第6話『少年』
「はぁ……」
メルは思いため息を吐いて項垂れる。
メルは大理石で作られた大きなモニュメントが佇む噴水に縁で腰を下ろしていた。
「どうしよう……。誰も教えてくれない……」
「これは弱りましたね……」
カバンを足元に置かれたカバンからベルヘルが僅かに姿を覗かせていた。
メル達は店の亭主や行き交う人々に人売りが営む場所を訪ねるが、客じゃないと知った途端、無視されたり、罵倒を吐いて追い払われたりされた。
「すみません。私がお金を落としてしまったばっかりに……」
「うんん。ベルヘルさんは悪くないよ……」
メル達が下水道を進んでいた時、トヨスケが体制を崩した際にカバンから銭が入った袋を落としてしまっていた。
そのために、何かを買う代わりに情報を求めようとしても出来なかったのだった。
アール都市に潜入してから3時間程時刻が周り、太陽は高々と真上に上がっていた。
強い日差しが照りつける中、メルはカバンに入っていた水袋を取り出して飲もうとしたが、水袋の中には水が僅かしか残っておらず、乾いた喉を潤すには少なすぎた。さらに追い討ちをかけるかのようにメルの腹部は鳴らして飢えを訴えてきた。
「うぅ……。このままだとリマ兄達見つける前に干からびちゃうよ……」
後ろで吹き上がる水を褐求するように見つめるメルだったが、薄緑色に濁っている様子を見て諦めるようにため息を吐いた。
「これからどうしよう……」
汗を流しながらも、メルは空腹や喉の枯渇、疲労感で思考が纏まらなかった。
「お嬢さん」
突然右手側から見知らぬ男が声をかけてきた。
頬が痩け、体つきも痩せていた男は身なりが所々汚れて目立っていた。
「何?」
メルは初対面だったが気にすることなく答えた。
「実は道に迷っていて、ここら辺に役場があると思うんだけど知らないかい?」
「ごめんなさい。私もここに来たばっかりだからわかんな……」
メルが男の顔を見ながら話していると、足元に置いてあったカバンが突然姿を消した。
何が起きたのか最初はわからなかったが、周囲を見渡した瞬間すぐに悟った。
メルは全力で走り去っている男にカバンを盗まれたのだった。
ベルヘルが入っているカバンを盗んだのは小柄で先ほどの男と同様に小汚かった。
「嘘!? 待って!?」
メルは慌ててカバンを盗んだ男の後を追いかけるも、逃げる相手の足が速くて次第に距離を離されていくばかりだった。
「ど、泥棒! 誰か捕まえて!」
必死に周囲の人間に助けを求めるも、皆見て見ぬフリをして誰も動こうとはしなかった。
(なんで誰も助けてくれないの!? どうしよう! どうしよう! ベルヘルさんが!?)
周囲の様子に怒りを覚えながらも、足を動かし続けるメル。しかし、疲労のためか息がいつもよりも速く上がっているようにメルは感じる。
確実に自身では助けられないと思えるぐらい距離を離されてしまう。再び、自身の無力さや愚かさを見せつけられたメルは怒りを乗せて叫んだ。
「だ、誰か助けてよ!?」
悲鳴にも聞こえるメルの声は誰にも届かない……、誰もがそう思っていた。
「ぎゃっ!?」
鈍い叫びがメルの耳に入ると否や、カバンを盗んだ男が空に浮かんで飛んで来た。
メルの目の前で背中から叩きつけられるように落ちた男は、手足を動かしながら悶えていた。目を白黒していたメルだったが、カバンが目に入った途端、男からカバンを取り戻した。そして、中にいるベルヘルが無事であるか確認する。
「ベルヘルさん大丈夫!?」
「え、えぇ。少し目が回ってしまいました……」
「良かったぁ……」
二度と離すまいとメルはカバンを力強く抱き締める。
「おいおい、おっさん。こんな可愛らしい子から物を盗むなんて許せねぇな? ロリコンに見られていたら今頃処されているよ?」
スリを働いた男が逃げていた方向から、ゆっくりと歩いてくる一人の少年がいた。
見た目から見て十代半ばぐらいの少年の身なりは、白いのカッターシャツの袖を捲り、黒いズボンを履き、靴は青色がベースとなっており、靴底や装飾に使われている素材は革とは違い、見たことのない素材を使っているようだった。そして、背中には時代遅れの巨大な剣を担いでいた。
悶絶していたスリを働いた男は痛みが和らいだのか、立ち上がりながら、懐に手を回して小刀を取り出した。
「て、テメェ! ふ、ふざけた真似しやがってぇ!」
「お、お前それ刃渡りいくつだよ……!? そんなもん俺の国で出したら即逮捕だぞ……!?」
驚愕している少年を見てか、スリを働いた男は表情に余裕が現れた。
「へへっ……。明らかに獲物を見てビビってんのが丸わかりだぜ?」
「ウルセェよ! 現代の学生が刃物見るなんざ包丁ぐらいしかねぇんだよ!」
「何言ってんのかわからねぇが、殺されたくなかったら俺を捕まえようとなんてするなよ?」
笑みを作りながらも、顔には大きな汗を流していた。それはきっと、少年が担いでいる大剣を見たからだろう。
周囲には野次馬達が集まり始め、即席コロシアムが完成されそうになっていた。
「なんか癪に触るけど、まぁいいや。さっさと逃げていいよ」
「へっ?」
腕を伸ばして逃げるのを促す少年にスリを働いた男どころか、周囲の人間ですら予想外な返答に唖然とした。
「どうした? 追いかけないから早く逃げなよ」
スリを働いた男は周囲を何度も確認してから、ゆっくりと下り、踵を返してその場を走って立ち去って行った。
少年は男の後を追いかけようとはせず、男の背中をただ見つめていただけだった。
そんな少年の行動に周囲にいた人々は蔑む言葉を上げる。
「んだよ……。逃がしているじゃねぇか……」
「かっこ悪りぃな……。口だけかよ……」
「ダッサ……」
言いたいことだけ言って野次馬達はその場を立ち去っていく。
罵倒された少年は澄ました顔をしていたが、野次馬がいなくなった後、それは剥がれ落ちる。
「ウルゥセェェ! ヒヨってねぇぇわ! 寧ろ足が震えなかっただけでも称賛して欲しいぐらいじゃボゲぇ!」
少年の咆哮にも似た愚痴が一帯を包む。
少年の姿を見て、メルは抱きかかえていたベルヘルに尋ねる。
「お礼言っても大丈夫かな……?」
「そうですね……。見たところ悪い人には思えませんし、いいと思いますよ。ただし、万が一危なそうな人でしたら離れてくださいね?」
「うん。わかった」
周囲の人間が興味を無くして普段の賑わいへと戻ると、メルは不貞腐れている少年の前へと歩み寄った。
「あの……」
「くっそー、どの世界でも俺に冷たくしやが……。 あっ、はい。何ですか?」
少年は突然話しかけられたためか、明らかに年下のメルに敬語を口にする。
その様子に呆気に取られてメルは微笑をした。
笑われていることを目にして年下相手に敬語を使ったことに気づき、慌てて話を続ける。
「さ、さっきスリされていた子でしょ?」
気恥ずかしそうに頭の後ろを掻き毟っていた。
「うん。さっきは助けてくれてありがとう」
「気にすんなって! 困った時はお互い様だろ?」
親指を立ててはにかむ彼の言葉に耳を疑った。この都市に来てから誰しもが自身のことばかり考え、金にならないのであればそっぽを向く人達ばかりだった。決してそれが悪いとはメルは思わなかったが、それでも村の人達とは全く異なる行動に寂しさをどうしても抱いてしまう。そんな都市の中で助けてくれたことにメルは感激していた。
(都市は冷たい人ばっかりだと思っていたけど、ベルヘルさん達みたいに優しい人もちゃんといるんだ……)
漸く、村以外で人との交流が出来たことに胸を撫で下ろす。
「けど大丈夫か? 結構乱暴に投げちゃったから中身壊れていたりしてないといいけど」
「大丈夫だよ。というか、壊れたらシャレにならないし……」
一瞬、ベルヘルの無残な姿を想像した後、リマンの死に様が脳裏に蘇り、暗い表情になる。
「そういえば、君はこの都市の子?」
「うんん。違うよ」
「あれ? そうなのか。服装からてっきりそうだと思っていたんだけどな」
メルの服装は暖気が覆うこの時期でも薄手に近く、旅をしている格好には不向きであった。
「えぇっと……」
答えに悩んでいると抱きかかえていたカバンの中からベルヘルが小声で呟き、メルはそれに耳を傾ける。
「そ、そう。私は近くの村から仕事の手伝いで来た……?」
「なんで疑問系で締めくくるんだよ……?」
「いや、来たの!」
ちぐはぐな回答に少年は苦笑しながらも、そっか、と言ってそれ以上追求はして来なかった。
「お兄さんも旅の人?」
「やっぱりそう見える?」
「うん。他の人とは全然見た目違うんだもん」
「だよなぁ……。この服のせいかやたら視線が気になるんだよ……。小心者には堪えるわ……」
少年が周囲を見渡し始めるのに釣られ、メルも周囲を見渡した。
通行人は堂々と凝視しながら横を過ぎ、商業を営んでいる人達も時折こちらの様子を伺っているようにして見ていた。
「ふっ……。イケメンは目の癒しになるからどうしても視線が集まっちまうか……」
「いや、お兄さんイケメンっていう程じゃないと思うよ?」
「ぐっはぁ!? 無垢な子供の感想ほど残酷な言葉はないんだぞ……」
胸を押さえながら少年は苦しそうな声を上げた。そんな仕草に再び笑みが零れる。
「お兄さん変な人だね」
「どっちかと言えばカッコいい人って言われたいぜ……。まぁ子供にはこの格好良さはわからないか……」
「むっ……」
子供と言われたことが気に触ったのかメルは眉を顰めて言葉を放つ。
「キモい」
「お、おま……。言っていいことと悪いことが……」
「五月蝿いブサイク!」
「ギヤァァ! オーバーキル! オーバーキルだよ!? もう止めてあげて!?」
「ブサイク! ブサイク! ブサイク!」
「ギヤァァ!」
メルは少年の反応が面白くてついいじり続けてしまう。
「よ、よし待て! あそこで飲み物を奢ってやるからもう止めような? 俺の豆腐メンタルが今にでも弾け散りそうだから……、な?」
少年は近くに営んでいた店に指を指しながら促した。
「本当! やったぁ!」
飲み物という単語を聞いて、喉が乾ききっていることを思い出してメルは喜んだ。
「あっ、そういえばさっき訪ねてきた人いたんだった……」
不意にスリに遭う前の出来事を思い出してメルは噴水の方に視線を向けるも、訪ねてきた人物はすでにいなくなっていた。
「いなくなってる……」
スリの現場に居合わせながらも、助けようとせずにその場を離れるなんて無愛想な人だとメルが少し苛ついていると少年が口を開いた。
「多分、そいつもスリの一味だと思うぞ? さっきの男が物を盗む役で、君に声をかけたって奴がカバンから意識を離させる役なんだろうよ」
メルは少年の話を耳にして気が滅入った。
暑さから逃げ込むために早々に店に入ると、照りつけていた太陽から逃れた薄暗い空間は涼しく感じられた。
2階建ての作りだったその店はカウンターに多くの酒のボトルが並び、中央には不均等に置かれた机や椅子が点在していた。店の中には疎らに人がおり、食事をする者や大量の酒を囲って飲み合う者達もいた。そして、それらの人物達は入ってくるや全員が視線をメル達に動かした。
メルは当てられる視線に怖気付きそうになるも踏み止まる。隣にいた少年の様子を見て見るも、彼は特段気にする様子は無かった。
物音一つもしない空間だったが、皆がメル達に興味を示さなくなったのか、ほぼ同時に会話が再開されていた。
視線を向けられなくなったことに安堵するも、今度は店に入ってからどうすればいいのか分からなかった。
「これは自分達で好きな席に座れっていうスタンスみたいだな」
その言葉を聞いてメルは、少年がこう言った店に何も来たことがあるのだと思い、彼に行動を託すことにしようと考えた。
「じゃ、カウンターにでも座るか」
少年の言われるままにカウンターに席を着いたメルはベルヘルが入ったカバンを膝の上に置いて座った。目の前の机に付いた食べカスや汚れが目に入り、ヘンリーが見たら何て言うか想像しながら食べカスなどを手で払った。
少年が興味津々で部屋中を見渡していると、二人の目の前に太い二の腕に腹を突き出した大柄の男が現れた。
「金はあんだろうな?」
「おいおい、客に対して第一声がそれとか酷すぎないか?」
「こんなガキ共が金あるとは思えねぇんでな」
「確かに居酒屋に子供だけで来たらそう言いたくなるわな」
少年はそう言いながら苦笑した。
「で? どうすんだ?」
「とりあえず、飲み物が欲しいんだけど何がある?」
「ウチにあんのは葡萄酒とエールしかねぇ」
「未成年には酒を飲ませるのは気が引けるなぁ……。俺もだけど……。水とかない?」
「あるが酒と同じ額だぞ?」
「そうなのか? てっきり酒の方が、値を張ると思っていたけど」
「ここ一帯の水は飲めたもんじゃねぇからな。だから輸入されている物を仕入れている。だが、輸入している場所が近年水不足の影響で値上がりしてんだよ」
「ふぅーん、そうなんか。まぁいいや。じゃ水二つで」
「銅貨二枚だ」
少年はズボンのポケットから布を取り出し、中から銀貨1枚を取り出した。
「これで」
「釣りが面倒くさい。丁度はないんか?」
大柄の男はそう言いながらも銀貨を手に取って転がしていた。
「じゃ、残った釣りで二人分何か料理を幾つか出してくれよ」
「毎度」
口調から亭主と思われる大柄の男は銀貨を早々に仕舞い込み、もう返さんと言わんばかりに足早に裏手へと回ってしまった。
「あ、あんな大金出しちゃっていいの……? お代払いたいのだけれど、今お金なくて……。その……」
メルは想定もしていなかった金額を出させてしまったことに罪悪感と、今後請求されないか不安に駆られた。
この世界の通貨は銅貨、銀貨、金貨といった順に価値が上がっていく仕組みであり、金貨一枚の辺り、銅貨百枚分とされている。銅貨一枚に対して酒一杯、骨つきの肉を一つほどと相場が決まっていた。そして、少年が出した銀貨は銅の十倍にあたり、一枚で鶏といった家畜と交換できるぐらいの額だった。
「ん? あぁ、気にすんなよ。大金って言われてもイマイチピンと来ないし、一応、金には困ってないはずだから大丈夫さ!」
親指を立ててはにかむ少年の姿を見て、僅かながら安堵した。
「まぁどうしても気になるなら、俺のことはお兄ちゃんっと言う条件でもいいぜ?」
「変態ドスケベお兄ちゃん」
「あぁぁぁ!? 俺が悪かった! あれは嘘! 嘘だからそんな大声で呼ばないで!? 周りの人見ているから! ね!?」
メルの言葉を制すように口元に指を立てて、静かにするジェスチャーを作りながら、周囲の様子を確認する少年だった。
周囲から鋭い視線を投げられていることを肌で感じながら、少年は気を紛らわせるためか、やや大きめの声で話しかけてきた。
「そういえば、名前聞いてなかったな。俺はヒイロっていうんだけど、君の名前は?」
「私はメル」
「メルね。可愛らしい名前だ」
自身の名前で可愛らしいなどと言われたことがなかったメルは頬を少し赤らめる。
「ふっ、もしかして照れちゃった? 可愛……ブフッ!?」
澄ました顔で語っていたヒイロの横っ腹にメルは殴りつけた。そんなことをしていると、二人の前の前に木をくり抜いて作られたコップが置かれ、その中には水が注がれていた。
「よっしゃ取り敢えず乾杯でもするか! 水だけど」
「何の乾杯?」
「んー二人が出会えたことでいいんじゃないか?」
「適当だね……」
「気にすんなって! じゃこの世界でメルと出会えたことに乾杯」
「か、乾杯!」
二人はコップを打つけ合ってから水を呷った。
乾ききった喉はたちまちに潤され、食道を通して胃に流れ落ちていくのが伝わる。コップの半分程のところまで飲みきると深い息を吐いた。
それからメルは膝の上に乗せていたカバンに小声でベルヘルへと尋ねる。
「喉乾いてない……?」
「大丈夫ですよ……。お気になさらず……」
小さな声で帰ってきた言葉を傾けて聞いていると、目の前の机に料理とは言い難い肉の塊が勢い良く置かれ、メルは肩を振るませる。
「おぉ! 何かファンタジーっぽいな!」
何故か異様に嬉々と興奮して、謎の事を口走っているヒイロに首を傾げながらも、メルは目の前に置かれた肉を見て喉を鳴らす。
「食おうぜ! 頂きまーす!」
ヒイロは言葉を上げながら掌を合わせて、肉が付いた骨へと手を伸ばして頰張り始めた。
「ん? どっほたの?」
メルがヒイロのことを凝視していたためか、彼は食べるのを中断して口を開いた。しかし、口に溜め込みながら語るために発音がぎこちなくなっていた。
「うんん。なんでもない」
「そっか?」
メルは兄達と交わした食前の前の祈りのことを思い出す。ベルヘルの時はその場の雰囲気などで呆気を取られて忘れていたが、普段から食前に行う面倒にも思えていた祈りが今となっては懐かしく、尊いものにも感じた。
「……」
メルは手を組んで目を閉じた。そして、何度も耳にした祈りの言葉を口の中で呟いた。
祈りを終えたメルは漸く、目の前に置かれていた肉にありつくことにした。
肉はベルヘルが振る舞ってくれた食事よりも筋が多くてパサつき、味が濃く感じたが、メルにとっては十分と思えるほど美味しく感じられていた。
肉をひたすらに食べているとベルヘルのことを思い出し、こっそり肉をカバンの中にいる彼へと渡す。
「これはありがとうございます……」
カバンの中から小声でベルヘルの声がうっすらと聞こえる。
肉を食べ終えそうになっている頃合いに、スープとパンが運ばれ、メル達はそれらも黙々食べ続けていた。
「いやー食った食った」
空になった食器を前に腹を叩きながらヒイロは満面の笑みを浮かべていた。
メルも満足そうに口元に食べカスがつけながら、腹を摩っていた
「そういえばメルはこの後どうするの?」
ヒイロの問いかけにメルは表情が一変し、真剣な顔つきになる。
「私、人売りって場所に行きたいの」
ヒイロも先ほどまでのふざけた雰囲気は無く、顔には一切の笑みが無かった。
「人売り……。この世界には奴隷制度があんのか?」
メルはゆっくりと頷く。
「さっきまで色んな人に尋ねたんだけど、誰も相手にしてくれなくて……」
悔しそうにメルは唇を結ぶ。
「……そんなところ行ってどうするんだ?」
「ルー兄……、兄さん達を助ける」
その言葉はメル自身にも言い聞かせるような言葉だった。
腕を組んでヒイロはメルの言葉に耳を傾ける。
「ヒイロは人売りの場所知って……、知っていませんか?」
メルにとっては最後の望みと思っていた。もしもここで情報を得られなかったら、この先もきっと情報は得られることはないと思われる。その場合、この広い都市を一人で探し当てなければいけなかった。それは、砂漠の中から一粒の砂金を見つけるようなものだった。
初めて会った相手なのに助けてくれて、無償で食事までご馳走してくれる人物はいない。このアール都市では尚更のことだった。誰もが自身のことだけを考える。寧ろ、それしか考えられない程、財政に厳しいのかもしれない。決してそれが悪いとは思わないし、仕方がないことだとも思う。しかし、この都市を見る限り決してそうには思えない。裕福そうな服装をしている者や、裕福でないにしろ、食べ物に困っていない者だってメルの目から見て取れた。何故、そんな人達は助けるどころか、まともに話を取り合ってくれないのだろうと疑問で仕方がなかった。
そんな中でヒイロは変わっていた。いや、メルにとってはそれが正しい行いで、都市の人間達の方が変でしかなかった。
そんな異様な中で唯一の正しい人にメルは望みを賭ける。
「すまん……。俺もこっちに来たばっかりだから知らないんだ」
その言葉にメルは落胆する。
「そっか……」
未だに何も情報は得られずにただただ時間が過ぎて行くことに、苛立ちや不安が募るばかりでメルは自身の裾を握りしめる。
メルはヒイロには申し訳なく思いながらも礼を述べてその場を後にし、急いで情報を得ようと立ち上がろうと時だった。
「けど! 助けにはなれるぜ?」
「え?」
「知識はないけど、情報集めなら手を貸せれるぜ?」
親指を立てながらヒイロははにかむ。
「事情はわからないけど、こんな幼い子が家族を助けに行くなんて聞いたら、黙っていられないさ」
「ヒイロ……」
メルは自身が恵まれていると心の底から思わされた。こんなにも理不尽かつ、人情がない世界で多くの人が助けを惜しまず、力になってくれることに感謝の気持ちで胸が一杯になる。
「ありがとう……!」
「気にすんなって! 困ったらお互い様! まぁどーしてもお礼がしたいっていうなら俺のことをにぃにぃって言ってくれよな!」
メルは薄目でヒイロのことを見つめて口を開いた。
「変……」
「おっと! もちろん冗談だからな!?」
ヒイロは手を伸ばしてメルの言葉を阻止した。すると、丁度カウンターに戻ってきた大柄の男に彼は早々に人売りのことを聞き始めた。
「なぁなぁおっさん。人売りっていう場所のこと知らないか?」
「人売り? あぁ、『売買』の事か」
「バイバイ?」
「あぁ、あそこは一家ごと売られることなんてザラにあって、家族がバラバラになることが普通にある。その別れを告げる様子から準えて『売買』って言われているんだよ」
その言葉を聞いてメルは苛立ちが湧き上がる。
ヒイロはげんなりとしながら話の本題へと移る。
「エグい名前の付け方をしてんな……。で? その人売りの場所を聞きたいんだが、どこら辺でやってんだ?」
「確かここから北に進んだ方角にデカデカとやっているはずだから分かるはずだぜ」
「そっか。サンキューな」
ヒイロは店の亭主に感謝の言葉を述べると立ち上がって店から出ようとした時、とある何かを思い出したように質問をした。
「なぁなぁ、そういえば、ここら辺にエルフやドワーフとかいないの? 俺ここに来てから未だ姿見たことないから会ってみたいんだけど!」
ヒイロの質問に亭主は自身の耳を疑うかのような惚けた表情になる。そして、その表情はみるみるうちに憤怒へと変わる。
「何言ってんだお前……。エルフやドワーフのような怪物がここら辺にいてたまるかよ!」
「へ?」
突然の怒鳴り声に想像もしていなかったのかヒイロは口を開けて唖然としていた。理解できない様子にも関わらず、男の開く口は止まらない。
「どんなガキでも知っていることだろ! 四十年以上前にあった戦いで奴らデミ共は怪物率いる魔王軍に加担して俺ら人間を虐殺し始めたんだ! 奴らのせいで多くの人間は血を流して死んでいった! 奴ら化物のせいで! 人類は根絶の危機に陥った。だが、そんな時に勇者様が現れてくださって私たちを救ってくださった!」
怒涛のように話し続ける亭主に呆気を取られていると、突然酒を囲っていたグループの一人が話しの合間に入り、椅子の上に乗って代弁し始める。。
「その通り! 勇者は怪物やデミの大軍を物ともせずに薙ぎ倒して行く。魔王の幹部であった巨人やドラゴンをも蹂躙し、そして! ついには魔王を倒した! この逸物を掲げながら!」
店にいた者達は喝采の声を上げ、下劣な笑いが部屋中に立ち込める。
「我らには平和を! 奴ら怪物には糞を!」
それが合言葉だったのか、その場にいた者達は声を上げて乾杯を繰り広げる。
店の風貌が一変したことに困惑した。
「そういうことだ。だから、エルフやドワーフと言ったデミ共なんて人間の世界にはいない。いたとしてもそれこそ売買で売られる奴らぐらいだ。これで満足したろ! とっとと俺の店から失せろ! たくっ! 嫌なもん思い出させやがって!」
怒りを露わにしたまま亭主は店の裏へと消えた。
亭主のたち去る後ろ姿を見つめながら言葉を失っている中でも、店にいる者達は騒ぎ立てていた。
メルも幼い頃から魔王と勇者については聞かされていた。
話に出てくるモンスターは人間を怪力で引き裂き、妖艶な姿で魅了しては毒牙にかけ、人の弱さや欲に漬け込んでは魂を食い荒らす者達ばかりだった。だから、いつも話の終わりには出会ったら全力で逃げろ。じゃないと殺されると言われ続けていた。
故にベルヘルやトヨスケが現れた時にメルは心の底で恐怖し、受け入れ難い死を覚悟していた。だが、実際は違った。
命を奪うどころかベルヘル達はメルを救い、傷ついた体を癒し、捕まった者達を救うために力を貸してくれた。
食べられそうになったが、ここまで運んで連れて来てくれたラクィオン。衣服の準備や体を洗ってくれた耳の長いメイド。短い時間だったが、彼らが話に出てくる怪物だとはメルは到底思えなかった。
メル自身、出会うまではずっと怖い生き物だと思っていた。しかし、今は違う。彼らがとても優しい心の持ち主なのだと知っている。
寧ろ、彼らのことを怪物と蔑む目の前にいる人々の方が怪物のように感じる。
他人のことをどうとも思っていない都市の人々。なんの罪もないのに平穏な村を襲い、兄を殺し、姉達を連れ去った奴ら。
そんな人間に何故、助けてくれたモノ達のことを蔑まれなければならないのか。
そんなことを考え続けているとメルは怒りを覚える。
何かが爆発しそうになりかけた時、震える肩に手が置かれた。
「……出ようっか」
ヒイロが優しい声で促すように語りかける。
彼を見た途端、喉まで出かかっていた物が下がっていく。
「……うん」
二人は扉に向かって歩いているとヒイロの目の前に一人の男が佇んだ。
「なぁ兄ちゃん。俺たちも腹減ってんだ、何か恵んでくれよ?」
メル達が店に入るよりも先に入って酒を呷っていた男達は、食い散らかされた食べ物以外に銃が乱雑に置かれ、佇んでいた男も銃を担いでいた。
銃は村を襲いに来た人借りと同じ時期に作られた銃で単発式の長銃だった。
「悪いがどいてくれる? 今急いでんだ」
「おいおい! お前振られているぞ!」
男の一味と思われる者から飛び笑い声が広がる。
「そんな釣れねぇこと言わないでくれよぉ? 何ならそこのお嬢さんを貸してくれるだけでもいいんだぜ?」
男は後ろにいたメルに顔を近づけて、黄ばんだ歯を見せながら笑みを浮かべた。
その醜態の顔にメルはあの男の顔を思い出す。
兄であるリマンを殺した男。ディールと呼ばれた傷の男の顔を。
メルは眉間に皺を寄せ、凄まじい剣幕で男を睨み付ける。
「けよ……」
「んだぁガキ? 何つった?」
限界を触れていたメルは今まで溜めていた物が溢れ始める。
「どけって言ってんだろ! このクズ野郎!」
「はぁ?」
メルの言葉を聞いた男はメルの胸ぐらに手を伸ばそうとした。だが、後僅かといった所で突然顔に何かが打つかる。
「イッテェ!?」
突然の出来事に後ずさる男の足下に落ちたのは、一片の肉もついていない骨だった。
音を立てながら地に落ちた骨を男や周囲の人間、そしてメルも唖然として見つめていた。
男は顔を覆っていた手を力が失ったようにぶら下げた。すると、覆われていた顔には険い表情が現れた。
一体どこから骨が飛んで顔に当てられたという疑問よりも、小さな子供に舐められた行動をされたという勝手な想像を膨らまし、顔に青筋を浮かべて拳を握る。
「テメェ! 死ねぇ!」
完全に沸点が上がりきった男は、握った拳をメルの顔面目がけて振り下ろした。
相手が子供ということなど関係なく、手加減を一切無視して降り下された拳はメルの目元を捉えるはずだった。しかし、男の拳はメルに届くよりも手前に阻止させられた。
男は自身の腕に目をやると、食い込むようにしてヒイロが掴んでいた。
「おいおい? 男が女の子に手を出すのはダメだろ?」
「あぁ? 何調子こいてんだ!」
男は振り解こうとするも、掴まれた腕は決して離されなかった。それどころか、掴んでいる手の力が強くなっていくばかりだった。
「っ!? 離せよ!?」
もう片方の腕てヒイロに殴りつけようとしたが、その腕も掴まれて身動きが取れなくなってしまう。
「俺今理想のファンタジー世界が壊されて、最高に落ち込んでんだわ……。折角可愛いエルフとかに会えるって期待していたのに……。況してや、剣と魔法の世界じゃなくて、銃と世紀末だし……!」
「何訳わかんねぇこと言ってんだよ!?」
「要するに……! 俺は今最高にムカついているってことだよボケぇ!」
ヒイロは背を向けて男の片腕を引っ張るようにして大剣を背負った背中から投げ飛ばした。
男は椅子の合間に入り込むようにして地面へと叩きつけられる。その衝撃で呼吸ができなくなり、酸素を求めて口を大きく開けるがなかなか吸い込むことが出来ずにのたうち回る。
「決まったぁ! 授業では一回も成功できなかった白帯素人の背負い投げ! 良い子は真似しちゃダメだぜ?」
ガッツポーズをしているヒイロに男の仲間達が声を上げる。
「テメェ!」
「何だよ? これ以上関わるならマジでキレちゃうよ? そうなったら俺でもお前達がどうなるか分かんないよ?」
笑みを見せていたヒイロが突然鋭い目つきで周囲の人間を睨み、剣を握る。突然豹変したような態度に皆が声を詰まらせる。
「……文句がないようだし、じゃ、これで」
そう言ってヒイロはメルの手を掴んで店を後にした。
外に出て少し離れたところで男を心配する声や怒り狂った叫びが店から聞こえる。
「だ、大丈夫かよ?」
「あの野郎ぜってぇぶっ殺す!? あいつ等を早く捕まえろ!」
騒然とする店の方を気になってメルは見ていると、汗だくになっているヒイロが声を掛けた。
「走るぞ」
「は?」
「全力で走って逃げるんだよぉ!」
「えぇ!?」
そう言ってヒイロはメルの手を掴みながら走り出した。
後ろからは男たちの怒りの声が聞こえた気がしたが、メルは振り返ることはしなかった。
細い路地裏へと通ずる狭い通路で息を切らしながら日陰となっている壁に凭れかかる二人は、補給した水分が灼熱の元で走ったために汗となって吹き出していた。
「もー! 折角水飲んだのに喉カラカラだよ!」
胸元を仰ぎながらメルは苛立ちの声を上げた。
「いやーすまん! なんかイラってきちゃってついヤッちゃったぜ!」
「ついって……」
呆れながらため息を吐こうとしたが、ヒイロは自身の発言のせいでああ言った行動を取らざる得なかったことに気がつく。
「いや……、謝るのは私の方だった……。ごめん……。私があんなこと言っちゃったから……」
項垂れるように顔を下ろすメルにヒイロは明るく言葉を掛けた。
「気にすんなって! 俺もあいつらにイラついていたからいずれ手を出していた。だから結果的には変わんないさ!」
はにかみながら親指を立てくれるヒイロにメルは救われた気持ちになる。
「おっ? 俺今かっこいいこと言ったことない!? たくっ、惚れんなよ?」
「ウザい」
切り捨てるように言うとヒイロは大袈裟に落ち込んだ。
ヒイロは地面に突っ伏すようにして落ち込んでいると、何かを思い出したのか声を上げる。
「あっ」
「こ、今度は何?」
他にも何か不祥事があったかと身構えていると、ヒイロの口から予想外なことを尋ねられる。
「お前が背負っているカバンの中に何かの生き物とか入ってる?」
「へっ!?」
咄嗟に肩にかかるカバンの紐を握りしめる。
「な、何でそう思うの?」
「いや、さっき男の顔面に骨当たったろ? それがそのカバンからこっそりと手みたいなのが出て投げているのが目に入ったからさ」
ヒイロの説明を聞いて一体どこから骨が現れたのか理解し、咄嗟にカバンの方を振り返り、凝視するが、当の本人は黙秘を決め込んでいるのか反応がなかった。
「やっぱり何かいるのか?」
目を輝かせながら聞いてくるヒイロにメルは慌てて否定した。
「い、いや何もいないよ!」
ヒイロになら話してもいいかもしれないと思ったが、もしカバンの中にいるベルヘルを見て店の亭主達と同じように罵倒し、大事になってしまうのではと心のどこかで警音が鳴り響いていた。
「隠さなくてもいいじゃねぇか……、このいけず!」
不貞腐れてそっぽを向いてしまったヒイロを見てメルは罪悪感に押しつぶされそうになる。
スリから助けてくれたどころか、食事まで奢ってくれたヒイロに隠し事で気分を害させてしまったことが辛く感じた。もしかしたら、ベルヘルの姿を見せても普通に接してくれるのではないかとメルは思った。しかし、だからと言って、恩人でもあるベルヘルのことを容易に話せることは出来なかった。
店でも人間達はモンスターに強い恨みと侮蔑を抱いているように、他の人間達も戦争のことを片時も忘れずにいる。そんな人間達はきっとベルヘルも想像も出来ないようなことをしてきたのだろうとメルは思う。それなのに、ベルヘルは見知らぬ子供を助け、その家族達も助けてくれると言ってくれる。
ヒイロに強く感謝している。だが、それに比べられない程の恩がベルヘルにはある。ましてや、これから皆を助けてくれようとしているベルヘルをみすみす危険なことに晒すことなど、自身に託してくれた皆の思いを裏切ることになってしまう。そんなことは到底出来るはずもなかった。
「ほ、本当にごめんなさい……。別にヒイロを嫌ってる訳じゃないんだけど……」
唇を噛み締めてメルは申し訳なさそうに項垂れる。
「……本当に?」
「うん。本当に」
メルは強く頷く。
「……絶対?」
「絶対」
「じゃ俺のこと好きか嫌いかって言ったら?」
「えっ!?」
あまりにも突然の質問に困惑を隠しきれないメル。もっと幼かった頃にホリーにそんなような質問をされたような気がするが、ここ最近ではそんな話をしたことすら無かったため、メルは今までとは違う汗をかく。
「嫌いなのか……」
なかなか答えるのに決心が定まらずにいると、ヒイロはため息を吐いてしゃがみこんでしまう。そんな姿を見て、メルは咄嗟に口走るように答えた。
「そ、それは! 好きな方……、かな……」
言った途端耳元まで真っ赤にするメルは今にでも穴があるならば入り込みたい気持ちでいっぱいになる。
「ふっ! モテる男は辛いなぁ! さてはあの時の背負い投げを見て惚れたな?」
勢い良く立ち上がり、先ほどまでの様子と打って変わって上機嫌になったヒイロを見て、落ち込んでいたフリをしていたことに気づき、更に顔を赤くする。
「騙したな! 落ち込んでいるフリしてこんなこと言わせるなんて!」
「そんな恥ずかしがるなって! まぁあんなかっこいいところ見せすぎちまったら惚れると我ながら思うわ」
腕を組みながら頷くヒイロにメルは吠える。
「最っ低! 死ね!」
「し、死ねだたなんて言うもんじゃありません! 現代の若者は豆腐メンタルなんだから優しく取り扱ってあげて!」
「うっさい! この変態ナルシスト!」
「お、お前……。俺のトラウマをこじ開けるんじゃねぇよ……。あっ、思い出したら死にたくなってきた……」
そう言ってヒイロは死んだ魚のような虚ろの目になる。
「ふんっ! 自業自得だ!」
未だに怒っていたメルはそっぽを向きながら言い捨てた。
「そ、そこは優しくしてやってくれよ……。だが、そんなメルさんも可愛い」
「っ!?」
「イッデェ!? な、何よ! 本心で可愛いって言っただけでしょ!? ちょ!? 待って! 本当ごめん! 謝るから殴らな……、あ、あかん! 女の子がそんなとこ……、本当に待って!? そこは大切な息子たちが……!? ギャァァァァ!」
これまでになく顔を赤く染め上げたメルは全力でヒイロに拳を気が収まるまで何度も殴り続けた。主に股間を。
苦痛の叫びが上がる中、闇雲に殴り続けているメルに背後にいたベルヘルが見かねてか言葉をかける。
「メルさん……。そろそろ許してあげてください……。そのままだと彼気絶しかねませんので……」
カバンから身を乗り出したベルヘルの言葉にハッと我に帰ったメルは手を止めて距離を取る。殴られ続けられた本人は口から唾液を垂らし、谷間を抑えて痙攣していた。
「だ、だってヒイロがあんなこと言わせるんだもん……」
不貞腐れていたメルはヒイロから顔を背けながら答える。
「大丈夫ですよ。二度とあんなことを言えないようにことが終えたら私が始末しますので」
「おい! 何が大丈夫だよ!? 大体何でそんな物騒な話になってんだよ!?」
痛みで悶えていたヒイロだったが、身の危険を感じて勢いよく起き上がる。
「女性にあんな辱めを受けさせたら極刑を受けるのが常識でしょ?」
発せられる言葉には途轍もなく不快な感情が込められているようにメルは感じる。
「どんな常識だよ!? この世界怖すぎるわ!?」
二人の会話を聞いていると咄嗟にベルヘルが姿を出していることに驚愕する。
「ベルヘルさん出てきちゃって大丈夫!?」
「えぇ。話を聞いていて彼なら大丈夫だと思いましたから」
「これが……?」
「おい。素で傷ついたぞ……」
疑念の眼差しで見つめられているヒイロは露骨に肩を落とす。だが、またしても元の調子に戻り、ベルヘルを見るや目を輝かしていた。
「まっ、そんなことよりだ! 身長から見て人には見えないけどホビットとかか!? それとも小人族!?」
「まぁそれに近い存在ですね」
「おぉ! 漸く亜人と出会えた! いやぁ感激だ!」
子供のようにはしゃぎ、間近で見ようと顔を近づけた。ヒイロは興奮して気がついていないのか、腰を折って近づけた顔はメルの目と鼻の先まで近づいていた。
普段なら気にも止めなかったが、先ほどのやり取りのせいか顔が熱くなるのがわかる。メルは気がつかれる前にと行動に移そうとするが先にベルヘルが動いた。
「近いです。離れてください」
「あだっ」
ベルヘルは空になった水袋を振り下ろしてヒイロの頭部目がけて振り下ろした。
叩かれたヒイロはさほど痛みを感じない頭部を摩りながら、しぶしぶ距離を取り、間近にあった顔が離れたことにより、メルは安堵する。
「遅れましたが感謝の言葉を語らせてください。まずは、連れ去られそうになった私を助けてくださったこと、それと、先ほどはメルさんを助けてくださってありがとうございます」
メルの肩へと頭を下げるベルヘルに、ヒイロは手を左右に振った。
「気にすんな、気にすんな。困ったらお互い様だろ?」
はにかみながら親指立てるのが彼の癖なのだろうとメルは思った。
「……」
ベルヘルはヒイロの姿をまじまじとフードの中から見つめていた。
「ん? どうした?」
「……あなたは変わっていますね」
「突然失礼なこと言い始めるな。まぁ普段から変わっているって言われていたけどな……」
「すみません。決して悪い意味で言ったつもりはなかったのですが……」
「じゃ何も問題ないさ。それよりも二人はどんな関係? さっきの店の話だと亜人はモンスター同様に人間に嫌われているって聞いていたんだけど。ましてや、こんな子が兄貴たちを助けるってどんなことがあったんだ?」
メルはベルヘルに助言を求めるように視線を向けた。それに答えるようにベルヘルは頷き、口を開く。
ヒイロの質問にベルヘルが視線を向けてきた意味をメルは悟った。そして、彼女もベルヘルの方を見つめ、ゆっくりと頷いた。
彼女の同意を得たベルヘルは村で起きたことなど始め、これまでの経緯を語る。ただし、都市に潜入したことや、トヨスケや自身がモンスターということを省いてだった。
話を聞いているとベルヘルは気を使ってか、伝える内容をオブラートに包むように言葉を選んで話していた。だが、それでもメルには数日としか経っていない記憶は、色あせること無くはっきりと蘇る。
目を瞑り、腕を組んでいたヒイロは話を聞いているうちに眉間にシワを寄せていった。そして、一通り話しを聞き終えると、開いた瞳には明らかな怒りが宿っていた。その様子は今までの雰囲気から考えもつかにほど殺気立っているようにメルは肌で感じる。
「許せねぇな……」
こめかみを押さえながら呟くその言葉はまるで、今まで思い続けてきた気持ちを代弁してくれたようで、メルは少し救われたような気がした。
「こうしちゃいられねぇ! 早く人売りの場所を突き止めて助けようぜ!」
「待ってください」
今にでも駆け出しそうになるヒイロをベルヘルは呼び止める。
「確かに助けなければいけませんがどんな理由があれ、奴隷は商品なのです。金銭以外での救出というのは盗むこととなり、罪へと繋がります。故に慎重に動かなければいけないのです」
「じゃどうするんだ?」
「とりあえず、今回はここの人売りの場所で彼らが売られているかを確認することが目的となります。救い出すのはそれから計画を立てて売られて運ばれる時を狙って、奇襲をかけるのが得策と思います」
ベルヘルの話の一部は本当だったがそれ以外は嘘であった。
今回の目的は今さっきいったように所在を確認することではあるが、救い出すのはその日の夜にベルヘルの同志というモノを使って救い出す算段なのをメルは覚えている。故に一瞬メルはたじろいを見せるが、ベルヘルにこっそりと背中を叩かれて落ち着きを払った。
「なるほど。とりあえず了解したぜ」
今度こそ歩を進めようとすると、再びベルヘルが呼び止めた。
「待ってください。最後に聞きたいことがあります」
「今度は何だよ?」
怪訝した眼差しでヒイロは振り返る。
「どうして貴方はそこまでしてメルさんの手助けをしてくださるのですか?」
その問いに聞き覚えがあった。それはメルを人狩りから救ってくれた、ベルヘルに尋ねたものと同じだった。
メルもヒイロがどうして助けてくれるのか気になっており、どう答えるか耳を傾けた。
「そんなもん、俺が助けて救える命があるなら助けるに決まっているだろ?」
何を当然なことを聞いているのだろうと首を傾げるヒイロに、ベルヘルは質問を続ける。
「では例えば奴隷になっている人々を全員救えたら救うということですか? それによって誰かが悲しむ羽目になったとしても?」
ヒイロは口元に手を当てて口の中で何かを呟いていると、言葉が見つかったようで顔をメル達に向ける。
どんな答えが返ってくるのだろうと、メルも耳を傾けるとヒイロは口を開いた。
「そんなことは考えたことないからわからん」
「えっ」
「……」
否定も肯定もするのではなく、不明という予期もしていなかった言葉に声が漏れる。
ベルヘルは呆れてしまって言葉を失っているのではないのだろうかと不安になっていると、だが、とヒイロは言葉を繋げた。
「俺だって出来るなら全ての人間を助けたいさ。けど、それは無理なことはわかっている。ましてや、今まで平和で死っていう概念からかけ離れた世界で生きてきたガキがどうこうできることじゃない。けど、だからこそ俺が助けられる人がいるなら全力で助けるさ。それが誰かにとって悪だとしても、俺は俺が感じた正義と悪で動くまでさ。どんな命であれ、助けられるのに助けない後悔なんて二度とごめんだ」
真剣な眼差しで訴えかける目を見て、その言葉を聞いてメルは少し心惹かれた。しかし、彼の態度はしばらくして普段の雰囲気に変わり、恥じらいを誤魔化すかのように髪を掻き毟る。
「ちょっとかっこいいこと言い過ぎちまったぜ……。やっちまったなぁ。男まで惚れさせちまうだなんて、何て罪な男なんだな」
余裕の笑みを浮かべながら短い前髪をさらうヒイロを見て、それは彼の照れ隠しであると今までの様子から見ていて分かってきた。だから、メルも変わらない返事をすることを決めたのだった。
「本当気持ち悪い……」
「全くですね。男の方に興味があることは決して悪いことではないので、否定はしませんが、近くに寄らないでくださいね」
ベルヘルもメルの気持ちが理解出来たのか、同調するようにヒイロを嫌忌な口調で突き放すように言った。
「ひ、引くな! その引き方はガチっぽいからやめてあげて! あと俺は女の子が大好きだから誤解しないで!?」
慌てふためく様を見てメル無邪気な笑みを浮かべる。
一行は店で教わった通りに北の方角へと進み、時折、出店で買い物をする際に尋ねていた。その甲斐があって、メル達は人売り。通称『売買』に辿り着く。
「ここが……」
長い道のりの果てに日は随分と傾き、空は徐々に橙色に染まりつつあるも、辿り着いた場所は亭主が言った通り、誰が見ても分かりやすい作りがされていた。
近づいて行くうちに強い悪臭が周囲から漂い、高い塀には黒々とした塗料で奴隷市場と乱雑に書かれ、入り口と思われる場所は大きな馬車が通れる程の幅があり、塀と同様の高さで立つ木材の扉が開かれていた。そこから見えるのは、石作りで作られた建物が連なるように建ち、それらの建物の全周には柵で中が吹き抜け状態になっていた。その中には拙い服に身を纏わせている者たちが何十人とひしめきあったていた。
「すげぇな……」
入り口の前で佇んでいたヒイロの表情は引きつっていた。
「酷い……」
メルもその光景に口元を抑える。
「大丈夫ですか? 一旦休んでからにしますか?」
カバンの隙間から顔色が悪いメルを気遣うベルヘルにメルは首を振る。
「……うんん。行くよ」
決心がついたメルは早る気持ちを抑えながら歩を進める。
(ここにルー兄達が……)
門の前には銃器を掲げた二人組みの男達に睨まれながらも、メル達は門を潜る。
門の先では馬車が並び、様々な人が集っていた。中には服装から見ても裕福そうな人物もいれば、銃器をぶら下げた怪しい者、それはメルの村を襲った人狩りに酷似していた。
その姿を見てメルは背中が疼くのを感じた。
「……っ!?」
息が荒々しくなり、手足が痺れ始める。脳裏には村を襲った人狩り達、そして、リマンを殺した憎き顔に傷跡があるディールの顔が現れる。
抑えきれない感情が今にでも爆発しそうになった時、背中に何かが触れるのを感じた。
「メルさん。落ち着いてください。あれは貴方の村を襲った人たちではありません」
背中に背負っていたベルヘルがカバン越しに手を添えて、優しい声を出していた。その声を聞いて、メルは再び人狩りに酷似している者を見ると、真っ黒な色合いというところは同じであったが、よく見ると所々が違っていることに気がついた。
震えたような途切れ途切れの吐息を出していた。
「大丈夫か?」
大量の汗を掻いているメルの肩に手を乗せてヒイロが心配そうに顔を覗かせていた。
「う、うん……。大丈夫……」
「……あんまり無理するなよ?」
「大丈夫……」
メルは自身にも言い聞かせるように呟いた。
彼女が歩き出そうとした時、突然肩を掴んでヒイロの体に肩が密着するように引き寄せた。
「っ!?」
「全く何が大丈夫だよ。怖いなら一緒に歩いてやるよ」
メルの心臓が力強く脈打ち、鼓動が早くなる。
(な、何これ……?)
こんな時に何故こんなにも胸が熱くなるのか、自身でもその正体がよくわからずにいた。
そんなことを考えていると次第に顔が熱くなり始めた。
「ん? どうした?」
「うっさい!」
「ぐふっ! イッデェ!?」
ヒイロの腹部に鋭い肘打ちが入り、メルの肩を掴んでいた手はカバンの中からこっそり現れたベルヘルの手によって強い力でつねられた。
ヒイロの声が大きかったためか、その場にいた者達に睨まれる羽目となった。だが、ヒイロの計らいもあり、メルは少し余裕ができた。
(私、皆んなに迷惑かけっぱなしだな……。もっと強くならなきゃ……)
メルはしっかりとした足取りで檻状の建物に近づくと、先ほどから漂っていた匂いがさらに強くなり、鼻元を抑える。その匂いは奴隷達から放たれているものであった。よく見れば奴隷達の頭はフケまみれになり、肩にはそのフケが積もりに積もっていた。
むせ返そうになるのを堪えながら、ルーイや村の皆んながいないか、恐る恐る建物に近づく。何十人檻の中にいる奴隷達はそれぞれ首に枷が嵌められ、皆それぞれ項垂れ、脚を抱えて顔を伏せたりしていた。そのため、メルは村の者がいるかわからずにいた。
メルは勇気を振り絞って声を出した。
「ルー兄……? ホリー……?」
だが、勇気を振り絞って出した声に誰も反応示さず、暫く待つも誰もが俯いているだけだった。
皆がいないことに落ち込みながらも、メルは連なって出来ている檻へと渡り、同じように声を掛けていく。すると、一人の人物が顔を上げ、メルは柵を掴んで見入るようにその人物の顔を見た。
顔は肉が削ぎ落とされたように頬が痩け、目元は黒々としていた人物はメルに見知らぬ少年だった。自身と同じぐらいに思える少年の余りにも無残な姿にメルは一歩退いてしまう。虚ろな目でメルを見ていた少年はは興味を失せたのか、それとも落胆したのか、再び顔を伏せた。
心臓は早い速度で脈打ち、胃は何か得体のしれない物が沈んでいくような感覚に陥る。
メルは目を伏せ、胸元を握り締めて自身を落ち着かせるように呼吸をする。そして、メルはその檻から顔を背けて、次の檻へと進む。だが、そこでも誰も反応を示さなかった。そんなことをメルは何度も繰り返した。そんなメルをヒイロとベルヘルはただそれを黙って見守ってあげることしか出来なかった。
メルは別の檻に移る度に心がすり減っていくような感覚に襲われ、疲弊して行く。それを見かねてか、ヒイロがメルを呼び止める。
「メル待て」
「……」
「待てって!」
ヒイロは立ち止まらずに先に進もうとするメルの手を掴むと、メルは声を荒げて手を振りほどいた。
「嫌だ! 今もここに皆んながいてここの人達のように苦しんでいるんだよ!?」
目元に涙を浮かべていたメルは自身が思っているよりも大声に出していることに気がついておらず、人狩りや人買い、近くにいた奴隷達の視線が集まる。
「お前が先にぶっ倒れたら意味ないだろ? 兎に角落ち着け」
ヒイロが周囲の様子を伺いながら話しており、メルはそこで自身が冷静さを欠けて大声を出したことに気がつく。
「確かにそうですね。これだけまだ多くの檻がある中、一箇所ずつ回っても埒が明きません」
ベルヘルもできる限り周囲に気がつかれないぐらいの声でメルに言い聞かせる。
「ですので、私にいい案があります。そこではヒイロさんの力がいるのですが宜しいでしょうか?」
「おう。任せろ!」
ヒイロは親指を立てながら微笑した。
「では一旦門の付近まで戻りましょう。宜しいですかメルさん?」
「……」
メルは強く唇を結び、納得していなかったがゆっくりと頷いた。
メル達は踵を返して歩いてきた道を戻る事となる。しかし、未だに皆の安否が気がかりでならなかった。
門の付近まで戻るとヒイロは門の前で警備していた者に声をかけて、人買いを行っている頭の所在を聞いた。すると、壁沿いに作られた奴隷たちが収納された建物とは違い、頑丈そうな建物に指を指した。
ヒイロは礼を行ってからメルと共に人買いを営んでいる頭を訪ねて建物へと近づく。建物の一箇所に小窓があり、そこを通して頭と思われる人物が中から会話をしていた。
メル達がすぐそばまで近寄るとちょうど話が終わったのか、先客がその場を後にした。
「いらっしゃいませ」
こちらの存在に気がついたのか咄嗟に小窓の先で胡麻をするように手を重ねてすり合わせていたが、メルの姿を見てか懸念の色が見て取れる。
頭と思われる人物は煌びやかな服装に身に纏い、体はふくよかに膨れ上がり、顔は脂と汗でてかっていた。
「ちょっと聞きたんだけどさ。いいかな?」
小窓に突き出た台の上に手をかけて身を乗り出したヒイロは、その台の上に小さな袋を置いて話しかけた。
これこそ、ベルヘルが先ほど言っていたいい案と言っていた物で、袋の中にはヒイロが所持していた金銭を仕込ませていた。
頭はそっと置かれた布を手に取って中身を確認すると、満足したようでそれを懐に収め、先ほどとは打って変わって満面の笑みで対応してきた。
「はい。私で答えられることであれば何卒」
「ここ二日で多くの人間を売りに来た人物いないか?」
「そうですね……」
頭は手元に置かれていた書類を捲りながら、何かを確認していた。
「ここ最近は売りに来るお客さんはいないですね。逆に買いに来る方が多くいらっしゃいましたが……」
「え!?」
驚愕と困惑が折り重なった声を上げてメルは台に乗り出した。
「そ、そんな何かの間違いじゃ……!?」
少女がやりそうにない凄まじい剣幕で問いてくるメルに、気圧されるかのように身を反らせる。
「い、いえ……。残念ながらウチには売りに来たお客さんはいないですよ」
「嘘……」
唯一の手がかりに思えたその道が途絶え、闇の中に投げ出されたような絶望へと変わった。
これからどうしたらいいのかわからず、こうしている間にも、ルーイ達がここにいる奴隷のような仕打ちを受け、どこの馬の骨に買われてしまうのではないかと思うと、もっと早くここに来られていたらと自身を攻め始める。
(あぁ……、どうしようどうしようどうしよう!? 私のせいで……、私の……!)
青ざめていくメルを見て、ヒイロは必死に手がかりを探そうと頭に問い質す。
「じゃ知り合いの人買いとかから、多く人を買ったとか聞いてないか!? それか売りに来るとか情報とかは!?」
「い、いや、流石にそんなことは……」
困惑した表情に満ちていた頭だったが、あっ、と思い出したことを口にした。
「で、でも近くの森の近辺で人か死んでいたっていう話なら聞きましたが……?」
その言葉にメルは息が詰まる。
「なっ……。そ、それはいつの話だよ……?」
「ひ、昼間頃でしたよ。明け方に林道で馬車を走らせていると、道端で何人もの人が倒れていたそうなんですよ。特段人が死んでいることなんてよくあることだったけれど、その死体に真新しい奴隷の刻印が押されていたから、不思議に思ったと人買いのお客さんが……」
「……嘘」
それを耳にした瞬間メルは走り出していた。
「おい!? メル!?」
ヒイロはメルの後を追いかける。門に差し掛かったところで突然現れた馬車に進行をはばかれる。
「っ!?」
ヒイロは門と馬車の僅かな隙間から通り抜け、周囲を見渡したがメルの姿は見合わらなかった。
「どこ行ったんだよ!?」
進行方向を迷った末に来た道を戻ろうとした時、前方から歩いてくる男にヒイロは咄嗟に尋ねる。
「な、なぁ! そっちに女の子が走って行かなかったか!?」
「あぁ? 知らねぇよんなもん!」
男は鬱陶しそうにヒイロを押しのけて行った。
「くっそ!」
男が歩いてきた方面へと凄まじい速さで駆け抜けるヒイロは時折、人と打つかりそうになるも、壁を使って速度を殺さずに回避を行う。
枝分かれしている道に差し掛かった際には、立ち止まって視線を向けてメルの背中がないか探してみるも、姿は無かった。そして、狭い通りから出た先はメルと情報を集めるために立ち寄った市場だった。
多くの人が行き交い、賑わいを見せる場所で必死にメルを探すも、どこにも見当たらなかった。
「メル……」
呼びかけに応じる気配は無く、ただ溢れる人集りを見つめながらヒイロは立ち尽くす。背後からは鐘の音が響き渡っていた。
(嘘! 嘘! 嘘だっ!?)
否定し続けても脳裏には血の生臭さ。肉が焼け、骨が割れる音。煙と硝煙。そして、リマンの死。それらが繰り返し浮かび上がる。
「嫌だ! 嫌だ! 嫌だぁ!」
「メ、メル! 落ち着いて!」
ベルヘルの声は一切耳に入らず、ただ必死に走り続けた。
何度もつまずいては転ぶも、怪我など気にもとめずにすぐに起き上がり足を動かす。
メルは走る方向に何があるなど考えること無く、ひたすらに走り続ける。この都市から抜け出したいがために。
我武者らに走り続けていたメルは狭い路地から幅広い道へと抜け出した。
通りには貨物を乗せた馬車や大きな荷物を担いだ人々が、都市の中心を目指すように進んでいた。そして、彼らが進んできた方角に目を向けると、そこには強大な門がそびえ建っていた。
門の前では日が沈む前にとアール都市へ訪れた者たちが列を成して、検問を受ける番をまだかと待機していた。
メルは外へと通ずる門を見た途端に我を忘れるがの如く走り出した。
「まさか?! いけません! 止まってください!」
ベルヘルの必死の呼び止めはメルの耳に届くことは無かった。
「っ!?」
呼び止めに応じないと悟ったベルヘルは咄嗟にメルの服についたフードをメルの頭に被せた。
門の付近まで近づくと検問にあたっていた兵士が走ってくるメルの存在に気がつき、声を出して制する。
「止まれ。ここから出るには入国書を提示しなければ、ここを通ることは出来ないぞ」
レザーアーマをーと着用した兵士の呼び掛けに反応を示さず、それどころか、走る速度が次第に上がっていた。
異常に気がついた兵士は抱えていた小銃を構えて叫ぶ。
「おい! 止まれ!」
周囲の人間は兵士の声に反応して何事かと騒めき出す。他の兵士たちも同僚の異変を知って集まり始める。そんな中、長銃を向けられたのにも関わらず、メルは外を目掛けて走り続ける。
フードで表情が見えないも、立ち止まる様子がないことから脅しが効かないと知った兵士は舌打ちをしていた。そして、銃身と銃床を握り締めて打撃の体制を取り始めていた。そして、目の前まで近づいたメルに対し、兵士は長銃を振り上げた。また、それと同時にメルの足元に一片の骨が落下した。
店でベルヘルが投げた骨とは違い、その骨は黒々としていた。
黒い骨が地面と打つかったその瞬間、ひび割れた隙間から熱せられた鉄のように赤々と光放たれた途端、突如黒い煙のような物が黒い骨から噴き出し、門の周囲を包み込んだ。
突然視界に広がった煙に驚き、メルは咄嗟に顔を塞ぐように手が伸びる。
「!?」
四方八方へと広がりを見せる煙は門の付近にいた者達を飲み込み、また都市で暮らす人々をも混乱の渦へと誘う。
「何?!」
「キャァァァ!?」
「何だこの煙は!?」
パニックになった者達の狼狽した声が飛び交う。
悲鳴にも近い声が耳の中で響き渡る中、メルはゆっくりと目を開くと視界一面に黒い霧が広がっていた。
自身の手元でさえも黒くボヤけ、立っていたはずの門は姿を消したように見えなくなっていた。
「今です!」
そんな混乱の中、ベルヘルの声を耳にして、はっと我に返ったようにメルは目の前に立っていた混乱仕切った兵士を押しのけて走り出す。
「ごめんなさい!」
「なっ!?」
鈍い音が発し、走り際に振り返ったが、兵士の姿は霧に包まれて見えなくなっていた。
行き先が見えず、不安ながらも走っている左右に石が積み上げられて造られた門の一部が見えた。
安堵するつかの間、後方から叫び声が響き渡る。
「門を閉めろ! この霧を発生させた魔術師が外に出ようとしている!」
その声はメルが押しのけた兵士の声だった。その声が響いてから、馬車が通れるだけ開かれていた扉が徐々に降り始めていた。
メルは限界に近づいていた脚に鞭打って、さらにスピードを上げる。
門が人一人通れる隙間よりも狭まったところで、メルは腰を屈めて無事に外へと出ることができた。
小鹿のように足は震え、荒々しく乱れる息を整えていると扉は地響きを鳴らしながら門を閉じた。そして、甲高い笛の音が鳴り響き、その後すぐに鐘を力強く叩く音が周囲に轟かす。
「急いで! この煙も長くは持ちません!」
煙は次第に薄れ、視界を確保することが出来始めている。
止まることの知らない汗を流しながらメルは再び走り出す。
後方からは大声で叫び、状況のやり取りを行おうとする声が聞こえる。最初はチグハグだった会話も、煙が薄まるごとにはっきりとした情報伝達へと変わっていった。
走っているつもりでいるも足はろくに動かず、歩いているのと変わらない速度で進んでいると、大分薄まってしまった霧の外へ抜ける。それと同時に倒れ込むようにして生い茂った草原に膝をつける。何度も咳き込み、酸素を求めて口を大きく開けて大きく息を吸い込もうとするも、うまく呼吸ができず、短くて速い呼吸をするばかりだった。
「はぁ……、はぁ……。うっ……」
込み上げて来る吐き気に襲われ、舌は痺れ、口からは酸味かかった唾液が溢れ出す。それに耐えるかのようにメルは地面を抉るように土ごと握り締める
「メルさん! 大丈夫ですか!?」
「いたぞぉー!」
ベルヘルがメルの容体を気遣っていると後方にある門の上に立っていた兵士が指差して声を上げる。
いつの間にか完全に霧がなくなっており、門の上から兵士達が一斉に黒い鉄の塊を向ける。
「いけない!? ハリードさん逃げ……」
ベルヘルの言葉を制すように声が響く。
「撃てぇ!」
一斉に複数の銃声が交差し、風を切る音が聞こえた瞬間、直ぐそばの地面が相次いに飛び散った。
指一本も動かすことができなかったメルは逃げることもしないで、銃弾が飛び交うその場に留まっていた。
一人の兵士は呼吸を整え、標準をメルに合わせて引き金を引いた。
弾はメル目掛けて真っ直ぐ伸び、メルの背中を捉えた……、はずだった。
「ふっ!」
メルを射抜く筈だった弾は鈍い金属音を立て、二つに切り裂かれた。
「ベルヘル殿! ご無事で!?」
「トヨスケさん! 来てくださったのですね!」
どこからなく現れたトヨスケに門の上から射撃を行う者達は驚愕する。
「あ、新手が現れたぞぉ! 開門急げ!」
門では兵士達が慌ただしく行動を移す姿が見える。門の外で待機していた者達は銃声に怯えながら、上から指示されるがままに壁際に移動を始めた。
「来てくれたじゃないですよ! 騒ぎになっているから、もしかしてと思いきや……。なんでこんことになっているのですか!?」
全身水浸しになっている服が、下水道から急いでここまで来たことを物語っていた。
トヨスケは怒りの声を発しながら弾を斬り裂く。
「ちっ! うっとしい! 兎に角ここから逃げますよ!」
トヨスケの言葉が合図だったかの如く、門は鎖が擦り合う音を立て、下されていた扉が隙間を開け始めた。
「くそっ!」
咄嗟に倒れ込んでいたメルを抱きかかえて走り出す。そして、地面を強く踏みしめて高々と飛び上がる。
その光景に兵士達は目を白黒させた。突然飛び上がる行為では無く、飛び上がった高さに度肝を抜いていた。その高さは人一人を優に飛び超えられる程だったのだ。
唖然としていた兵士達だったが、一人の兵士の声で我に帰る。
「着地を狙え!」
周りの兵士と見た目が一層違うその人物は都市を守る勤めを担い、都市の出入り口でもある五つの門に各一名ずつ配属される副団長の一人であった。
副団長はトヨスケがまるで剣を振って弾を斬っているかのように、何故か弾が一向に当たらずにいたことから、動きが止まる着地地点に標準を向けさせる。そして、トヨスケが地面に着くと思われたその時、突然空中でトヨスケが門の反対の方角へと前進を行った。
「なっ……!? う、撃て!」
予期もしていない事態に困惑しながらも、副団長は射撃命令を下す。
兵士達は遅れながらも引き金を一斉に引いて撃鉄を叩く。
空気を切り裂く音が飛び交う中、姿の見えないラクィオンの背に乗ったトヨスケは飛んでくる弾を斬り落としていると、門の奥に立ち並ぶ騎兵の姿を確認した。
「撃ち方止めぇ! 騎馬隊突撃せよ!」
銃声が鳴り止むと、開ききった門から馬を操る数体の騎兵が地を蹴って駆け出した。
騎馬隊とは言い難い人数ではあったが、突然の事態に急速で準備を行い揃えたには申し分ない数だった。
馬の速度はラクィオンよりも早く、いずれは追いつかれてしまう。
「ベルヘル殿! 森の中に入ったら私が囮となって奴らの注意を逸らします。その間にお逃げください!」
「ですが……」
「ご安心なさいませ。もうあと僅かで日が落ちましょう。そうすれば奴らも無理には追ってくることはできないはず。それまでに私が逃げ切るなど造作でもないことです故」
「……わかりました。くれぐれも気をつけてください」
「ベルヘル殿も。この阿呆をお願い致します!」
メル達は無事に森内部へと入ることが出来るも、騎兵は臆することなく後ろに張り付くようにし後を追いかけた。
トヨスケ達は突然木々に登り、木から木へと飛び移り始めたため、騎兵達は困惑の色を隠しきれずにいた。姿が見えなくなるも、木々の揺れや音によって辛うじて後を追うことが出来ていたが、それも時間の問題だと感じた先頭を走っていた騎兵は銃を構えて、引き金を引こうとした。だが、その瞬間、突然木々の上から飛び降りてきたトヨスケが先頭の騎兵の首を両断し、残された体を押しのけて馬を奪い取った。
突然目の前を走っていたはずの仲間が首を切られたことに恐怖を感じるも、逃げるかの如く進行方向を変えたトヨスケの後を追いかけて行った。
「トヨスケさん……。ご無事で……」
騎兵から振り切れたベルヘル達はそのまま、目的地へと向かって進み続ける。メルは振り落とされないように力がうまく入らない手で必死にラクィオンの体を掴みながら、願い続けた。あの話が嘘であることを。
けれど、背中は疼き続ける。
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