょっとすると、――この会社は、自分を除く全社員が、人ならざるものなのではないのか、と。
異世界に行き来する扉があるのだ。
悪魔だろうが宇宙人だろうが存在していても不思議ではない。
「悪く思わないでくれ。こちとらとんでもない経験させられて、何か少しでもつかみ所が欲しかったんだ」
「ふうーん」
「一応……スパイ組織が使うコードネームめいたものなのかな、とも思ってるけど。もし君が、本物の悪魔とかだったら教えてほしいな」
「なんで?」
「その方が、心の準備ができるじゃないか。いろいろ」
そこで、個室に追加の酒と料理が運ばれてきた。白ワインに良く合う、タコと白身魚がたっぷり入ったパスタだ。
京太郎は料理が並ぶのを待ってから、
「そういえば、ウェパルって人魚の悪魔だって聞いたけど。……大丈夫? この魚、知り合いだったりしない?」
「蹴るよ」
「蹴らないでくれ」
「じゃ、蹴らない」
ウェパルはぷくーっとふくれ面で、明らかに機嫌を損ねている。
「でもその質問、応える意味、ある?」
「なんで?」
「もし私が正真正銘、本物の悪魔ならきっと”違う”って言うし。実際に違ったとしてもそう言うでしょ。じゃあ、意味がないよ」
「でも、真実を応えてくれたら奢るぞ」
「あら、そう?」
ウェパルは少しだけ顔をほころばせたが、
「でもダメ」
「じゃあ、今日は割り勘だな」
「私とセックスしたくないの?」
京太郎はびっくりして、
「何を言ってる」
「でも聞いたよ? この国の男はふつう、セックスしたい女には奢るんでしょ」
「――君と私は、同僚だろ」
京太郎は視線を逸らした。股間に潜むまったく別個の生命体は「ふざけんな素直になれよ」と叫んでいる。
「ふーん。そー」
「……煙に巻くなぁ、君は。やっぱり悪魔じゃないのか」
「さあてね」
▼
結局その日の二人は、何ごともなく別れることになった。
ウェパルは本当に会社に住んでいるらしく、
「今日はありがと。また誘ってね」
と言ったきり、ビルの中へと消えていくのだった。
▼
帰りのコンビニにて。
坂本京太郎は、実に十年ぶりにコンドームを手に取った、が。
意外と高かったので止めにして、麦茶の元とコーンフレークを買うだけで済ませた。
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