三日目

第29話 お人好し

 次の日の朝、京太郎は朝一番の排便行為の後、全身を洗浄し、昨日作りっぱなしのまま鞄の底で潰れていたサンドイッチに気付いて悲しみに暮れながらそれを食べた。


「うまい」


 誰ともなく呟き、洗面所で歯を磨く。

 昨日の経験から、とりあえず水だけは持って行った方が良いことに気付いていた。

 いちいち『ルールブック』を使うのは手間が掛かるし、向こうの不衛生そうな生水を飲んで腹を壊す訳にもいかない。


 ということで、空のいろはすのペットボトルに作り置きの麦茶を入れ、小さく砕いてある氷を入れてから鞄の中に突っ込む。

 時間が余っていたので、最近凝っているソーシャルゲームのログインボーナスを取得し、ちょっとだけデイリーミッションを消化しながら、


――うまいこと『ルールブック』の力を使えば無限にガチャできるのでは?


 という想像を弄んでいると、出かけなければならない時間が来た。


「よしっ」


 一声気合いを入れて、京太郎は会社に向かう。

 到着したのは、九時十分前だった。

 これならさすがに大丈夫だろうと思っていると、やはりシャッターが空いている。


「おはよう」

「……おはよー」


 社内を見回したところ、今日もソロモンは見当たらない。ウェパルが一人、自分の席に座って漫画を読んでいるだけだ。

 何を読んでいるのだろうと思っていると、彼女の机には、駅前の本屋で買い込んだエロ本が積まれている。


「君、会社でなんてもの読んでるんだ」

「え?」


 ウェパルは少し不思議そうな顔をして、目の前にある、乳丸出しの女性が温泉に浸かりながら頬を赤らめている表紙の漫画を見た。


「これ?」

「他に何がある」

「でもこれ、純愛ものだけど」

「……純愛かどうかは関係なくない?」

「そうかな」


 まったく、――ヘンテコな娘だ。

 京太郎は内心、やはりこいつは人間ではないのではないか、という想いを強くする。

 ちょうどその時、始業のベルが鳴り響いた。


「じゃ、いってきます」

「いてらー」



 京太郎はウェパルから異世界の鍵を受け取り、例の扉の鍵穴に差し込む。

 そして、……ガチャリと扉を開ける、と。


 すぐ目の前に”魔女”の顔があった。

 あわやお互いの顔がぶつかり合うところで、ぎりぎりのけぞることに成功する。


「う、うわっ」

『アハハ、アハ』


 例の、瞳孔開きっぱなしの、ちっとも面白くなさそうな笑顔。


「な、何してるんです、そこで」

『驚くかと思って』

「そ……そうですか。……でもたぶん危ないんで、止めた方がいいですよ」

『あらそう?』


――まったくこの人は。


 嘆息混じりに、京太郎は扉を閉める。

 その時、ふと足下を何かが通り抜けた気がした。

 嫌な予感がして、目の前の”魔女”を睨む。


「――ひょっとして、いま何かしましたか」

『え? なんのこと?』

「私の世界に何か送り込んだりしてませんよね。あなたが使役する魔法の生物とか、そういうのを」

『してないけど』

「そう、――ですか」


 同時に、京太郎の腹の奥に、自分でも意外なほど強大な憎悪が生まれた。

 万に一つ、……この世界の危険な生き物が自分の世界に紛れ込むようなことを考えたためだ。

 例えばあの”ミート・イーター”一匹が日本社会に紛れ込んだだけでも、とんでもない大騒ぎが起こるに違いない。


 兄が、両親が、学生時代の友人たちが、……そこに見知らぬ隣人や通行人をひっくるめてもいい。

 彼らの命が、自分の迂闊な行動によって脅かされる。そんなことは絶対に起こってはならないように思えた。

 仮に、目の前の女をむごたらしく殺すことになったとしても、それだけは、……そのことだけは絶対に許容できない。


「一応、警告させてもらいます。私のことを個人的に嘲弄されるのは一向に構わない、が……」

『が?』

「もし私のいる世界を害そうなどと思ってるのならやめておいた方がいいですよ」

『へえ? それはなぜ?』

「私はきっと、この世界での行いに、我慢しなくなるだろうから」

『面白い』

「あなただってきっと、この世界を私の趣味・・で改変されるような事態は望んでないはずだ」

『…………………………』


 ”魔女”の表情は読めない。

 京太郎は、まだ少しばかり脅しが足りないだろうかと思ったが、今後の彼女との関係性を考えると、それ以上踏み込むのは気が引けた。


 二人の間の緊張を緩めたのは、”魔女”である。


『ふ…………ふふふ………アハ』

「何がおかしい?」

『面白いね、あんた。”管理者”ってみんな、精神的に成熟しきったヤツばっかりだと思ったけど……今回はこういう・・・・のが来たか』


 そして、まったく予想だにしないできごとがおこった。

 ”魔女”が、ほとんど盗むように京太郎の唇を奪ったのである。


「…………ッ! むぎゅる!」


 京太郎は思った。これで、二人目に続いて三人目のキスの相手まで、よくわからない異世界人に奪われてしまった、と。

 とはいえ”魔女”のそれはどちらかというと挨拶感覚のものらしく、唇は一瞬触れただけで離れた。


『――《夢幻の口づけ》という術をかけた。これで一度だけなら”勇者”の攻撃を躱すことができるだろう』

「え?」


 京太郎はボンヤリして、”魔女”を見つめる。

 毒気は完全に抜けていた。


「なにか、助けになるようなことを?」

『まあね』

「しかし……なぜ?」

『ちょいとばかし、カマをかけさせてもらった。そのお詫び』

「ううむ」

『あんたが足下に何か感じたのは、あたしがちょっと石を蹴り上げたから。それだけさね』

「しかし、なんでそんな真似」

『……あんたが、何に怒るか知りたかったのさ。私の古くからの考え方でね。真面目くさった話し合いじゃ、いつまでたってもそいつの本質なんて掴めない。……大切なのは、そいつが何に怒るか知ることだって』


 本当だろうか?

 京太郎は訝しむ。下手に”管理者”を怒らせるのはまずいと思って、適当な言葉で言い繕っているだけではないのか。


「では、今のやり取りで、私の何がわかったんです?」


 訊ねると、”魔女”は例によって読めない表情のまま、ちょっとだけ舌を出す。


『教えない』



 ”魔女”に招かれて、四つ並んだうちの家の一つに向かう。

 そこでは、ステラとシムが、二人がかりで朝食の準備をしてくれているところだった。


『朝は食べたかい?』

「ああ、軽くは」

『そう。じゃ、昼の分も食べていきな。あんたを慕ってる”亜人デミ”が腕によりをかけてるんだからさ』

「そう……ですか」


 ”亜人”が作る料理と聞いて、昨日のキノコと藻を炒めただけのものを思い出す。

 正直気が進まなかったが、テーブルの上に並べられたのは、意外にも京太郎の“常識”に近い料理の品々だった。

 ライ麦のパンやソーセージ、ゆでた甲殻類の身にクリームソースをかけたもの、野菜をブロック形に刻んだサラダにトマトを煮込んだ(と思しき)スープ。そして血のように赤ワイン。

 ”魔女”は言った。


『では、食事にしようか。……お人好しさん』

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