Curtain Call

 抜けるような青空に、天高く鳴り響く鐘の音。

 うるさい。というか、頭が割れる。昨晩は少し飲み過ぎた、と、フレイラは流石さすがに頭を抱えた。まさかお昼を過ぎても二日酔いが抜けないだなんて、私も歳を取ったものね――と迂闊にもそう思いかけてすぐにその記憶を抹消する。そんなおかしなもの、取ってなどいない。それは断じてあり得ない。

 独身最後の夜だから、と昨晩無理矢理付き合わせたエイミーは、しかし笑顔でチャペルからその姿を現す。当然だ、あの子は牛乳しか飲んでいない。でも独身最後よこれが最後のチャンスなのよ、と強引に飲ませた赤ワイン、そのたった一口ひとくちでエイミーは簡単に気を失った。そんな数滴の酒が翌日に残るはずもないし、なによりその晩フレイラはひとり残される羽目になったわけで、それからずっと手酌で荒れ放題に荒れたのだ。これで二日酔いにならない方がおかしい。だから、別に年齢とかそういうものはまったく関係ないのだ、とフレイラは地面にうずくまる。どうでもいい。もう吐きそうだ。

「ちょっとフレイラ、そろそろくるわよ。あんた、アレ取らないとじゃないの?」

 フレイラと同じく参列した、受付の同僚の言葉。盗るとか盗らないとか、そんな騒動はもうこりごり、とフレイラは力なく手を振る。あの悪夢のような騒動から、もう一ヶ月が経っていた。

 あれだけ頑張ったのに何故、と何度も枕を濡らしたのは、都合二回にもわたるブラスクラム・チャンネルでのアピールについて。反響として殺到すべき素敵な男性からのアプローチ的なものは、しかしただの一通たりとて存在しない――まあ当たり前だ。あの事件の直後、ブラスクラム・チャンネルは一体どういうわけか、あっという間に営業停止の憂き目にあったのだから。

「まだ落ち込んでるわけ? 切り替えなさいよ。クビにならなかっただけ儲けものよ」

 だとか、同僚のその慰めは何のフォローにもなっていない。いっそのことクビになれば良かった、寿退社的な意味で――と、そう思いこの式にも参列したのだけれど、しかしこの二日酔いではどうにもならない。こんなときばかりきっちり全員参加する受付の連中はどう考えてもまともじゃないし、そしていよいよブーケが宙に舞う直前のいま、フレイラの体調コンディションは最悪だった。

 青空の下、天高くブーケを掲げる花嫁、エイミー。きゃー素敵お幸せにー、と声援あるいは悲鳴の上がる中、ドレスの裾が汚れるのも構わず、がに股に座り込んだままのフレイラ。見上げた瞳に、純白の花嫁が遠く霞む。

 お幸せに、と。あらん限りの祝福と呪詛を込めて呟いた、その瞬間。

 エイミーが、フレイラを呼んだ。声にこそ出さなかったものの、しかし小さく唇を動かして。困ったように眉を曲げた彼女は、しかしすぐに満面の笑顔に戻って、小さくウインク。手にしたブーケを手渡したのは、何故か隣の花婿だ。

「私、こういうの苦手で……皆さんご存じだと思いますが、いつも逆方向に飛んでっちゃうので、代わりに彼が」

 その言葉に、どっと笑いが巻き起こる。確かにそれは言葉の通りで、でも花婿も花婿で例の事件、相当な怪我を負ったはずだ。何やら後遺症のようなものが残ったなんて話もあって、それを「大丈夫なのかしら」と眺めていたフレイラの目に、しかし飛び込んできたのは思いもしない光景。

 タキシードの上着を脱いだ花婿が、ブーケを握り締めて雄叫びを上げる。気迫の咆哮。そして、その場にぐるんぐるんと回り出す――これはもう、どう考えてもハンマー投げのフォームだ。一体どこに飛ばす気だ、と、参列者一同が目を見張る、その中で。

 フレイラはひとり、立ち上がった。

 放たれたブーケが、風を切り。凄まじい速度で一直線、あっという間に星になる。人間の力じゃない――が、しかしそんなことは関係なかった。計算式は単純だ、つまりあのブーケよりも速く走ったなら、その落下地点に先んじて到達できる。ドレスの裾をまくり上げ、ヒールを脱ぎ捨てるフレイラ。その背中に、エイミーの声が響く。

「誰も取ってくれないだなんて、そんなの嫌ですよ、先輩!」

 任せておいて――と、突き立てた親指サムズアップ。まるでそれが合図であったかのように、チャペルの上空に花火が上がる。

 ぱぁん、というその破裂音は、なるほどスタートにはお馴染みの合図。

 最速の伝説が、いま再び、幕を開ける――。


   §


 おや花火ですね、とまた、思わず呟く。

 はい何でしょうか、と聞き返されるのが、もうわずらわしいことこの上ない。やはりこの癖はどうにかしなくては、と、その言葉すらも訊ね返されてしまう。何でもありませんもう結構です、と追っ払っても、しかし首をひねりながら部屋を後にする、その相手がまったく気の毒でならない。

 社長室の椅子は、決して座り心地の良いものではなかった。

 後ろ暗いことばかりやってきたこの企業の、精算をこなすのは骨の折れる作業だ。しかし自ら志願した以上、やり遂げるまではそうそう弱音も吐けない。というよりも、吐いている暇がそもそもなかった。人はひっきりなしに訪れるし、電話は四六時中鳴りっぱなしだ。この状況で部署の人間が全員揃って休暇を取る、そんな受付のひとたちは明らかにどうかしていると思う。しかしいまのファナは、それに文句を言う暇さえ持ち合わせていなかった。

 社長室の机、その上に投げ出された書類に目を通す。『コルドナ・ファッテンブルグ前社長のその後の処遇について』。思った以上のことは書かれていなかった。彼はあれから州警察に身柄を拘束され、そして今もなお取り調べを受けている最中だ。一ヶ月前の騒動をきっかけに、クレッセリア財閥と国際警察機構エスポールが同時に痛手を受けたおかげで、州警察がいよいよその本来の姿を取り戻し始めたのだ。大々的に喧伝されることはないにせよ、しかし闇から闇へと事件が葬られるなどという、その心配はもういらないだろう。

 とはいえ、彼も思ったほどの悪事を働いていたわけではない。研究された薬剤はどれも違法といえるほどのものではなかったし、最上階の娼館にしたところで、実質は彼個人の持ち物というわけではなかった。そも、大規模な悪事を行えるほどの器ではない――というよりも、どう頑張ったところで三下止まり、根っからの悪人にはなりきれないのが、あのコルドナという男だ。身の丈に相応しい処罰を受け、それなりの償いさえ果たせば、彼もいずれ自由の身になれるだろう。

 いくつかの書類に目を通すうち、その中の一束ひとたばがファナの目に止まる。やれやれ、と眼鏡を外し、目頭をつまむ。今日はおおよそ三十通前後、といったところだろうか。無視するわけにもいかないので、表紙に指示を書き付けて、処理済みのトレイの中へと回す。

 ――外部にて処理。連絡先は国際警察機構エスポール、バードマン主任捜査官。

「……そういえば彼ら、今日はこちらに来ているのでしたっけ」

 はい何でしょうか、と聞き返されるからもう本当に面倒くさい。ていうか何しに来たんですか、と机の向こうに立つ男をめ付ける。いえそのそろそろお時間です、と言うので、時計に目を向けてファナは愕然とした。もうこんな時間。すぐ行きますから車を回しておいてください、と指示を出して、残りの書類を片付ける。

 これから、スラムの視察に行かねばならない。財閥の寄付金による支援が行われているのを見届けるためだ。書類を全てトレイに放り込むと、ファナは机の引き出しを開ける。中から取りだしたのは、一枚のコイン。あの後、結局取りに戻ってしまったそれを、ポケットへとそっと忍ばせる。

 ――そういえば、今日も三日月の日。

 はい何でしょうか、とか、もう本当にうるさい。

 ヒールの音を廊下にこだまさせて、社長代理は廊下を突き進む。


   §


「ギョウちゃん、落ち込むといつもここに来るよね」

 その言葉にエイジは、振り返らなかった。その方が格好いいと思ったからだ。思ったのに、でもユエンにはそんな繊細な男心なんて通じるはずもなくて、無理矢理力ずくで振り向かせようとするものだからもう本当に痛い。ちゃんとこっち見なさいってば、だとか、拳のシャワーを浴びせながらいう言葉じゃないと思う。

「この給水塔、壊されちゃうんだってね」

 馬乗りの体勢マウントポジションのままそう呟くユエンに、エイジは力なく頷いた。まあ当然のこと、今は使われていないのだし、それに野犬の住み家になっているのだから、こんなもの危険すぎて放ってはおけない。クレッセリア財閥によるスラムへの支援は、まさしく的確で非の打ち所がなかった。

「ギョウちゃん、もう落ち込んだときに来るところ、なくなっちゃうね」

 そう微笑むユエンに、エイジは「もう、いいんだ」とだけ返す。「いいって何が」とか聞いてくるから、「いいんだ」と繰り返す。なんとなく、もう卒業しなきゃいけない気がした。だから黙って立ち去ろうとして、でもユエンがどいてくれないからそれが出来なくて、あまつさえ「ちゃんと理由言ってよ」とかもう本当に滅多打ちにしてくるのだからのがれるだけでも一苦労だ。

「でもユエンは、なんでこんなところにいるの」

 と、傷だらけの腫れた口で言うのは大変だった。給水塔に背をもたれたユエンは、いいじゃない、とそっぽを向く。いいわけがなかった。今日は確か、ユエンのお母さんが会いに来る日、だったはずだ。でも余計なことを言えば、きっとまた殴られる。

 だからそれはやめておこう――。

 と、そう思っていたはずなのに。

「駄目だよ」

 気づけば握っていた、少女の手。どうしてだろう、なんて、考えようとも思わない。駆け出すエイジの脚力は、きっとユエンに比べればずっと貧弱なはずだ。それでも手を引かれるままに、何も言わず。顔を伏せたまま付き従う、幼なじみの少女。

 思わず口をついて出そうになる、ずっと言えなかった、本音の一言。

「ユエン、俺さ。実はずっと前からユエンのこと――」

 それを、遮るかのように。

 わん、という、鳴き声。見ればすぐ隣を、見覚えのある影が追い抜いてゆく。野犬。この野郎せっかくのいいところを邪魔しやがって、という文句は、しかしユエンの言葉の方が早かった。

「ちょっとギョウちゃん、犬に追い越されちゃってるじゃない! もっと、速く!」

 そう言っていきなり加速する、その少女の手に引きずられる。いつもこうだ、とエイジは思い、でも悪い気はしなかった。心なしか、赤く充血していたユエンの目。本当は泣いていたのかもしれない。でもいまの彼女の笑顔には、その跡なんて微塵もない。ユエンはいつも前向きで、元気で、そして大体やりすぎる。引きずられるエイジの腕やら脚やら、その皮膚が地面にこすれてけているとか、まったく思いもしないのだろう彼女。その背に向けて放たれる「助けて」という悲鳴が、今日もスラムにこだまする。

 落ち込んだときに行くべきところなんて、本当は昔から、必要なかった。

 かたわらの少女が、いつも手を握ってくれるのだから。


   §


 この街には馬鹿しかおらんのか、という怒声。

 さすがに聞き飽きたが、しかしその感想をそのまま言うほどキースは愚かではない。ただ無言でタブレットPCの画面パネルを叩く。それをいいことに、やはり生産性のない小言ばかりを呟くのは、その上司。

「今日は三十通だぞ、三十通! あれから一ヶ月も経ったというのに、この街の馬鹿どもはどうしてこう飽きもせずイタズラを繰り返してばかりおるのだ。しかもコソ泥の予告状の真似事などと、まったく不埒にも程がある。進歩がないのかそれとも物事を考える能力がないのか、一体どっちなんだキース。ええおい、聞いておるのかキース。大体だな、この件に関して国際警察機構エスポールでさえ、まったく動かんとはどういうことだ。いくら飲んだくれの博打狂いどものイタズラにしてもだな、その真贋鑑定くらいは手伝ったらどうなんだ。奴らにはこの世界の平和を守る国際警察機構エスポールとしての誇りはないのか。それともただの役立たずなのか、なあおいキース、どうなんだ」

 いいから仕事しろ、などと、そんなことを言うわけにもいかない。タブレットPCのカバーを折り畳むと、キースは落ち着いた所作で立ち上がり、そして答える。

「まったくおおせの通りにございます、バードマン主任。いくら国際警察機構エスポール内が混乱の最中にあるとはいえ、いや、かの﹅﹅ジラン﹅﹅グロ﹅﹅ーナ﹅﹅副次官﹅﹅﹅一体﹅﹅どう﹅﹅いった﹅﹅﹅理由か﹅﹅﹅一ヶ月﹅﹅﹅前の﹅﹅事件の﹅﹅﹅直後に﹅﹅﹅不可解﹅﹅﹅退職を﹅﹅﹅なさ﹅﹅れた﹅﹅ばかり﹅﹅﹅といえ、しかし我々の職務におこたりりやとどこおりが生ずるなど、決してあってはならぬことです。それで世界の秩序が乱れでもしたら、はたして誰がどのようにしてその責任を取り、また保障をするというのでしょう。いいえみなまでおっしゃらずともわかります。これはもう、殺しましょう。ひとり残さず、一切の慈悲もなく鏖殺おうさつするよりありません。正義の執行者たる我々に妥協なる言葉はなく、そしてその使命をたがえた愚か者にはその命をもってつぐなわせる以外に贖罪の術などありはしないのです。なに簡単なこと、いくら国際警察機構エスポール職員といえど結局は人間に過ぎず、その生命活動を停止させるための手段ならこの地球上にいくらでも溢れております。刺殺撲殺銃殺はもちろんのこと、生物兵器や化学兵器、なんならこの世には核という大量殺傷兵器も」

「いや、それはうん、さすがに可哀想な気がせんでもないが」

「まこと深淵なるそのご慈愛、わたくし感動を禁じ得ません」

 案の定黙り込む、この上司の卑小さは相変わらずだ。大体こんな現場にまで来て、いまさら言っても仕方のないことをいつまでこぼし続ける気なのだろうか。タブレットPCを鞄へとしまう、そのキースに向けて、バードマンが呟く。

「いや、しかしなキース。前にも言ったが、わしはどうもこういうところに縁がない。一ヶ月前も死ぬ目に遭ったばかりだ。だというのに、なんでまたわざわざ、イタズラの手紙ひとつでわしらが現場入りしなきゃならんのだ」

 それがどうも、イタズラとばかりも言い切れない状況でして――と、キースは鞄からビニールの袋を取り出した。その中には、ひとつのレターセットがある。見覚えこそないが、しかしどこか見慣れた感のある、この無駄に可愛らしいアルパカの装飾は。

「まさか、ランバーンか! 本物と考えていいのか、キース!」

 突然その目を輝かせるバードマン。この現金さ加減、とてもあと少しで五十代に手が届く男とは思えない。しかしそんな感想はおくびにも出さず、キースは指を二本、突き立てる。

「それを調べるために来たのですがね。いかがです、この間の、リベンジも兼ねて」

 その言葉に、バードマンが袋をかすめ取る。中のレターセットを取り出して、それを何度も凝視しながら、

「リベンジといっても、あれは結局『勝者なし』のノーカウントということになっただろうが。だからだな」

 と、差し出した手のひら。そこに突き立てられた指は、四本。

「この間の分に上乗せレイズして、さらに二本。この予告状は、間違いなく本物だ」

 了解です、とキースは両手を打つ。

お受けコールいたしましょう。わたくしは、その逆に。ですが――本当によろしいのですか」

 何がだ、というバードマンの言葉。歩き出しながら、キースは訊ねる。

「そんな簡単に、本物だと言い切っても。確かに見た目はそれらしいですが、しかしここ最近のイタズラの例はひどすぎる。これもそのうちのひとつと考えた方が、確率的には」

 キースの言葉を遮るバードマン、その歩みが、自動ドアの先へと刻まれる。一ヶ月ぶりのその場所に再び響く、ふたりの警察官の、足音。

 刑事の勘、ってやつだな、とバードマンは前置きして――。

「文章をよく読んでみろ。こんな歯の浮く文言、あの男以外に、誰が書く?」

 翻るコートを見つめながら。キース・クーパー捜査官は、心の中で敬礼する。

 ――ごもっともです、主任。

 上階へと向かうエレベータ、その向かう先の、遙か上。日の傾きかけた空の端、人知れずひっそりと、その姿を現すのは。

 一ヶ月前。この街からたったひとつ、しかし確かに盗まれたもの。


 その代わりに、不夜城の上にやがて君臨する――三日月だ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る