第3話
「つきひ」という名のその施設は、様々な精神疾患の患者が生活していたが、認知症患者が多く、お年寄りが大勢いた。
施設で働く看護師やヘルパーたちは、これまで出会った人達と変わらず動きが速かったが、患者のお年寄りたちの動きははるかに落ち着いていて良かった。
しかし、お年寄りたちの声が聞こえても、もはや僕には他人との会話などできない状態だった。
そして、僕はルミと出会った。
彼女と初めて出会った瞬間を僕は忘れない。
ルミは施設の中で、唯一僕と年齢が近い女の子だった。
彼女も僕のように、認知症でも精神疾患でも障害でもないのに施設に入所したケースだった。
娯楽室で、みんなから少し離れて窓辺に座って外を眺めている女の子がいた。
パッと見はショートヘアで元気のよさそうなイメージだけど、目の動きや表情は思慮深さを物語っていた。
若いけど、明るいけど、いろいろ経験して苦労してきた。
そんな感じだ。
彼女は、僕と目が合うと、少し微笑み、ゆっくりと立ち上がり、そしてゆっくりと僕に近づいて来た。
すべてが彼女にフォーカスされたヒロインの登場シーンのようだった。
10倍速で早送りをされた映画の中で、僕達2人だけが普通のスピードで動く主人公だった。
彼女は僕のそばに立つとにっこりと笑い、見つめ合ったまま、僕も自然と笑顔がこぼれ出た。
「こんにちは。私、ルミっていうの。」
周波数の合うはっきりと聞き取れる心地よい声だった。
そして僕にとって話をするのにぴったりの速度だった。
「こっ こんにちは!」
僕は驚きと喜びを隠せなかった。
世の中の速度が速くなってから、ちゃんとした会話を交わすのは本当に久しぶりのことだった。
彼女の笑顔に、僕は救われた気がした。
「私たちは、同じ時間の属性の中で生きてるみたいね。」
「同じ時間の属性?この世界の人はみんな、同じ空間、同じ時間の流れの中で生きてるんじゃない
の?」
彼女は、この世界のすべての理をすべて知っているかのような余裕のある落ち着いた態度で、まるでこの世界の隠された秘密までもすべて知っているかのように自慢げな笑顔をみせた。
「いいえ、私たちは皆違う時間を持って生きてるのよ。
それが、たまたま混ざり合って生きてるだけ。
皆、無理して頑張って同じ24時間というサイクルに合わせて生きてる。
だからみんな疲れて辛くて苦しんでるでしょう?
まるで、ギリシャ神話のプロクルーステースのベッドのようにね。」
「プロクルーステース・・・・。」
「プロクルーステースのベッドに寝かせられて、寝台から手足がはみ出たらその部分を切断され、寝台の長さに足りなければ身体を引き延ばす拷問にかけられた。
テーセウスに退治されるまで、彼はそうやって旅人たちを苦しめた。」
彼女は年老いた哲学者のような目で、飾り気のない子供のような笑顔をみせながら言った。
「君と私は、この時空で、手足をバッサリ切り落とされながら生きてきたようなものだね。」
彼女は、袖の中に手を引っ込めて、空の袖を振ってみせた。
「今、私たちの会話を他の人が見たら、面白いかもね。
滅茶苦茶に長い時間をかけてゆっくりと『こんにちは』って言ってるように見えわけでしょ?」
「こーーーーおーーーーん・・・・にーーーいーーーいーーーち・・・・わーーーあーーーーあ・・・・・。」
「きっと、こんな感じに聞こえてるよね。」
彼女はにこりともせず、さらりとそう言った。
それはまさに僕が長い間想像してきた、他人の目から見た自分の姿だった。
彼女も僕と同じように、他人の視線を想像して苦しんだ事があるのだろう。
「でも、さすがに私がゆっくり言った『こんにちは』はわからないよね。
長時間私たちの会話を録音して、早送りして音声を再生でもしないとね。でもね、」
急に彼女は内緒話をするように手を口にあて
「おかげで悪口言いたい放題。誰にも分らないんだもん。」
クスっと笑う彼女の表情が、茶目っ気たっぷりであまりに可愛らしくて、僕は吹き出して笑ってしまった。
次の瞬間、ルミは僕の手を握って施設の庭へと導いていった。
彼女の手は暖かくて柔らかだった。
むやみに僕の肩や背中を叩いて、素早く離れていく見知らぬ人々の手とは違って。
僕達は、他人が見たらとても長い時間、手を握っていただろう。
おそらく10分ぐらいかけて最初の「こんにちは」を言い、30分ぐらい挨拶をし、1時間以上かけて庭に出て、5時間以上そこで話をしていたのだろう。
それは、他人の存在しない2人だけが共有した時間。
そう考えると、僕達の出会いが、僕達の分ちあった会話が、とてもロマンチックに感じられた。
「無理して他人の速度に合わせる必要ないよ。
私たちの速度に合わせられる人を探すことも必要だと思う。
私が金井教授をどんなに入念にトレーニングしたか、君は想像もできないよ。
でも、その甲斐あって、教授は私たちと会話できるようになったんだよ。」
彼女は早送りのようにストレッチをしているお爺さんに声をかけた。
金井教授は小柄で痩せているけど、キビキビ動く優しい表情の元気な老人だった。
「ルミ!友達ができたんだね!
こりゃ素晴らしい!
私は金井だ。
みんな私を教授と呼んでる。
引退してもう20年も経つのに、みんなまだ教授って呼ぶんだ。」
金井教授は、自分は普段の10倍ぐらい遅いスピードになるように気を付けながら話をしている、と言いながら、僕達と会話してくれた。
それは、まだ僕達にとっては速い速度だったけど、他の人にくらべれば十分理解できる速度で聞こえた。
彼は亡くなった彼の猫の話をしてくれた。
暗闇から走って来て教授の足に頭突きをする元気な猫だったが、それが頭突きをしたいのか足の間をすり抜けたくて失敗しているのかわからなかったそうだ。
どっちにしても猫はゴロゴロいいながら走り回っていたらしいから、どっちでもよかったのかもしれない、と教授は笑った。
僕も猫は好きだと言うと、猫好き仲間ができたと、とても喜んでくれた。
僕はルミの発想に驚いた。
他人を自分の速度に合わせようとは一度も考えたことがなかった。
僕が2倍速く、3倍先に、5倍急いで、10倍頑張って、先を見越して、予測して、が他の人達に合わせなければならないと思い、自分を鞭打って追い込んでいた
だけだった。
「『いつもより10倍遅く話してください。』この一言を伝えるだけで一か月はかかったよ!あははは!でもそのうち、速度だけ遅くしてくれたら私は理解できるって教授もわかってくれたんだ。」
彼女は自分の努力を誇らしそうに語った。
「私の言葉を聞いてくれる人を探し出すのに2~3ヵ月はかかったよ。
厳しく選別する必要があったからね。
まず、心がオープンであること。
相手を尊重すること。
相手の立場を想像し理解すること。
そしてなにより、そんなに忙しくはないこと。
あはは。
これらの条件を全部満たす人はなかなかいないから苦労したよ。
優しくて善良な人は結構いたけど、忙しくない人はほとんどいないもんね。」
僕はルミが経験してきた試行錯誤の過程を想像してみた。
彼女もきっと、僕と同じぐらい寂しい時間を過ごしてきたのだろう。
だが、決意して心を変え、絶望を捨てた。
多分たくさんの人に話かけたのだろう。
変に思われたり、気味悪がられたりもしただろう。
なかには、ルミの気持ちは理解できても、相手をすることはできないと断る人もいて、残念な思いもしたに違いない。
それでもルミは金井教授を探し出した。
ルミが始めた小さな革命だった。
僕は彼女の勇気に驚き、尊敬の念を抱いた。
僕も、彼女のように他人に会話を試み、理解を求めることができるだろうか。
長い時間を忍耐に費やし、誰かと心を分ち合うことができるだろうか。
失敗を繰り返しても諦めない態度を保持していくことができるだろうか。
自信は全く無いが、そうすべきだと思った。
金井教授の猫の話を思い出した。
ルミは、僕の先生になった。
短い間だったけど、僕は「つきひ」で彼女と過ごせて幸せだった。
僕がこんな言い方をするのは変だけど。
やがて、周囲の風景が流れ行く様は、さらに速度を上げた。
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