第97話 あなたの生きる理由

昨日から雨が降り続いている。

まだ昼間だというのに、空は雲に覆い尽くされている為に薄暗い。

晴れ間は見えない。

陰鬱な気にさせるほどの黒雲があるばかりで、その光景が今の心境と重なっているようにしか思えなかった。


冬の雨が体から体温を奪っていく。

それでも屋内に駆け込むどころか、顔を伝う水を拭う事すらせずにいた。

もはや生きる希望も、理由すらもない。

このまま肺炎でも患って死んでしまいたかった。


大豆は無い。

世界に存在するあらゆる豆を手に入れたにも関わらず、だ。

アリアにも確認を取ったが、あれが全てだという。


……大豆は、この世界に存在しない。


その結論に何度も思い至っては消えていく。

そんなハズはない、世界中を探せば、どこかにきっとある!

そう自分を奮い立たせようとしても、アリアは絶えず繰り返す。


ーーここにあるものが、世界の全てです。


もう、お終いだ。

心が絶望の沼へと沈んでいくのが分かる。

行き場も活路も見失ったと気づいた頃には手遅れ。

あとは逃れようの無い闇があるだけだ。


崖から見える景色は代わり映えがしない。

それは開拓当初から見慣れたものだった。

死ぬ前に、この光景を目に焼き付けておこうと思う。

そんな生きる屍(しかばね)となったオレの元へ、誰かがやってきた。



「こんな所に居たんだね……」



レジーヌの声だ。

オレは返事どころか、振り向きすらしなかった。

右手が暖かくなる。

彼女の手が包み込んだのだろう。

それから交わされる言葉はなく、ただ気まずい時間が流れていった。



「何しに来たんだよ」



沈黙に耐えかねて、やっと捻り出した言葉がそれだった。

レジーヌは怒るでもなく静かに言った。



「凄いショックを受けてるって聞いたから……。欲しかった豆が見つからなかったのよね?」


「そうだよ。この世界には存在しないんだってさ」


「あんなにも頑張ってくれたのにね。ごめんなさい……」


「お前が悪いんじゃない」



再び沈黙が訪れる。

レジーヌの優しさが痛い。

心の傷に触れようとする気遣いが、今は疎ましくて仕方がなかった。



「風邪ひくだろ。帰れよ」


「じゃあ、あなたも一緒に来て」


「嫌だね」


「なら、私も嫌」


「……病気になっても知らねぇぞ」


「それはミノルも同じでしょ」


「オレは良いんだよ」


「そんな事無い」


「頼むからさ。帰ってくれよ」


「……嫌」



右手を掴む力が強くなる。

なぜレジーヌは、こうも頑固なんだろうか。

普段なら気にも留めないが、それは心にゆとりがあるからだ。

今のような心境では、どこかで暴言を吐いてしまいそうだ。



「言うこと聞けよ。いくらオレでも病気なんか治せないんだぞ」


「わかってる。でも離れたくない」


「どうして」


「あなたはきっと、遠くへ行ってしまうから」


「……え?」


「役目を終えて、それでも欲しいものが無かったから……私なんか置いて、目の前から居なくなっちゃう気がして」



この言葉にはズキリと痛んだ。

それは今まで感じたものとは明らかに異質だった。

胸が締め付けられる感覚。

これは心の奥底を見透かされてしまったせいだろうか。

理屈が分からず、思考は乱れるばかりだ。



「あなたのお陰で、世界は凄く変わったの。たくさんの人が幸せになれたの! でも、あんなに頑張ってくれたあなたが、そんな顔をしてるのが……あまりにも辛くて」


「そんなに酷い顔してるかよ」


「まるで、全てを無くした人みたい」


「そっか……そこまで酷いのか」


「ねぇ、私じゃダメ?」


「何がだよ」


「私じゃ、あなたの生きる理由にはなれないかな?」



そこで初めてレジーヌの顔をみた。

髪はひどく濡れそぼり、瞳はどちらも前髪によった隠されていた。

当然全身もびしょ濡れだ。

その姿が、掠れ声の願いが、オレの心を大きく掻き乱す。

まるでトゲでも刺さったかのように、ツキリ、ツキリと胸が痛む。


だけど、そのお陰でほんの少しだけ理性が蘇ってきた。

目の前に居る人の心を気遣える程度には。



「こんな所に居てもしょうがない。場所を変えないか?」


「うん……一緒に来てくれるなら」


「わかった。オレも行くよ」



レジーヌの手を取る。

凍えているのか、小刻みに震えている。

それがまた罪悪感、そして同等の苛立ちを募らせた。


坂を降っていく。

移動中、互いにかける言葉はない。

そして雨は相変わらず強い。

そのせいか外を出歩く人の姿はなく、オレたちの異様さがより際立って見えただろう。


そのままオレの家にやってきた。

特別な意味はない。

あそこから一番近いのがここだったからだ。



「まずは暖まらないと。すぐに火を点けるから」



暖炉には十分な薪が残っていた。

魔法であっという間に燃え始めたが、部屋はスッカリ冷えきっている。

このままだと本当に病気にかかるかもしれない。

次は濡れた体を乾かさなくては。



「レジーヌも火に当たれよ、風邪をひく……ッ!?」



背中がヒヤリと濡れた。

柔らかい感触も一緒だ。

肩にかかる吐息は、断続的だった。

腰に回された手も震えている。



「レジーヌ。本気なのか?」


「冗談で、こんな事はしない」


「また酷い事を言われるぞ。魔女だの、魔術師の情婦だの」


「良いよ。好きに言わせておく」


「オレは、こういう事に慣れてない。きっと下手だし、それに……」


「良いよ」



それより言葉は続かなかった。

お互いの口が塞がれる。

こうなると、もう自制心なんか消え失せてしまう。

そのまま絡まるようにして、ベッドへと移った。


初めて触れる女性の体は、ともかく衝撃的だった。

肌が滑らかだし、腕やお腹が柔らかい。

男みたいに筋肉で固くない事を、指先が正確に伝えてくれる。


冷えた体は徐々に熱くなり、どちらからでもなく汗ばんでいく。

たぶん暖炉のお陰じゃない。

部屋の中の温度はまだまだ寒い。


そして、いよいよ『その時』を迎えた。

やはり上手くいかない。

それでもめげずに挑戦し、繋がり合う事ができた。

その瞬間、全身に強い衝撃が走った。

まるで雷にでも打たれたかのようだ。

接してるのは体の一部分だけなのに、体の隅々というか、魂に至るまで包み込まれたような気分になる。


何もかもが新しく、その一つ一つが理性を奪うのに十分だった。

だからひたすらに夢中となってしまった。

1度や2度じゃない。

気がつくと外は夜更けになっていた。

それでもオレは彼女を手放さなかった。

何度も何度も求め続け、疲れたら浅く眠る。

そんな荒れた時間をしばらく過ごしていった。


ふと目を覚ますと、外は白んでいた。

隣に眠っていたはずのレジーヌは居なかった。

焦点の合わない目を擦りながら、懸命にその姿を探す。


……もしかして、嫌われてしまったか。


これまでと比較にならない痛みが、胸に突き刺さった。

半ばパニック状態になりかけるが、彼女は部屋の奥にいた。

脱いだ服に袖を通しているところだった。



「ごめんね。起こしちゃったかな?」


「……いや、そんな事はない」


「昨日から何も食べてないじゃない? だから、畑から果物でもとってこようかなって。服も乾いてるしさ」


「そうか。オレも行くよ」


「うん。じゃあ一緒に行こうね」



それから家を出た。

夜明け前の時間帯のせいか、外にはオレたち以外誰もいない。

だからここぞとばかりに指を絡ませ合う。


我ながら不思議なもんだが、何かを『一緒にやる』という事が、とても嬉しく感じている。

それと同時に、彼女に嫌われる事が、とても

恐ろしいもののように思えた。

微笑みかけられれば同じように嬉しくなるし、泣かれればきっと、強い悲しみに襲われるんだろう。

それは昨日感じたものとは桁違いなほどに。



「ところでレジーヌ。体は大丈夫か?」


「大丈夫かって……あぁ。ミノルったら無茶するんだもん。言っとくけど初めてだったんだからね?」


「わ、悪かったよ。何というか、つい……」


「エヘヘ。そんな気にしなくて平気よ。女の人はね、結構血に慣れてるから。逆に男の人の方が苦手みたいね」


「そりゃな。怪我でもしなきゃ血を見ることなんかねぇもんな」


「まぁそうよね……って、あらぁーー」



農場の入り口にやって来るなり、レジーヌが間の抜けた声をあげた。

何かを失敗してしまったようだが。



「どうしたんだ? 変な声だして」


「ごめんなさい。せっかくのお豆さんを枯らしちゃったわ」


「マジで? そりゃあ勿体ないなぁ」


「ここ最近はバタバタしてたでしょ? それで目が行き届かなくってさ。あーーぁ、カッサカサじゃない」



レジーヌの言う通り、枝豆ゾーンは全滅だった。

生気を失い、役目を終えたかのような苗が並んでいる。

こうなってしまえば捨てるしかなさそうだ。



「枝豆は処分すっか。それとも、何かに再利用はできねぇかな?」


「再利用って、例えば?」


「肥料にするとか、馬にあげるとか。試したことないのか?」


「そうね、王国史の中でも一例すら無いわ。ミノルがやって来るまで豆は神聖なものだったし」


「そっか。だとしたら、これまでに枝豆を枯れさせた経験なんか無いわけだ」


「もちろんよ。プックリと育ったらすぐに収穫してたもの」


「うーん。何かに利用したいけどなぁ。前例が無いんじゃやりようが無いなぁ」



ほんの気まぐれで指が延びた。

それは、サヤの色まで変色した枝豆に触れる。

カサリ、カサリ。

軽い音を出したかと思うと、そこからツルンと中身が飛び出した。


その時、目を疑ってしまった。

暗がりの中、宙をひととき舞っただけだが、決して見逃しはしなかった。

オレはトカゲを見つけた猫のように、地面へと飛びついた。



「大豆だ! これ、大豆だぞ!」


「えっ!? それが欲しかった豆なの?」


「そうだよ! 枝豆を腐らせると大豆になるのか! 知らなかったよ!」


「じゃあさ、じゃあさ? ここにあるの全部……」


「全部大豆だぞぉーーッ!」



まさかの衝撃的事実。

枝豆が腐ると大豆になる。

もしかすると異世界限定の成長過程かもしれないが、そんな些細な話はどうでもいい。

オレはこの瞬間、大豆の大量生産への目処をつける事ができたのだから。


それからふと思う。

ささやかな疑問は、沸々と温度を上げ、やがて痛烈な怒りへと変貌する。



「おいアリア。何が大豆は無い、だ。適当ぶっこきやがって」


ーーお答えします。私は一言も『大豆は無い』と告げた事はありません。


「わざと失意の底に落としやがったな。性悪女め。人の心を弄んで楽しいか?」


ーー私はミノル様の幸せを願って行動したつもりですが、お気に召しませんでしたか?


「……気に入るかどうかってお前」



目の前に大豆が集められていく。

レジーヌは嫌な顔ひとつせず、こんな途方もない作業を手伝ってくれている。

空腹であるにも関わらずだ。



「……今回は不問だ。次変な事したら覚悟しろよ」


ーー大層お気に召していただけたようで。


「たまたまだ。今回は偶然上手くハマッただけだろ」



人生何があるか分からない。

一寸先は闇とか聞くが、その闇の向こうには楽園が待ってるケースもあるのかもしれない。


大豆、そして大切な人。

得難い宝物を一挙に2つも手に入れる事ができたのだ。

今日という日を、オレは決して忘れたりはしないだろう。

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