Last Chapter 『クレッセリア財閥本社 秘書課社長付秘書 ファナミリア・エメントの場合』

「お待ちしておりましたよ。こちらは初めてですか」

 お恥ずかしながら、とファナは返す。こうして最上階に来るのは初めてのことで、そしてそこは随分荒れ放題だった。その中で唯一無事な部屋に、ファナは招かれている。呼び出したのは他でもない、例のキースという捜査官。

「もう少し洒落たところがよろしいかと思いましたが、なにぶんこの状況下ですので」

 そう言いながら椅子を引くので、おとなしくそこに腰掛ける。差し向かいに腰を下ろすキースに、ファナはすぐに問いかけた。もたもたしていると、また言わなくてもいいことまで喋ってしまいかねない。

「それで、クーパー捜査官。お話というのは」

「いつしか電話で、お食事にお誘いしたかと思いますが。その際に聞きそびれましたので」

 そこまで言われればもう、大体わかった。先を待つまでもなく、ファナは答える。

「確かに、彼にはお会いいたしました。それどころか、手を貸す約束まで」

 やはりそうでしたか、とキース。

「お話ぶりから、そのような気はしていたのです。それに社長室にいるにも関わらず、停電してから連絡があるまで随分と時間がかかっていた。何かあったのでは、とは思いましたが、しかしまさか、協力の約束までしていたとは」

「言い訳をするつもりはありません。ですが、いずれ誰かの手によって、暴かれなければならない事実がある――そのことだけは、前々から知っておりました」

 この企業に後ろ暗い部分がある。そう気づいたのは、いつくらいのことだったか。そしてそれを知りながら会社に隷属し続ける自分を、許せないと感じるようになったのは。これが正しいやり方だった、とは思えない。しかし、ファナに後悔はなかった。眼鏡のずれを直し、キースを見つめる。

「どうぞ、逮捕なさってください。この会社の人間として、責任を取らなければなりません」

 ファナの差し出した両手に、キースは目を伏せ首を振った。

「それは社長の役目でしょう。それにあなたは、確証までは持っていなかったはずです。もし知っていたのなら、あなたの性格でそれを隠し通せるはずがないのですから」

「では、怪盗にくみした罪を償うために」

 再び、首が横に振られる。

「その必要もありませんね。あなたは、あの男に脅迫されていた。故に従うしかなかったのだと、それでよろしいと思いますが」

「そんなことはありません。あの方は、まさしく紳士でした」

 ナンセンスですよ、と苦笑混じりの返答。

「現実味のない話です、紳士だなどと仰られても。彼はただの犯罪者、それ以上でも以下でもありませんよ」

 そう言って笑う、キース。確かに逮捕されずに済むのならそれに越したことはないのかもしれないけれど、でもそれならいまこうして、テーブルの上に差し出したこの手をどうしろというのだろう。いまさら引っ込めるのもなんとなくばつが悪い、そう思ったり呟いたりしていたこの両手に、キースが「では、こんなのはどうです?」と一枚のカードを渡す。

「こちらのカードの言葉に、お心当たりは?」

 ファナは首を振る。カードに書かれていたのは、どうやら怪盗からの言伝メッセージのようだった。でも正直なところ、さっぱり意味が分からない。一体なにが言いたいのか、ひょっとして彼は見かけによらずちょっとアレがアレな感じの子なのだろうか、などと思ったり呟いたりしていると、目の前のキースが笑いをこらえたような顔で先を続けた。

「いえ失礼。もしかしてこのカード、彼があなたへと残したメッセージかと思いましたもので」

「……私に? 何故?」

「他にいないからですよ。彼の性格上、自分の協力者に――それも妙齢の女性とあらば尚更です、なにか礼のひとつでも残すのではないかと、ふとそう思いましたもので」

 礼ですか、とファナはカードを眺める。交換条件なら、と言いかけて、しかし思い直す。

「いえ。そういえば、それはお断りさせていただきました。ただ」

「ただ、なんでしょう?」

 ファナは答えなかった。三日月を贈る、という条件は確かに断った。でも、それにふさわしい場に招待するというその誘いは、はっきりと断ってはいなかった。しかしそんなことは、いまやどうでもいいこと――と、手にしたカードをテーブルに置く。案の定、その考えは全部、呟きとなって漏れていたらしい。キースが立ち上がり、そして微笑みかける。

「なるほど。そういえば、『先約がある』とおっしゃっていましたね。わたくしはそろそろ、失礼いたします」

 立ち上がり、歩み出す捜査官。その背中をファナはじっと見送る。ちょうど入り口に現れた警備兵が、カジノ爆破犯逮捕の報を彼に告げた。それにもうひとつ、コルドナ社長が州警察により保護されたことも。キースが部屋の外へと姿を消すのを待って、ファナもまた、ゆっくりと椅子から立ち上がる。

 どうしよう、と、少し悩み。ファナは結局、テーブルの上のカードに手をかけた。それをポケットの中へと忍ばせて、もう一度その場に振り返る。どうせならシャンパンの一杯でもご馳走になりたい気分ではあったけれど、しかしその相手がいないのではどうしようもない。それにシャンパングラスはまだ中身が注がれたままで、しかもそこにはカジノで使われるコインが落ちていた。さすがにこれを飲むのは気が引けるし(だって汚い)、なによりまだ、仕事がある。今日はいろいろと大変だった。その後片付けをしなくてはならない。

 部屋の入り口まで歩み、その扉の脇、壁のスイッチに手をかける。灯りの落とされた室内、ファナは何気なく、先ほどまでいたテーブルを振り返る。別に、何か意図があったわけじゃない。

 ただなんとなく、その闇の中に――まだ、彼がいるような気がしただけだ。

 予感は、当然、外れていた。

 外れこそしたけれど、でも。


 ――当たらずとも遠からず。


 ファナが、そこに見たものは。

 天窓から注ぐ、月明かり。それに照らされた、室内中央のテーブル。きらきらと青白く輝くのは、グラスに注がれたシャンパンだ。ただその中でもひときわ強く、まばゆい光を反射するのは。

 グラスの底、斜めに立つ、コイン。特に、きっと磨かれたのだろう、その下半分の縁。輝くその円弧は、もう他に表現のしようがない。


 三日月。


 思わずそう呟くファナの、脳裏に蘇る怪盗の言葉。『もし三日月が宝石や貴金属の類であれば』――確かに、衛星もひとつの鉱物、石の類には違いない。でも、だからといって、まさか。


 夜空に輝く夜の王まで、簡単に盗んでしまうなんて。


 ――でも残念、と、ファナは呟く。

「私が受け取るには、やはり少し大きすぎます。それにこれは、美しすぎる。世界中のどんな宝石よりも。あと、これはやっぱり」

 盗品には違いないから、と、ファナは踵を返す。

 なんでしょう、という警備兵の声。「なんでもありません」と返し、廊下を進む。ポケットに忍ばせたカードに、幾許いくばくかの思いと、そして僅かな心残りを感じながら。


 秘書は再び、仕事ビジネスへと向かう。

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