第12話 帰社
「……ん。お疲れ様」
「あ、どーもどーも……お疲れ様です」
軽く会釈しながら、鉄扉をくぐる。
そして、何度かその場で足踏みして、その世界が地に足ついていることを確認してから、目の前の女性と向き合った。
化粧っ気のない、瞼を半分だけあけた、眠そうな目と目が合う。
たったそれだけで、その日一日で感じたのと同等の衝撃を受けた。
――うわっ、この人、とんでもない美人だな……っ。
昨日、ちらと顔を合わせた時も思ったが、間近で見るとさらにその印象は鮮烈だ。
彼女の背格好を端的に表現するならば、全身闇色のスーツを身にまとったキャリアウーマン風の女性。それだけである。しかし彼女の五体は、男の劣情を刺激するありとあらゆる要素を内包していた。
庇護欲をそそらせる小柄な体格、こちらを見上げる藍色の瞳、艶のある、柔らかそうな唇、きゅっとくびれた腰つき、豊満な胸。
髪は少年のようなベリーショートであるにもかかわらず、彼女の女らしさをこれっぽっちも損ねていないのが不思議だった。
時に街角で、思わず目で追いたくなるような美人と出くわすことがあるが、彼女はその比ではない。彼女を目の前にして恋をしない男など、この世に存在しないだろうと断言できる。
もし今後、彼女が男連れで歩いているところを見たら、きっと自分はおかしくなってしまうだろう。
――なんだ、これ……。
女性関係に関してはわりと淡泊な方だという自覚があったので、京太郎は自分の感情に驚く。
それが可能であれ、不可能であれ、今晩中に彼女と同衾することだけが我が人生の目的だと断言できた。
――オネガイします。子供を産んでください。
そう言いかけ、慌てて理性的に押さえつける。
――落ち着け! せっかく見つけた仕事先を、こんなことで無茶苦茶にしてたまるか。
すると彼女は、唇をちょっとだけへの字にして、
「……………………ん?」
くいっと眉を段違いにする。その仕草も実にチャーミングだった。
「ひょっとしてアナタ、コーフンしてる?」
「ええっと……」
牧場の仔牛に、『おじさんはぼくのこと食べるの?』と聞かれた気分だ。
数秒の間の後、女性はぽんと手を打つ。
「ああ、シッケイシッケイ」
言葉少なに独り言ち、素早く自分のデスクから京太郎の『ルールブック』とほぼ同じデザインの本を取り出し、何事か書き込んだ。
すると、一時期は制御不能かと思われた欲望はみるみるしぼんでいき、――平静を取り戻していく。
今の彼女は、そこそこ魅力的な女性とは思えるものの、会って即合体したいと思うほどではなくなっていた。
「悪かった。これ、見て」
彼女は、少し気まずそうに本をこちらに開いて見せる。
だがそこに書かれているのは、得体の知れないカタカナに少し似た外国語で、その内容は見当もつかない。
「『私が人間を魅了するフェロモンを放つ』ルール。……あなたは例外ってことにしておいたので」
「ルール?」
オウム返しにすると、
「うん。こことは違う世界のルールだけど。フェロモンの残り香? みたいなのが残ってたっぽい。あなたがトツゼンえちえちな気分になったのは、そのせい」
どういう顔をすれば良いかわからず、京太郎はヘンテコな顔のまま首を傾げた。
「今のはつまり……なんかの術みたいなのでおかしくされてたってこと?」
「いかにも。すまん」
深々と頭を下げられて、京太郎も少し恐縮した。
「いや、いいよ。別に、悪い気分じゃなかったし」
口は笑っていたが、内心では恐怖を感じている。
――『ルールブック』を使えばこんなことまでできるのか。
これは……やろうと思えば、いくらでも人権を踏みにじるような真似ができるのではなかろうか。
「君も異世界の管理者なのかい?」
「もちろん。この会社の人は必ず、どっかの世界の管理者よ」
「日本語、上手だね」
「うん。百年勉強した」
から笑い。おしゃべりではないが、ユニークな娘だ。
「私、ウェパル。以後、よろしく」
「――ああ。私は……」
「キョータロー・サカモト、でしょ。ソロモンから聞いてる」
「そっか。……ええと、彼に挨拶したいんだけど」
「必要、ない。仕事の時間、終わり。もう帰っていいよ」
「えっ」
京太郎は少し首を傾げて、
「でも、上司に挨拶しないで帰るわけには」
別に、社畜根性を発揮している訳ではない。
今の京太郎には、彼から聞きたいことが山ほどあるのだ。
異世界のこと。
この世界のこと。
この会社のこと。
ソロモン自身のこと。
「あいつ、忙しい。会おうと思ったら徹夜する必要あり。また今度で」
「でも……」
「くどい。あいつはあっちこっち走り回ってるから、中々会えないのが普通。レアキャラ」
そういうものなのか。
「じゃあ、……ウェパルさんに話を聞かせてもらっても?」
「えーっ」
ウェパルはいかにも迷惑そうに京太郎を睨んだ。
「いや、仕方ないだろ。こちとら今日一日で人生観が根本から変わるような体験させられたんだから。タダじゃあ帰れない」
「ふーん。そういうものなの?」
「ああ」
「でも、私からは話せないよ。そういう決まり」
「そんなぁ」
京太郎は、およそ年下(に見える)の女性に聞かせるものではない、実に情けない声を発した。
だが構わない。
京太郎だって馬鹿ではなかった。この、ウェパルという女性が常人ではないことくらい、薄々感づいている。
「あっ、でも、……これ、渡すように言われてるんだった」
「これ?」
ウェパルは、すたすたとオフィスの奥の、恐らく配置的にソロモンのものと思しき少し大きめのデスクに歩み寄り、『給料』と書かれた茶封筒を取りだした。
「あぶねーあぶねー。ほい」
「――?」
ぽん、と手渡し。
「約束の金。一ヶ月分」
「は? かね?」
――そんな、ヒットマンの報酬みたいに渡されても。
失礼だと知りつつも、その場で封筒の中を見る。
中には、およそ三十人編成の諭吉軍団が詰まっていた。
五年働いた前の会社でも見たことがない現金だ。
――嘘だろ。……今どき給料が手渡しって。
そう思う一方で、異世界の管理会社なのだからこれくらいヘンテコでも普通だという気持ちがあった。
「金は月初めにまとめて支払う。今月は先払い。生活、困ってるんでしょ? とりあえずこれで二ヶ月頑張って。次は再来月」
「ええと……」
――なんでこっちの生活のことまでお見通しなんだ。
というツッコミはさておき。
顔をしかめつつ、札と一緒に入っていた給与明細書を見る。
当然の権利とばかりに、所得税・雇用保険などは空欄だった。
――これ、国民健康保険とかに申請するとき、どうすりゃいいんだ。
新たな不安の芽が出てきたが、悩んでいても仕方がない。自分でどうにか工夫して切り抜けるしかないと思われた。
恐らくだが、この会社の人々は、国税局とかその辺の連中とは関わりたがらないはずだから。
「一つ、聞いて良いかな」
「なに」
「この会社、……他の人は?」
「いるよ」
「どこに?」
「いっつもあちこち行ってるから、貴方が顔合わすことはほとんどないかな」
「君は?」
「私はこの時間、ここで鍵を管理してるのがほとんど」
「じゃあ君は、私が話せる数少ない同僚ってこと?」
「……まあ、言われてみりゃそうなる、かも」
京太郎は息を呑んだ。
ということはつまり、この酔っ払いよりもしゃべりにくい女性からあれこれ情報を聞き出さなければならない、ということか。
「ねえ、ウェパルさん。……この会社って、」
「そこまで」
ぴゃっとウェパルは手のひらをこちらにかざした。
一瞬、手のひらから地獄の火炎みたいなものが放出されるかと思って戸惑う。
だが、火は出現せず、ただ、彼女がつまらなそうな表情で、
「……私、見習いだから。新人に何か教えてもいい、という命令は受けてない」
「でも、私より先輩だろう」
「ダメなの」
ウェパルはかたくなだ。何かを恐れているようですらあった。
「余計なことは聞かない、応えない、答えは自分で見つけ出すこと。それがうちの社風ですんでよろしくな」
「なんてこった」
「ただ、一つだけいえるのは」
「ふむ」
「この仕事は、慣れれば百年だって働ける。お給料もグッド。老後も安心」
給与明細書によると、厚生年金が払われている様子はなかったが。
「だが、慣れなければ一ヶ月で辞める。最初の一ヶ月が肝心。がんばれ」
そう言われてしまうと二の句が告げられない。
京太郎は渋々引き下がって、鞄を手に取った。
「……ちょっと」
「?」
「『ルールブック』、持って帰る気?」
「ああ、」
そういえば、鞄の中に入れっぱなしだった。
「できれば、家で予習しようかな、と」
「仕事を持って帰る、ダメ。それもウチのルール」
そういうものか。
京太郎は素直に『ルールブック』を取り出し、
「ここ、あなたのデスク。本はここに置いて帰ること」
そう言って指し示された、ピカピカの新しい机の上に置く。
机には紙製の安っぽいネームプレートが貼ってあり、そこには、
『坂本 京太郎』
と、自分の名前が印字されていた。
同時に、ほっと安堵する気持ちが産まれる。
恐らくは、当たり前の会社に、当たり前に就職できたとしても感じたであろう、その気持ち。
組織に属しているという安心感。
――頑張ろう。ここを自分の居場所にしよう。
「ウェパル……さん」
「ウェパルでいいよ」
「じゃあ、ウェパル。最後に一つだけでいいから、聞いてもいいかな」
「何」
「今日の出来事はその……私の気が狂ってしまった結果観た、幻覚とかではないだろうか」
「アホか」
その後、何度か馬鹿丁寧にウェパルに挨拶してから、退社する。
今夜くらい、――ラーメンにチャーシューをトッピングしてもいいかな、などと思いながら。
鞄の底に”スタン・エッヂ”が入れっぱなしであることに気付いたのは、風呂に入る前、フリスクを一粒食べようとした時のことである。
▼
眠る前、両親にメールを送る。
メールの内容は簡潔で、
『仕事、決まったわ。イベント管理系(?)の会社。』
そして、すぐさまスマホの電源を切った。
どうせ、弁護士をやってる兄に比べてどうこう、みたいな返信が来るに決まっていたためである。
とはいえ、その日は泥のように眠れそうだった。
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