新米管理者編
初日
第2話 仕事始め
一人暮らしの男の生活汚れがこびりついた、薄暗い四畳半の一室にて。
『オッケー。採用。今から出勤してもらってイイカナ?』
そんなソロモンからの電話を受けた京太郎は、自分の耳を疑うこと数秒後、
「今……? 今からですか?」
『ウン』
「しかし……」
そこで思い直す。
昨日見た求人広告には、確かに『月収30万~』と書かれていた。
そしてその金は、都内で生活していく上で絶対に不可欠のものである。
「わかりました。三十分後に着きます」
『ワオ、素早い動き。感心デス』
電話を切り、ふた月は出しっぱなしの布団を抜け出し、手探りで眼鏡を掴む。
「三十……四十分……って言えば良かったな」
おぼつかない足取りでシャワー室へ突撃し、歯を磨き、ざっと身体を洗浄した後、制汗剤を身体に振りまき、少しくたびれたスーツを着込んだ。
――服装は自由、らしいけど……。
初日くらいはキッチリした格好で行くべきだろう。
だらしなくて怒られることはあるが、馬鹿丁寧で叱られることは少ない。前の会社で学んだ数少ない教訓の一つだった。
十分で準備を完了させ、ボロアパートを飛び出す。
一応、革の鞄を手に持っていたが、中にはフリスクと財布、くたびれたポケットティッシュが入っているだけだ。
早足で外に出ながら、昨晩まで自分の周りをまとわりついていた、漫然とした不安が徐々に振り払われていくのを感じる。
――”異界管理人”か。
どういう仕事かはよくわからない。恐らくビルとかアパート、あるいは何らかのイベントの管理をさせられるのだろうと思われた。
だが、どんな仕事にせよ、――きっと人並みに勤め上げて見せる。
そのときの京太郎の心には、そうした熱意が満ち満ちていた。
▼
それから数十分ほど後だろうか。
坂本京太郎三十二歳は今、異世界にいた。
何かの比喩ではない。
正真正銘、本物の異世界である。
その場にはそぐわぬ、フォーマルな格好で。
西洋風、ファンタジー系の世界に。
顔面の筋肉が許す限り限界まで目を見開き、京太郎は辺りを見回す。
「………………………………………は?」
そこは、――どこかの巨大な都市の一部、といった感じの空間であった。
とはいえ、人が住んでいる気配はない。
見たところ、廃墟のようだ。
右を見ても左を見ても、一面、鮮やかな緑色。
暴力的ですらある草花の浸食により、室内まで蔦が入り込んでいるのが見える。
生命の息吹に満ち満ちた地下空間。
それが、京太郎の常識ではありえぬ、――明らかな異常を示している。
「……………………………………なんだ、これ」
言葉は辺りに反響し、空しく消えていった。
空を仰ぐ。
多様な植物が張り巡らされた天井が見える。
どうやらこの都市は、地下、あるいは巨大な洞穴の中に建てられているらしい。
太陽は見えなかったが、暗くはなかった。
得体の知れない発光体が都市上部を浮遊していて、辺りを昼のように照らしていたためだ。
「嘘…………………だろ?」
少なくとも嘘ではなかった。
テレビの企画でもあり得なかった。
もしこれがテレビの企画なら……いくらなんでも予算が掛かりすぎている。
ざっと見渡しただけでもこの場所は、半径数キロ四方の洞穴に作られていた。
三十二歳の中年男を騙すのに、ここまで手間をかける理由はない。
「じゃ、……説明したとーりダカラ♪ ガンバッテネー」
振り向くと、半開きの扉からソロモンが手を振っているのが見えた。
「し、しかし、」
頭に浮かんだ洪水のような質問に答えることもなく、金髪碧眼の優男は扉を閉じてしまった。
すると、最初からそこに何もなかったかのように扉が消失してしまう。
京太郎はというと、狼狽しまくって数歩そちらに歩いた後、がっくりと膝をつく。
「あ、あ、あ、あ、……あ、ああああ、ありえんだろ、こんなの……」
異世界の管理。
そんな冗談みたいな求人が、……正真正銘の
確かに昨日、何かの新しい物語が始まるような気がしていたが。
それはもっとこう、現実世界が舞台のドラマであったはず。
ここまで突飛な展開が待ち受け得ているとは、考えも及ばなかった。
なんとなく、鞄の中のフリスクを口に含む。
口の中いっぱいにミントの味が広がって、すっきりした。
それだけだった。
▼
京太郎が冷静さを取り戻したのは、それから十数分後である。
――まあ……ここでいつまでもうずくまっててもしゃーない、か。
人間、こうした超異常事態にも対応できるものかと我ながら感心する。
――まあでも、金もらえるんなら大概のことは辛抱せんとな。
などと単純に思いつつ、あたりを見回す。
気温は……寒すぎず、暑すぎず。
少し湿気ているが、まずまず過ごしやすかった。
今、京太郎がいるのは、かつて陶磁器を専門に取り扱っていたと思しき建物の店先である。古びた白色で縁取られた看板は京太郎に読めない未知の文字が書かれていたが、店の奥の陳列棚に割れた壺や皿などが並んでいた。
――異世界っていっても、見たとこ文明レベルは高そうだな。
しかし、……このようにしっかりとした建物が放置されているのはどういう理由だろう。
嘆息しつつ、店内から古びた椅子とテーブルを持ち出し、通りが見渡せる場所に腰掛ける。
しかめ面でぼんやり外を見ていると、持ち前の脳天気さが蘇ってきた。特に根拠はないが、なんとかなるような気がしてくる。
というかそもそも、どうとでもなるからこそ、自分が送り込まれたのだと思われた。
「……よしっ」
小さく自分を奮起させ、ペンとメモ書きを取り出し、現在自分が保有している情報をまとめにかかる。
――ええと。ソロモンさんはさっき、なんと言っていたか。
思いつくまま、情報をメモに書き込んでいく。
【私の仕事=異世界の管理。
いまいるこの世界は、とても危険な状態? にあるらしい。
どれくらい危険かっていうと、あと百年くらいで世界が滅びてしまうくらい。
それを回避するためには、……”マ族”(恐らくRPGとかで言うところの、”魔族”ってとこか)を救済する必要がある。】
と。
文章にしてみると実に簡潔である。
要するに異世界の救世主になれ、ということだ。物語の登場人物みたいに。
「……………フウム」
現状を一つ一つ、噛んで含めるように確認していく。
――それにしても、”魔族”か。
いかにも、どこかのRPGを下敷きにしたみたいな名称である。
ちなみに京太郎はまだ、その”魔族”とやらがどういう存在かも教えてもらっていない。
少なくとも、ゲームの世界では大抵、物語の悪役として登場して、肌が紫色だったり角が生えてたり、……あと、ときどき娯楽目的で人を殺したりするヤツだが。
――せめて、話が通じるくらいの連中なら助かるんだが。
メモを鞄の中にしまい込む。
そしてその代わりに、一冊の本を取り出した。
そこには、古びた紺色の革表紙に金色の文字で、
『Rule book』
とある。
裏面を見ると、小さく”WORLD0147”と書かれていた。
先ほど、ソロモンから何かのついでみたいに手渡されたものだ。
との時たしか、
『コレ、役立テテネ』
と言われた記憶がある。
その後のざっくりとした説明を、言葉のまますべて真に受けるとするのであれば、――この『ルールブック』を使えば、
「この世界のルールを改変できる、か……」
さて。
これからどうしたものか。
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