二日目

第13話 始業時刻

 次の日の朝。

 アラームが鳴る前、――七時ごろには目を覚まし、シャワーを浴びて歯を磨いて、きっちりひげそりを済ませ、排便、排ガスの後、ピカピカになった身体にデオドラントを吹いてから朝食の準備にとりかかる。


 会社帰りに買ってきた八つ切りの食パンにマーガリンを塗り、とてつもない量のハムとオマケ程度のレタスとチーズを挟んだものを二つ作り、片方は胃の中に収め、もう片方はサランラップで包んで鞄に詰め込み、八時には会社に到着するように自宅アパートを出た。


 今でも、昨日の出来事は夢だったんじゃないかと思う。

 だが、”スタン・エッヂ”と諭吉三十人分が鞄に入ったままだったので夢ではないという確証は得ている。

 ビルの前に来て、深呼吸。

 このまま逃げ出しても良いんじゃないか、という気持ちがちらと頭をかすめた。

 だが、結局そうしないことは決めていた。

 先払いで給料を受け取ってしまったから? それもある。

 だがそれ以上に、ここで事態を投げ出すような真似は、京太郎の主義に反していたのだ。彼は積み本を作らないタイプの人間だったのである。


――それにしても、……


 この世界の誰が、こんなボロビルに異世界の入り口があると気付くだろう。

 西武池袋線、桜台駅をちょっと歩いたところにある小さなビル。

 誰もが通り過ぎてしまうような、何の変哲もない建物に。


 レトロな雰囲気の階段に足をかけ、ぴょん、ぴょんと、十秒もせずに駆け上がる。

 子供のようにしてたどり着いたオフィスは、ピシャリとシャッターが閉まっていてびくともしなかった。


――おや?


 首を傾げ、普通新人は一時間前に出社しているのが当たり前ではないかと考えていると、オフィスの奥からガサゴソ音がして、昨晩ウェパルと名乗った眠そうな目つきの女性が現れる。


「――ああなんだ。坂本かよ」

「……寝てたの?」

「……………ん。……就業時刻前だったし」


 どうやら今日は、眠そうだった訳でなく本当に眠いらしい。

 鍵をポケットからとりだし、内側からガラガラとシャッターを開けて、


「一つだけ言ってもよろしゅうございますか」

「何?」

「次に勝手に早く来たら、脛を蹴る」

「……そりゃ勘弁だな」


 ハハハコヤツメ、と軽く笑う。

 だが恐らく、今のは彼女なりのユーモアとかそういうのではなく、本気のようだ。


「でも、君だって早く来てるじゃないか」

「しらん。私、ここに住んでるから」

「住んでる? ……住み込みなの?」

「うん」


 とても生活するスペースがあるとは思えないのだが。

 とはいえ、そういうものなのだろうな、と、簡単に納得する。

 昨日から、すでに”常識”という名の壁は粉々に砕け散っていた。

 今の京太郎は、再来週に宇宙人が攻めてくると言われても素直に信じてしまう自信がある。


 ウェパルに招かれて、京太郎はオフィスに入った。

 では早速、昨日の世界へ……と思っていたが、どうやらそうもいかないらしい。


「”ゲート・キー”が使えるのは九時からだからね」


 とのこと。

 やむなく、京太郎は自分のデスクに座ってぼんやりする。

 ウェパルは、そんな彼に恨めしげな視線を送っていた。


「……ひょっとして、寝る邪魔をした?」

「した」


 ウェパルはもっちもっちと口の中を鳴らしてから、


「あと、三十分は寝ていられたというのに」

「ごめん。なんならここで寝ててもいいよ」

「君、昨日今日会った男子の前でぐーすか寝られるタイプ?」

「……いや」


 よくわからんところで常識的なヤツだな。

 京太郎はその後も、社内にある珈琲を飲んだり、ちょっとコンビニまで出向いてガムと水を買ってくるなどして時間を潰していたが、やがて我慢できなくなって、


「暇つぶしに、一つ聞いて良いかな」

「なに」

「君って、どこの出身? 日本人ではないよね」


 すると、ウェパルは苦い顔を作る。


「えちえちか、君」

「は?」

「そうやって、私のことを丸裸にしてナニするつもり?」

「別に、何もしないけど」


 どうにも、彼女との対話がうまくいくイメージがこれっぽっちもつかめないな。

 鈍い京太郎にも、彼女との間に壁があることは感じていた。

 そして、それが決して良くない兆候であることも。


「……昨日言ってたとおり、答えられないことは答えない、と」

「そーいうこと」


 これは仕事だ。別に、仲良しクラブをやりたい訳じゃない。

 とはいえ、一度くらいはそこを目指してみるべきだとも思っている。

 結局のところ、仕事に大切なのは個人の能力ではない。信頼関係なのだから。


「なあ、ウェパル。君さえ良ければ、こんど一緒に飲みにでもいかないか」

「は?」


 ウェパルはカレーを作っているつもりがおでんが出来上がったみたいな顔をしている。


「……サシで?」

「もちろん、もし他に誘える人がいるなら、その人も一緒で」

「そんなやつ、いない」

「それなら一対一になるなぁ」

「……君、ひょっとして、やりちんか?」


 その時ようやく発見したのだが、このウェパルという同僚は日本語の選び方があまり得意ではないらしい。


「……私は遊び人じゃないよ。……付き合った女性がいない訳じゃないが」

「ふーん」


 その時だった。

 きーんこーんかーんこーん、と、学生時代に聞き慣れた『ウェストミンスターの鐘』が辺りに響き渡る。

 その音に紛れて、ウェパルはニヤリと小悪魔のように笑って、ささやいた。


「ま、考えとくよ」


 と。

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