Curtain Call
抜けるような青空に、天高く鳴り響く鐘の音。
うるさい。というか、頭が割れる。昨晩は少し飲み過ぎた、と、フレイラは
独身最後の夜だから、と昨晩無理矢理付き合わせたエイミーは、しかし笑顔でチャペルからその姿を現す。当然だ、あの子は牛乳しか飲んでいない。でも独身最後よこれが最後のチャンスなのよ、と強引に飲ませた赤ワイン、そのたった
「ちょっとフレイラ、そろそろくるわよ。あんた、アレ取らないとじゃないの?」
フレイラと同じく参列した、受付の同僚の言葉。盗るとか盗らないとか、そんな騒動はもうこりごり、とフレイラは力なく手を振る。あの悪夢のような騒動から、もう一ヶ月が経っていた。
あれだけ頑張ったのに何故、と何度も枕を濡らしたのは、都合二回にもわたるブラスクラム・チャンネルでのアピールについて。反響として殺到すべき素敵な男性からのアプローチ的なものは、しかしただの一通たりとて存在しない――まあ当たり前だ。あの事件の直後、ブラスクラム・チャンネルは一体どういうわけか、あっという間に営業停止の憂き目にあったのだから。
「まだ落ち込んでるわけ? 切り替えなさいよ。クビにならなかっただけ儲けものよ」
だとか、同僚のその慰めは何のフォローにもなっていない。いっそのことクビになれば良かった、寿退社的な意味で――と、そう思いこの式にも参列したのだけれど、しかしこの二日酔いではどうにもならない。こんなときばかりきっちり全員参加する受付の連中はどう考えてもまともじゃないし、そしていよいよブーケが宙に舞う直前のいま、フレイラの
青空の下、天高くブーケを掲げる花嫁、エイミー。きゃー素敵お幸せにー、と声援あるいは悲鳴の上がる中、ドレスの裾が汚れるのも構わず、がに股に座り込んだままのフレイラ。見上げた瞳に、純白の花嫁が遠く霞む。
お幸せに、と。あらん限りの祝福と呪詛を込めて呟いた、その瞬間。
エイミーが、フレイラを呼んだ。声にこそ出さなかったものの、しかし小さく唇を動かして。困ったように眉を曲げた彼女は、しかしすぐに満面の笑顔に戻って、小さくウインク。手にしたブーケを手渡したのは、何故か隣の花婿だ。
「私、こういうの苦手で……皆さんご存じだと思いますが、いつも逆方向に飛んでっちゃうので、代わりに彼が」
その言葉に、どっと笑いが巻き起こる。確かにそれは言葉の通りで、でも花婿も花婿で例の事件、相当な怪我を負ったはずだ。何やら後遺症のようなものが残ったなんて話もあって、それを「大丈夫なのかしら」と眺めていたフレイラの目に、しかし飛び込んできたのは思いもしない光景。
タキシードの上着を脱いだ花婿が、ブーケを握り締めて雄叫びを上げる。気迫の咆哮。そして、その場にぐるんぐるんと回り出す――これはもう、どう考えてもハンマー投げのフォームだ。一体どこに飛ばす気だ、と、参列者一同が目を見張る、その中で。
フレイラはひとり、立ち上がった。
放たれたブーケが、風を切り。凄まじい速度で一直線、あっという間に星になる。人間の力じゃない――が、しかしそんなことは関係なかった。計算式は単純だ、つまりあのブーケよりも速く走ったなら、その落下地点に先んじて到達できる。ドレスの裾を
「誰も取ってくれないだなんて、そんなの嫌ですよ、先輩!」
任せておいて――と、
ぱぁん、というその破裂音は、なるほどスタートにはお馴染みの合図。
最速の伝説が、いま再び、幕を開ける――。
§
おや花火ですね、とまた、思わず呟く。
はい何でしょうか、と聞き返されるのが、もう
社長室の椅子は、決して座り心地の良いものではなかった。
後ろ暗いことばかりやってきたこの企業の、精算をこなすのは骨の折れる作業だ。しかし自ら志願した以上、やり遂げるまではそうそう弱音も吐けない。というよりも、吐いている暇がそもそもなかった。人はひっきりなしに訪れるし、電話は四六時中鳴りっぱなしだ。この状況で部署の人間が全員揃って休暇を取る、そんな受付のひとたちは明らかにどうかしていると思う。しかしいまのファナは、それに文句を言う暇さえ持ち合わせていなかった。
社長室の机、その上に投げ出された書類に目を通す。『コルドナ・ファッテンブルグ前社長のその後の処遇について』。思った以上のことは書かれていなかった。彼はあれから州警察に身柄を拘束され、そして今もなお取り調べを受けている最中だ。一ヶ月前の騒動をきっかけに、クレッセリア財閥と
とはいえ、彼も思ったほどの悪事を働いていたわけではない。研究された薬剤はどれも違法といえるほどのものではなかったし、最上階の娼館にしたところで、実質は彼個人の持ち物というわけではなかった。そも、大規模な悪事を行えるほどの器ではない――というよりも、どう頑張ったところで三下止まり、根っからの悪人にはなりきれないのが、あのコルドナという男だ。身の丈に相応しい処罰を受け、それなりの償いさえ果たせば、彼もいずれ自由の身になれるだろう。
いくつかの書類に目を通すうち、その中の
――外部にて処理。連絡先は
「……そういえば彼ら、今日はこちらに来ているのでしたっけ」
はい何でしょうか、と聞き返されるからもう本当に面倒くさい。ていうか何しに来たんですか、と机の向こうに立つ男を
これから、スラムの視察に行かねばならない。財閥の寄付金による支援が行われているのを見届けるためだ。書類を全てトレイに放り込むと、ファナは机の引き出しを開ける。中から取りだしたのは、一枚のコイン。あの後、結局取りに戻ってしまったそれを、ポケットへとそっと忍ばせる。
――そういえば、今日も三日月の日。
はい何でしょうか、とか、もう本当にうるさい。
ヒールの音を廊下にこだまさせて、社長代理は廊下を突き進む。
§
「ギョウちゃん、落ち込むといつもここに来るよね」
その言葉にエイジは、振り返らなかった。その方が格好いいと思ったからだ。思ったのに、でもユエンにはそんな繊細な男心なんて通じるはずもなくて、無理矢理力ずくで振り向かせようとするものだからもう本当に痛い。ちゃんとこっち見なさいってば、だとか、拳のシャワーを浴びせながらいう言葉じゃないと思う。
「この給水塔、壊されちゃうんだってね」
「ギョウちゃん、もう落ち込んだときに来るところ、なくなっちゃうね」
そう微笑むユエンに、エイジは「もう、いいんだ」とだけ返す。「いいって何が」とか聞いてくるから、「いいんだ」と繰り返す。なんとなく、もう卒業しなきゃいけない気がした。だから黙って立ち去ろうとして、でもユエンがどいてくれないからそれが出来なくて、あまつさえ「ちゃんと理由言ってよ」とかもう本当に滅多打ちにしてくるのだから
「でもユエンは、なんでこんなところにいるの」
と、傷だらけの腫れた口で言うのは大変だった。給水塔に背をもたれたユエンは、いいじゃない、とそっぽを向く。いいわけがなかった。今日は確か、ユエンのお母さんが会いに来る日、だったはずだ。でも余計なことを言えば、きっとまた殴られる。
だからそれはやめておこう――。
と、そう思っていたはずなのに。
「駄目だよ」
気づけば握っていた、少女の手。どうしてだろう、なんて、考えようとも思わない。駆け出すエイジの脚力は、きっとユエンに比べればずっと貧弱なはずだ。それでも手を引かれるままに、何も言わず。顔を伏せたまま付き従う、幼なじみの少女。
思わず口をついて出そうになる、ずっと言えなかった、本音の一言。
「ユエン、俺さ。実はずっと前からユエンのこと――」
それを、遮るかのように。
わん、という、鳴き声。見ればすぐ隣を、見覚えのある影が追い抜いてゆく。野犬。この野郎せっかくのいいところを邪魔しやがって、という文句は、しかしユエンの言葉の方が早かった。
「ちょっとギョウちゃん、犬に追い越されちゃってるじゃない! もっと、速く!」
そう言っていきなり加速する、その少女の手に引きずられる。いつもこうだ、とエイジは思い、でも悪い気はしなかった。心なしか、赤く充血していたユエンの目。本当は泣いていたのかもしれない。でもいまの彼女の笑顔には、その跡なんて微塵もない。ユエンはいつも前向きで、元気で、そして大体やりすぎる。引きずられるエイジの腕やら脚やら、その皮膚が地面にこすれて
落ち込んだときに行くべきところなんて、本当は昔から、必要なかった。
§
この街には馬鹿しかおらんのか、という怒声。
さすがに聞き飽きたが、しかしその感想をそのまま言うほどキースは愚かではない。ただ無言でタブレットPCの
「今日は三十通だぞ、三十通! あれから一ヶ月も経ったというのに、この街の馬鹿どもはどうしてこう飽きもせずイタズラを繰り返してばかりおるのだ。しかもコソ泥の予告状の真似事などと、まったく不埒にも程がある。進歩がないのかそれとも物事を考える能力がないのか、一体どっちなんだキース。ええおい、聞いておるのかキース。大体だな、この件に関して
いいから仕事しろ、などと、そんなことを言うわけにもいかない。タブレットPCのカバーを折り畳むと、キースは落ち着いた所作で立ち上がり、そして答える。
「まったく
「いや、それはうん、さすがに可哀想な気がせんでもないが」
「まこと深淵なるそのご慈愛、わたくし感動を禁じ得ません」
案の定黙り込む、この上司の卑小さは相変わらずだ。大体こんな現場にまで来て、いまさら言っても仕方のないことをいつまで
「いや、しかしなキース。前にも言ったが、わしはどうもこういうところに縁がない。一ヶ月前も死ぬ目に遭ったばかりだ。だというのに、なんでまたわざわざ、イタズラの手紙ひとつでわしらが現場入りしなきゃならんのだ」
それがどうも、イタズラとばかりも言い切れない状況でして――と、キースは鞄からビニールの袋を取り出した。その中には、ひとつのレターセットがある。見覚えこそないが、しかしどこか見慣れた感のある、この無駄に可愛らしいアルパカの装飾は。
「まさか、
突然その目を輝かせるバードマン。この現金さ加減、とてもあと少しで五十代に手が届く男とは思えない。しかしそんな感想はおくびにも出さず、キースは指を二本、突き立てる。
「それを調べるために来たのですがね。いかがです、この間の、リベンジも兼ねて」
その言葉に、バードマンが袋をかすめ取る。中のレターセットを取り出して、それを何度も凝視しながら、
「リベンジといっても、あれは結局『勝者なし』のノーカウントということになっただろうが。だからだな」
と、差し出した手のひら。そこに突き立てられた指は、四本。
「この間の分に
了解です、とキースは両手を打つ。
「
何がだ、というバードマンの言葉。歩き出しながら、キースは訊ねる。
「そんな簡単に、本物だと言い切っても。確かに見た目はそれらしいですが、しかしここ最近のイタズラの例はひどすぎる。これもそのうちのひとつと考えた方が、確率的には」
キースの言葉を遮るバードマン、その歩みが、自動ドアの先へと刻まれる。一ヶ月ぶりのその場所に再び響く、ふたりの警察官の、足音。
刑事の勘、ってやつだな、とバードマンは前置きして――。
「文章をよく読んでみろ。こんな歯の浮く文言、あの男以外に、誰が書く?」
翻るコートを見つめながら。キース・クーパー捜査官は、心の中で敬礼する。
――ごもっともです、主任。
上階へと向かうエレベータ、その向かう先の、遙か上。日の傾きかけた空の端、人知れずひっそりと、その姿を現すのは。
一ヶ月前。この街からたったひとつ、しかし確かに盗まれたもの。
その代わりに、不夜城の上にやがて君臨する――三日月だ。
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