#007 花の名前
美しき副会長の思いもよらぬ暴言で雰囲気は最悪だった。
きっと教頭先生も自分の耳を疑っていることだろう。
ちなみにぼくが花に詳しい理由は、まだ小さな頃、量販店の園芸コーナーでパートを勤めていた母親の影響だ。
母は季節外れとなった花の
なので、”男の子なのに気持ち悪い”などという感想は我が家に対しての明らかな侮辱である。先生にはぜひ教育者として、ビシッと注意をしてもらいたい。
後輩に向かい、性を理由にした差別的表現など決して許されるものではないからである。
そして、ぼくが期待を込めた眼差しで見ていると、教頭が長い沈黙を破ってついに声を漏らした。
「ではなぜ、この絵にはサルビアの花が描かれているのかな、東堂くん?」
聴こえなかった振りをして、堂々とスルーされた。
これが汚い大人のやり方である……。
でもまあ、しょうがない。かたや才媛の
どちらの立場を優先するかと問われれば、迷う必要もない。
「残念ですが、ぼくはこの絵に対して、作者の人となりや題名に込められたメッセージを知る立場にありません。ひとつの可能性としては、たまたまこの絵を描いていた時期に咲いていた花がサルビアであったというケースですが、これは単なる想像です」
「そう……。だから彼女はこの花を選んだのね」
突然、副会長がひとりごちる。
その声に今度は教頭先生が何かに気づいた様子で視線を向けた。
「石神くん。この絵を描いたのはもしかして……?」
自分が【夏の花】を指摘した途端、ふたりは相次いでぼくの知らない何者かを想起したみたいである。いきなりなんだ?
「お察しの通りです、教頭先生。この絵を描いたのは”奈津野”さんです」
「
聞いたことのない人物の名前がいきなり出てきた。
先輩たちは互いの共通認識としてその人のことを口にしている。
取り残された格好の自分としては、助けを求めるように辺りを見渡すのみだ。
だが、探している答えはどこにも見つからなかった。
「わかった。きみたちの要望を受け入れよう……。受賞作の選考に関しては実行委員会に一任する。これでいいかね?」
教頭先生が大幅な譲歩を提案する。
その声にまずは副会長が大きく頭を下げた。
「格別な配慮を
「そこまで何もかもをきみたちが引き受ける必要はない。生徒の心の叫びを受け止めるのが、わたしたち教師の一番の努めだ。たとえ、それがすでに学校を去った人物であったとしてもだ」
思いつめたような声色で自身の立場を明らかにする。そうした大人の判断に先輩は異を唱えることもなく、うつむいたままさらにもう一度、頭を下げた。
「それでは行きましょう、東堂くん。教頭先生、お手間を取らせて大変申し訳ございませんでした」
顔を上げ、いまだ事態を正確に飲み込めていないぼくに退去をうながす。
副会長はそのまま身をひるがえし、職員室の出口を目指して歩き出そうとした。
「あ。ちょっと、待ってください……」
置いてけぼりになるのを恐れ、急ぎあとを追いかけようとする。
そこに教頭先生の声がまた聴こえてきた。
「東堂くん……。きみは、なぜわたしがこのコンクールの審査を引き受けているのか、わかるかな?」
不意の謎掛けにあせって顔を元に戻す。
そこには何やら深く思いつめているひとりの教員の苦悩が感じられた。
「いえ……。よくはわかりません」
「素直だね。その素直さであれば、はじめから彼女の存在を知っていたわけではないのだろう。純粋にふたつの絵を見比べ、そこに描かれている作者の意図を発見したというわけか。実に素晴らしい。石神くんがここにきみを連れてきた理由がよくわかった」
なんだか勝手に自分の評価がうなぎのぼりとなっている。
別に嬉しいわけではないが、なぜそうなっているのかは興味があった。
とはいえ、ここでいつまでもグズグズしていては先を進む先輩がどこかに消えてしまう。そうなって、ひとり取り残されてしまうのはとても耐えられない気がした。
困った二律背反に悶々としていると、さらに続けて教頭先生が話を広げていく。
「毎年、何人もの生徒が少なくない時間と持てる情熱をかたむけて文化祭用の作品を作り上げていく。本来であれば、そこにわたしが優劣をつけるなど、おこがましい話だ。だからこそ、今年はすべての作品を展示するという生徒会の方針を聞いて、とても感心すると同時に安堵した。だれの努力も無駄にならないというのは、わたしが心の中で密かに求めていた答えだからね」
おおっと。
副会長は”枯れ木も山の賑わい”などと
というようなことを本人の前で告げたら多分、また叱られてしまうのだろうな。
つくづく、困った人だ。
「だが、それでもどの作品がもっとも優れているのかを決めなければならない。なぜなら、みんなが一番になりたいからだ……」
コンクールに応募してくるのだから、それはまあ当然かな……。
参加賞で満足できるのは、習い事の発表会で初めて作品を人目に晒したときだけだ。
人は、いつだって他者から認められたいし、称賛も受けたい。
そのためには競い合って一等賞に選ばれなければならないのだ。
なぜなら一番すごいものにこそ、たくさんの注目が集まるのだから……。
「そして、選ばれし者は栄光に包まれる。残念ながら選ばればなかった人たちは……。結果に失望し、違う道を模索する者や悔しさをバネにして、ふたたび立ち上がる子もいる。だが、すべての人が
少しためらうようなその声に気持ちがざわつく。
伝えようとしていることをなんとなく察してしまったからだ。
「どれほどの
先生が何を語ろうとしているのか、いまハッキリとわかった。
ぼくは生徒会準備室で副会長に向かって、「審査は美術講師がすればいいのに」と語ったが、これはまったく的はずれな意見だったようだ。
たとえ美術の先生がどれだけ正しい評価を述べようとも、結果として選ばれたのが美術部の生徒だったら、そこにあるはずのない陰謀を透かして見るのが人間だ。
”何で決めたかより、だれが決めたかのほうが重要”と先輩が語っていたのは、ある種の真実を踏まえた上での結論なのだろう。
「わたしが審査を引き受けてからもつまらない噂や取るに足らない誹謗中傷が聴こえてきたのは一度や二度ではない。それもまた人間の悲しい習性だよ……」
「あの……。ひとつ、いいですか?」
意を決して質問を口にしようとする。
教頭は黙ったまま小さくうなづいた。
「先程、話題に上った『奈津野さん』という生徒はどのような方なんですか?」
「聞こえていたのかね……。まあ当然だな。しかし、その人物については石神くんから話を聞いたほうがいいだろう。わたしがきみを呼び止めた理由は、審査を彼女が引き継いだ以上、今度は理不尽な批判の矛先がそちらに向いてしまうからだ。わかるかね?」
「…………はい」
「では彼女の力になってあげたまえ。わたしが言いたいのはそれだけだ。すまなかったね、無理に引き止めてしまい……。もう、いってよろしい。期待しているよ、
最後に教頭先生は告げてもいないぼくのフルネームを読み上げた。
”顔と名前はまだ一致していない”
つまりはすべての生徒の名前を覚えているという話は本当だったわけだ。
感動するよりは感心してしまった。聖職者としての
「失礼します、教頭先生」
最後に副会長と同じように大きく頭を下げて挨拶をした。
別に大袈裟な態度を見せようとしたわけではない。
ただ、自然のうちに体が動いていた。
きっと先輩も同じような気持ちだったのだろう。
◇◇◇
職員室の扉を抜けると、すぐ目の前の廊下に美しき人影が見えた。
退屈そうな表情で壁に背中を預け、手持ち無沙汰を慰めるように指先で長い髪をいじっている。
「お待たせしました、副会長」
声をかけると、相手の視線がぼくの方に向けられた。
「随分と話が弾んでいたみたいね。予想していたよりも長く待たされたわ」
少しだけ不機嫌そうな顔でこちらに苦言を
――ん? そんなに時間がかかったかな……。
自分では教頭と話し込んでいた時間はほんの数分間だと思っていた。
「わたしと会話するときは、いつも二言三言で会話を切り上げようしているわ」
「あー……。いや、それは」
するどい指摘に、つい条件反射で『怖いからです』と答えそうになり、慌てて口にしかけた声を飲み込む。言いよどむこちらの様子を鋭く
「いま、なんと言いかけたの?」
「……えっと、キレイな女の人が苦手なんですよ、ぼくは」
ごまかすような態度で調子よく場を取り繕う。
思ってもいないことを口にするのは
「ふーん…………」
割りとぼかした感じで口にしたのだが、きっと伝え方が良くなかったのだろう。
先輩はいきなり背中を向けて廊下を歩き始めた。
突然の行動にどうしたのかと驚く。そうすると、振り返りもせずに彼女はふたたび声を発した。
「早く来なさい。次は美術教室に行くわよ」
「美術教室? どうしてそんなところに……」
「決まっているわ。受賞を取り消された美術部の部長に経緯の説明をするのよ」
なるほど、たしかにそれは必要だ。
まだ発表はされていないが、審査の結果くらいは受賞した本人に伝えられていたのだろう。理由はいまだ謎に包まれたままだが、事実として選考が覆されてしまった以上、それを当人に直接、伝えるのは主催者の責任だ。
「あの……。副会長」
「どうかしたの?」
前を行く先輩の背中に恐る恐る問いかける。
彼女は静かに足を緩め、ぶっきらぼうに尋ね返してきた。
「ぼくは何か失礼なことを言いましたか?」
「どうして、そんなことを聞くのかしら」
「いえ、なんだか様子が怒っているように思えたので……」
普段からミステリアスな存在だが、いまはなんだか意識的に自分と距離を置こうとしているみたいだった。
あまり不用意に近づかれるのは心臓に悪いが、避けられてしまうと精神的に心細くなってしまう。なんと言っても陰キャラのぼくがクラスの中で居場所を残すには、副会長のアドバイスを受けて文化祭の企画を成功に導くしかないのだ。
「ごめんなさい。ちょっとだけ、気持ちが動揺しているのよ……」
動揺?
周りから『茨の女王』と呼ばれ、恐れられている副会長が一体、何を驚いているのだろう。
「……きみがいきなり、変なことを言い出すから」
「え! なんですか?」
これまで聞いた覚えのない消え入りそうなほど小さなつぶやき。
急いでぼくが聞き直すと、副会長はこちらの声を無視してさっさと歩き始めた。
相変わらず相手をするのが難しい人だ。
何を考えているのかサッパリわけがわからない……。
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