悪いのは紫クチビル男。いいか先輩、私は何も悪くない。【後編】
「じゃあお前でも良いよ。お前のほうが若いし、肉付きもいいからな」
「にくっ…!」
デブって言いたいのかこの野郎! ちょっと太っただけだもん! これから痩せるから良いんだもんね!
私が気にしていることをピンポイントで指摘しやがって…!
「なにか勘違いしていませんか? 私達はあなたのファンではありません。彼女はあなたの無体を注意しただけです。何故話がそう一転するんですか?」
蛍ちゃんが私と紫クチビル男の間に割って入ってきて、私を庇ってくれた。
だけど蛍ちゃん待って、危険だよ。蛍ちゃんは美人さんなんだから狙われてしまう。
男は先程と同じ見定めるような仕草を繰り返すと、蛍ちゃんに手を伸ばそうとした。だが蛍ちゃんはその動きを察知したのか、バッと音を立てて、その不埒な手を乱暴に振り払っていた。
「…わからない人ですね。あなたのような理性のない男性のお相手はお断りだと言えばご理解いただけますか?」
蛍ちゃんの正直で冷静な拒絶の言葉。多分この紫クチビル男は、やんわりお断りをしても話を聞かないだろう。なんかこの人お酒臭いし、お酒の力もあって気が大きくなっている気がする……
蛍ちゃんから素気なくあしらわれた男は、怒りの感情が爆発したかように顔を真っ赤にさせた。その直後、男の腕が高く上げられた。
危ない! 蛍ちゃんを殴る気だこの男!!
私はとっさに前へ出て、蛍ちゃんの盾となろうとした。
──バシッ!
「…また、お前という奴は…!」
「先輩! ナイスタイミングです!」
殴られることを覚悟してギュッと目をつぶっていたが、直ぐ側で聞き慣れた声が聞こえたので私は目を開けた。
遅れてヒーローは駆けつけるってやつだね! 後もう少しで殴られると思ったけど、先輩がそれを阻止してくれた。先輩は紫クチビル男の手首を掴むと、壁に押し付けて軽く拘束していた。
はて、何故ここに先輩がいるのかな。先輩もお花を摘みにやってきたのであろうか。こっち女子トイレしかないけど。
「んだよテメェ!」
男は管を巻くように先輩にも文句をつけている。なんでこの人ライブ前に飲酒してるの? ファンの女の子に無体しようとしてさ。何の為にここにいるの?
「こっちのセリフだ。なに天狗になっているのか知らないが、晴れの舞台だと言うのに恥ずかしくないのか」
先輩も私もこういうインディーズバンドに詳しくないからよくわからないけど、こういった場は彼らにとっては大事なチャンスなのではないかな。もしかしたら音楽関係のスカウトマンが会場に紛れ込んでいるかもしれないんだよ?
そんな重要な日に何故こんな真似をするのか。
「そこ! 何してる!」
異変を察知した警備員さんがここにやってきて、事情を話すとすぐにイベント関係者へと連絡が回った。関係者以外立入禁止の場所に侵入したことを怒られるかなと思ったけど、事が事だったのでお咎めはなし。
紫クチビル男は警備員さんやスタッフに捕まって奥に引っ込められている。あれじゃあの男のバンド、連帯責任で出場辞退せざるを得ないんじゃないかな…?
「おい! 聞いてんのかぁ!? 舐めんじゃねーぞ!」
紫クチビル男がなにやら負け犬の遠吠えをしていたが、私は彼氏様による公開チャウチャウの刑を受けていたので、あの野郎の言葉に耳を傾けてあげる余裕がなかった。
「戻りが遅いなと思って嫌な予感がすれば本当にお前という奴は…! 犬でももっと賢いぞ」
「だって仕方ないじゃないですか! 女の人が困っていたんですよ!」
もっと褒めろ。私は人助けをしたんだ。あれで無視していたらどうなっていたか! 警備員さんもどこにいるかわかんなかったんだもん!
だけど先輩は私のほっぺたをつまんでブニブニと動かす。…ひどい虐待である。
先輩の手を引き剥がそうと奮闘したが、先輩は更にほっぺたを伸ばしてくる。ほっぺたが伸びたらどうしてくれるんだ。
騒ぎから離れて、蛍ちゃんは警備員と紫クチビル男、会場スタッフのやり取りを静かに眺めていた。
きっと彼女も怖かったであろう。巻き込んでしまって悪いことをしてしまった。
「谷垣せんぱーい、一応先輩も女の子なんから、こういう男を煽らないほうが良いっすよ?」
紫クチビル男が去っていった場所を睨みつける蛍ちゃんに声を掛けたのは、意外や意外、長篠君である。普段は蛍ちゃんを苦手に思っているみたいなのに……長篠君どうした。
「先輩たちが庇わなかったら、谷垣先輩殴られてましたからね? ああいう輩は女だからって手加減してくれませんよ? むしろ弱い存在ほど暴力的になる奴もいるんですから」
彼の言葉に蛍ちゃんはムッとしていたが、唇をへの字にして罰が悪そうな顔に変わった。そしてぼそぼそと「ごめん…」と謝罪していた。
蛍ちゃんは元々人に頼ることが苦手な子だ。昔の私と同じ。だけど彼女はしっかりしているので、このようなトラブルに見舞われることは滅多にないであろう。
今回のは間違いなく私のせいだ。私は人助けのために動いたけど、ここまで大騒ぎになるとは思っていなかったのだ。
蛍ちゃんは凹んでしまった。私はすぐに彼女のもとに駆け寄って謝りたかった。だけど束縛野郎が私の頬を掴んで離さない!
元はと言えば私が後先考えずに突っ込んだせいなんだ。蛍ちゃんは私を助けようとしてくれたのに…!
ごめんねぇ蛍ちゃん!! 責めるなら私を責めて!!
「よく出来ましたー」
……あろうことか長篠君は、反省して俯いてしまった蛍ちゃんのラベンダーカラーの頭をよしよしと撫で始めた。
蛍ちゃんはキョトンとした顔で長篠君を見上げているではないか。ていうか長篠君は何もしてないのになんでそんな上から目線なんだ。
ナデナデされて困惑する蛍ちゃんをひとしきり撫で終えた長篠君は次に、私にとびっきりの笑顔を向けると、両腕を大きく広げてきた。
「田端先輩! 俺が受け止めますんで、俺の胸に飛び込んで来てください!」
えぇー……
台無しだよ長篠君。今のはいらないと思うな。嫉妬した先輩が私のことぎゅむっとハグしちゃったじゃないの。チャウチャウの刑が終わってホッとしたけど、新たな火種を投下するんじゃない、後輩よ。
先輩は長篠君をムッスリと睨んでいた。
しかし声を荒げることはせずに、気持ちを落ち着かせるために深呼吸をしていた。
「……この後輩の言うとおりだ。谷垣さん、あやめのマネはしないほうが良い」
「先輩、どういう意味ですか?」
何故ここで私をディスる?
悪いのは紫クチビル男ぞ?
先輩は半眼になって私を見下ろすと、深々とため息を吐いていた。
「悪く言われたくないなら大人しくしたらどうだ、この柴犬が」
「ひどい暴言です! 先輩まで柴犬っていう!! 私は傷つきました、謝ってください!」
私はひどく傷ついたぞ。謝罪してもらおうか!
心配掛けさせた上に、男を取り押さえるのに労力がかかったかもしれないが、そこまで言わなくてもいいだろう!
「今度また危険なことに首突っ込んだら、呼び名を柴犬に統一するからな」
「やだ! なんでそんな事言うんですか!!」
私は先輩の背中をバシバシ叩いて異議申し立てをしたが、先輩はもう決めてしまったらしい。
なんだよそれ、何だその地味な嫌がらせ!! あなた私の彼氏ですよね!? どこの世界に彼女を柴犬って呼ぶ男がいますか!!
私とキスするときも「柴犬…」とか呼ぶのか!? あんまりだ!! この柴犬フェチ!
──チュイーン…!
どこからか、ベースの脳天に突き刺さるような高い音が鳴り響いた。私達は話を止めて天井を見上げたが、この音源はライブ会場の中からだ。
「あ、ライブが始まったみたいっすね」
「蛍ちゃん戻ろう!」
とりあえず話し合いは後で二人になったときにするとして、今はライブだ! 私は蛍ちゃんの手を取ると急いで観客席に戻った。会場は満席。既に観客たちは起立して盛り上がっている。人によってはサイリウムを振り回していた。
始まりの時点でこんなにも熱気があるのだ。Invincibleが音楽をお披露目したら……果たしてどうなるのであろうか。
いつも小さなライブ会場でライブをしている、蛍ちゃんの大好きなガールズバンドInvincibleが、ファン以外の観客の前で演奏する、またとない機会。
彼女たちの歌はパワフルで聞いていて元気が出る。小さなライブハウスで演奏しているだけなのは勿体ない。色んな人に聞いてほしいよね。
『もしもこれで人気が出たら、初期ファンとしては寂しいけど、彼女たちのモチベーションが上がるかもしれないし、いいチャンスかもしれない。…私は今まで通り応援するだけだよ』
このライブに誘われた時、蛍ちゃんはちょっと複雑な心境でいたようだが、それと同時に、初見であろう観客にお披露目した時の反応が楽しみで仕方がないらしい。
高校生だった蛍ちゃんが受けた衝撃を別の人も同じく受けて、いい影響が与えられたら素敵なことだよね。
ライブは楽しかった。
綺麗どころであるInvincibleが登場したときは、蛍ちゃんが興奮して声援を送り続けていた。
後々話を聞くと、バンドごとの物販でInvincibleのCDやグッズが飛ぶように売れたらしい。初見の観客が見事にファンになったというわけだ。
蛍ちゃんは自分のことのように鼻高々だったようである。
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