#025 一万二八〇〇米

 教科棟最上階にある三年生の教室には、まだたくさんの人影が残っていた。

 突如、現れた下級生のコンビは当然だが周囲の耳目を大いに集め、ジロジロとした視線にさらされる。

 もっとも、見られているのは主に美しき生徒会副会長であって、後ろをコソコソと付いて回っている一年生など刺し身のツマほどの存在感もない。

 そして、廊下を進む先輩に対して時折、聞こえてくる『キレイ』、『カワイイ』と言った類の称賛。

 声を上げたのは多くが三年生の女子であったが、ここからひとつの傾向が見て取れた。


――やはり、最上級生には先輩の威圧的な言動は通じない。


 彼らにしてみれば、いかに舌鋒ぜっぽう鋭く生徒たちを睥睨へいげいする美しき生徒会副会長であっても、しょせんはひとつ年下の女の子なのだ。

 そのずば抜けた容姿に憧れや関心を寄せても、とある一年生女子のような崇敬の念までは抱いたりはしない。これはいまから対峙する長谷川先輩もきっと同様だろう。


 胸騒ぎの予感が脳裏をかすめる。

 先輩の極めて攻撃的な性格と言動によって最悪の事態が引き起こされる展開を頭の片隅に置き留めた。これが杞憂に過ぎないことをいまは切に願う。


「3ーA、ここね……」


 行動開始の起点である生徒会準備室から渡り廊下と階段を使い、ほぼ三年生のクラスを横断する形で目的地へと到達した。

 大きく開かれている扉を抜け、先輩が室内へと一歩、足を踏み入れる。


「失礼いたします。このクラスの長谷川先輩はまだいらっしゃいますでしょうか?」


 呼びかけに教室中の視線が突き刺さる。

 最初は校内でも名の知れた人物に対する好奇心かと思われたが、よくよく観察すると少し事情が違うようだった。

 ハセガワというワードに、いくつかの視線が教室の片隅へと移動した。その方角に目を向けると、窓際後方の席に腰を落ち着かせているひとりの男子生徒の姿が確認できる。緩いウェービーな頭髪に痩けたような細い顔つき。耳には大きなヘッドホンを付けて、目をつむったまま音楽に没頭している。


――あれが長谷川さんか……。


 まるで自ら孤独を楽しんでいるような態度。

 わざと着崩した制服。大きく開いた上着の下にはオレンジのパーカーを着込んでいた。なるほど、クラスの中ではあえて壁を作って級友と距離を置くタイプか……。

 ならば、さっさと授業が終わり次第、下校すればいいのに、こうしていつまでも教室に残っている辺りが捻くれ者のさがなのである。


「……あれがそうね」


 目ざとく対象を見つけ出した先輩が臆する素振りもなしにズカズカと三年生の教室に踏み込んでいく。室内にいる他の生徒たちは、これから何が起こるのか予想もつかずにただ黙って見守るのみだった。

 ぼくも急いで彼女の背中を追いかけていく。このままでは獣同士の激しいぶつかり合いが始まりそうな予感がしたからだ。


「おくつろぎのところ、失礼するわ。あなたが”長谷川比叡汰ピエタ”さんね?」


 近づく人影に気配を察した長谷川さんが閉ざしていた瞳をゆっくりと開いた。耳にしていたヘッドホンを頭から外し、すぐ目の前に来ていた下級生の女の子を視界に認める。


「あ? なんだよ、生徒会副会長がおれに何か用か……」


 さすがは全校に有名轟く先輩だ。自ら名乗るよりも先に向こうがその存在を口にした。


「文化祭のステージ発表について、ご相談があります。少し、お時間をいただけますか?」

 

 まずは穏便に話を進めようと慇懃いんぎんな態度で接する。らしくないとは思ったが、一応は目上の人間である。彼女だって【礼儀】くらい、ほんの少しはわきまえているのだろう。


「必要な書類はお前のところの会長に渡した。あとは黙って準備を進めればいいんだよ」


 そっけない反応を見せた長谷川さん。瞬間、綺麗に整った先輩の眉間に小さくシワが寄る。ほんの二言三言で、もう我慢の限界に達したようだ。ある程度、覚悟はしていたが予想以上に展開の広がりが早い。


「自分勝手な言い分で全体の計画を台無しにするような行為を控えなさいと、言っているのよ。悪いのは耳、それとも頭? もしかして両方なの?」

「……んだと、てめェ。ちょっとばかりチヤホヤされているからって、調子に乗ってるなよ」

「こちらが支持されているかどうかに関係なく、あなたのやり方が間違っていると指摘しているの。そして、仮にわたしが”チヤホヤ”されているとしたら、その理由はまさにいま、あなたがしているような【姑息な手段】を決して許さないからよ」


 先輩はいつも以上の『正義と正論』を大上段に振りかざし、三年生に対抗していく。彼女は常に正しい。論拠も論法も完全に相手を圧倒していた。長谷川さんがやっていることは単にルールの間隙を縫って、自分に有利な状況を作り出そうとしているだけだ。その行為に第三者が認めるような”社会的公平性”や”法の下の平等”は認められない。

 だが、世に数多あまたの理不尽がまかり通るように、『正義』と『正解』はイコールではないのだ。現実は汚いやつが得をして、真面目な人間ほど割を食うように出来ている。なので、ぼくは小賢しく知恵を使うことにした。


「ま、待ってください!」

「なんだ? お前は……」


 互いにヒートアップして、のっぴきならない雰囲気を醸している先輩と長谷川さん。

 その間に割り込む形で横合いから口を差し挟み、両者の破局的展開カタストロフィーを食い止めるべくインターセプトを試みた。


「……えっと、自分は一年の東堂です」

「お前が例の生徒会の【飼い犬】か」


 いよいよ畜生にまで存在が落ちたぞ。

 そして、このとき自分が”羊飼いに操られて草原を走り回る一匹の牧羊犬”にすぎないことを暗に理解した。さらに上級生の言い草がよほどかんさわったのか、先輩が口を尖らせて相手の発言に物申す。


「失礼ね。これでも忠誠心に長けた存在なのよ。しつけが足りなくて時折、手を噛もうとするけど……」


 あ、犬であることは否定しないんですね……。

 フォローどころか追い打ちにかけてきた副会長の声にようやく振り絞った勇気がたちまち萎える。まあ、力みが取れてリラックスしたと考えればいいか。ひょっとすると先輩は、ぼくの口調がいつもより緊張を帯びていると感じて、わざとけなすような言葉を選んだのだろうか。

 最大限、好意的な解釈を選んだ後、ふたたび最上級生の方を向き直した。


「実は今回の企画について、ひとつお尋ねしたいことがあるんです」

「あ? やることは紙に書いてあるだろ」

「そうですね。演目は『フリースタイルMC(マイクコントローラー)バトル』。つまりは特定のテーマを決めずに即興でラップを披露し、互いに内容を競うというものです」

「お、おう……。そうだな」


 キチンと中身を把握していたぼくの説明に思いがけず面食らった様子の長谷川さん。

 誰かを説得したいと考えた時、まず重要なことは相手が何を求めているのか正確に把握することだ。要求に一〇〇%で答えることは出来ない。でも、それを知っていれば、互いの間で【妥協】を成立させる余地が生まれてくるのだ。


――『優れた経営者とは顧客の要望を常に完璧に把握しているものだ』という誰かの言葉を思い出す。


”人間は最初に完璧を求めて、八割の顧客は適度に安価な商品の中からひとつを選び出し、それで納得する。残った二割は自分が満足するまで金に糸目をつけず、欲しいものを絶対、手に入れるのだ。最も重要なことは、その二割の需要を常に満たすことである”


 経営の神と呼ばれた人物の実践的マーケティング理論は、ぼくの心にシンプルな答えをもたらした。

 人間は使える資産やふるえる権力を手中にすると、それを浪費せずにはいられないという習性だ。そうしないと精神の安定を保てないから。

 なぜか? その理由は心に不安を抱えているからだと想像する。

 無理難題は強気から生み出されるのではない。人の心の弱さが積もり積もって一番、最後の現場にシワ寄せとなって具現化しているだけなのだ。

 では、長谷川さんは一体、何を恐れている?

 ぼくの興味の対象は、ただ一点に絞られていた。


「お聞きしたいことは単純です。勝負の相手はだれですか?」


 こちらの問いかけに三年生の表情がいきなり凍りついた。

 ”バトル”と銘打っている以上、やることは複数の人間による対戦形式のゲームだ。

 戦いの内容が何であれ、ひとつだけ間違いないのはふたり以上の参加者がいなければ企画が成立しないという現実。なのに渡された申請書の概要欄には共演者の名前が記されてはいなかった。

 言いたくないのか、言えないのか?

 どのみち不自然には違いない。


「そ、そんなこと、どうだっていいだろ」

「さすがにステージへ上がる人間を正確に把握しておきませんと、進行がスムーズにいきません。司会者もパフォーマーを紹介するのに困るのではないでしょうか?」

「あ……」


 ぼくの声に長谷川さんがとまどいの気配を見せた。どうやら、司会者のことも頭の中から失念していたらしい。ラップバトルの舞台に司会進行役とDJは必須だ。それすら考えずにステージに登ろうとしていたのか……。

 どうやら間違いなさそうだ。

 あの雑な仕上がりの講堂利用申請書は書くのが面倒だったからではない。

 あまり詳しく書き込みたくなかったのだ。だとすれば、なおさら確かめておかねばならない。彼がいま現在、抱え込んでいる問題とその事情を……。


「…………おれの相手は『JINK』だ」

「はい?」

「対戦相手は”JINK”だよ! これでいいだろ!」

「いえ、その……。ジ、ジンクというのは一体、どなたですか?」


 突如、告げられた仔細不明な単語に目を丸くして聞き返す。

 な、なんだ? 【JINK】というのは人名か?


「詳しいことは、ほかのやつに聞け! とにかく、おれはステージでやつと決着をつける! JINKにもそう伝えておけ、いいな!」


 最後に吐き捨てるような声を言い残し、長谷川さんが席を立った。そのまま勢いを付けて弾むように歩き始める。目の前のぼくを押しのけるように肩で無理やりに道を空けさせ、脇目も振らずに教室の扉を抜けていった。


「なんて身勝手な人間なの……」


 後方であきれたように先輩が小さくつぶやいた。その感想には自分も同意する。

 しかし、いまは何よりも優先して解決しなければならない問題があるのだ。ひとつは謎の【JINK】という人物の正体。さらにもうひとつ。こちらはさらに深刻なのかもしれない……。


「どうしましょうか? とりあえず判明したことと、さらにわからない事柄ことがらが増えました……」

「わかったことは、あの人物がいま何かしらのトラブルを抱え込んでいるということかしらね」


 さすがは先輩である。

 あの短いやり取りの中で行われた会話から、根本的な原因を鋭く見抜いていた。

 彼はいま切羽詰まった問題に頭を悩ましている。だからこそ、その解決に一見すると強引すぎる手法を用いてまで白黒をハッキリつけようとしているのだ。


「……そうですね。長谷川さんはトラブルを解消するために文化祭のステージという場所を選んだ。これは異論がないでしょう。さらに因縁の相手と思われるのは、”JINK”なる存在です。しかし、これがだれであるのかぼくには全然、予想がつきません」

「ああ、それならわたしが知っているわ」


 ?

 意外すぎた返答に頭の中で疑問符がデカデカと浮かび上がる。

 なんだと?


「そう驚いた顔をしなくてもいいわよ。わたしが彼のことを知っている理由は単純明快よ。去年の文化祭のステージにその人物が出ていたから」

「あ……そういうことですか」


 なるほど、それならば納得もいく。

 去年の文化祭の出演者ならば先輩が知っていても当然だ。

 ん! となると、該当の人物もこの学校の生徒なのか……。


「彼の名前は『竹中甚句郎』。この学校の同じく三年生よ」


 タケナカジンクロウ……。だから『JINK』か。

 にしてもだ。


――戦国武将みたいな名前だな。


 名前だけで人を判断するのはどうかと思うが、ぼくのファーストインプレッションは野武士のような人物像だった。


「どうしますか、先輩。せっかく三年生の教室まで来たんです。その竹中さんにも会っていきますか?」


 とりあえず、次の行動予定をうかがう。一歩前進だが、大きく事の根本に迫ったわけではない。目の前は未だ五里霧中だ。少しでも早く真実に近づきたいところだが……。


「いいえ。残念だけど、その人は放課後にいつまでもダラダラと過ごして人目を引こうとするような底の浅い人物ではないわ。キチンとした目標があって、残り少ない学生生活を過ごしているの。……それに少し情報を整理する時間もほしいから、今日のところはこのまま撤収しましょう」


 やけに口数多く本日の活動を切り上げようしている。

 

――無理もないか……。


 いくら強気が自慢の副会長でも、いざ実際に三年生の男子と向き合ってみれば多少の恐怖は感じるだろう。しかも相手はやから同然の態度を見せつけてくるような人物である。表には出さないが、きっと先輩は少しでも早くここから立ち去りたいのだ。それでも自分の敵とみなした存在に対して、嫌味のひとつを欠かさないのは気丈な反骨心である。


「そうですね。一応、長谷川さんが何をしようとしているのかは、なんとなく把握できました。一旦、戻って明日にでもまた竹中さんを訪ねるとしましょうか?」


 こうして金羊毛を追い求めるぼくらの冒険は最初の一日を終えた。

 出会ったのはとんでもない【黒い羊】であったわけだが、さてはて次こそは念願かなってコルキスの王に出会うことができるのだろうか……。

 羊を巡る航海は風任せの運頼みである。

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