チャプター4
獅子ヶ谷宅の前庭にて、絢音と黒い男は肉弾戦を繰り広げていた。爪を武器にして迫り来る男と、その軌道を躱して足技で応戦する絢音。決め手が見つからないまま、膠着状態が続いていた。
“まさかあの高さから落下しておいて無傷だなんて……”
男の消えた先を確認しに来た絢音を待ち受けたのは、不意打ちで放たれた男の攻撃だった。絢音と同じ肉体強化で難を逃れたのかは分からないが、とにかく戦いはまだ続くのは確かだった。
拮抗した現状に、絢音は舌打ちする。それから形勢を覆すために、書斎から拝借してきた灰皿を男に投げつける。だが、男が身を反らして灰皿はあらぬ方向へ飛んでいく。一瞬、双爪の連撃が止んだ。その隙を待っていた絢音は、自由になった両手で拳を構えて、右ストレートを繰り出す。見事に男の顔面に当たる。だが浅かった。
男は粘着質な笑みを零すと、絢音の腕を掴んで彼女の懐へ入り込む。移動するまでの勢いを利用して、掴んだ腕を前方へ引っ張って彼女を背負って投げ落とす。柔道でいう一本背負い投げだ。絢音は地面の上で受け身を取るも、体中に痛みが走る。
苦痛に歪む絢音の顔へめがけて、男は左足で踏みつける。その直前で絢音は左方へ転がって足を避ける。そのまま男と距離を取って呼吸を整える。
“野郎……かなり強いな。粗雑な態度と裏腹に、綺麗な体術を身につけてやがる。よほど鍛錬を積んでる証拠だ。なんて憎たらしい奴なんだ”
対峙している男は、いかにも余裕そうに手を腰にやって絢音の様子を窺っている。ニタリ、と邪悪に歪んだ笑顔は見る者を不快にさせる。
「おいお〜い。まだ動けんだろォ? 休憩なんてしてねェでもッと派手に暴れようぜ」
「ほざけ、この戦闘狂。さっきまでイラチだったくせして戦い始めた途端にヘラヘラしやがって。お前のお遊びに付き合ってやるほどこっちは暇じゃねぇんだよ」
「そッかそッか。てめェも忙しいご身分なんだな……だッたら速攻でケリをつけてやんよォ!」
男の右掌は天を仰ぎ、目前で静止する。明鏡止水のごとく張り詰める緊張と、何かが起こると予兆させる無の動作。絢音は敵の間合いに踏み込むのは危険だと察知し、傍観に徹する。
ボッ、と酸素が燃える音が跳ねる。男の掌上で炎が生まれ出たのだ。だが、それ以上に絢音の目を奪ったのは、
「黒い、炎だと!?」
赤でも青でもなく、見るからに熱を感じさせない炎。おぞましいほどの純黒が寒気を誘う。
異変はそれだけではない。牙を剥き出しにした男の耳は三角形を模るように尖っている。また、ギラつかせた瞳は洋紅色に染まって鮮やかに映えている。それらのパーツが意味するものはすなわち。
「お前……悪魔だったのか!」
「そうさ。できれば俺様の正体を明かさないまま遊んでやりたかッたんだが、てめェ様がチョッパヤをご所望ッてなわけだから瞬殺することに決めたんだ。ありがたく思えこのアマ」
「言ってる意味が分かんねぇ、よ!」
そう吐き捨てると、絢音は右方へ向かって駆け出す。男は疾走する絢音に的を絞って黒炎を放つ。炎は絢音が踏んだ草花へ着火する。だが燃えつづけることは無く、霧散する。その後も立て続けに黒炎が放たれるものの、標的に当たることは無く地面の上で跡形も無く消え去るばかり。
「逃げんじャねェよ! 速攻で終わらせなきャ帰れねェだろうが!」
「寝ぼけたこと抜かすなクソザル! 悪魔の炎に焼かれたらそのまま地獄行きだろうが! 誰が好き好んで燃やされるんだよ!」
悪魔の黒炎は魂ある者のみを燃やし、その魂を地獄へと持ち帰る。だからこそ、魂を持たない草花は燃やさず、魂を持つ人間の絢音を狙う。
逃走する絢音に、追走する悪魔。その追いかけっこを終わらせたのは、男が投げたダガーナイフだった。刃が絢音の左足に刺さって彼女の動きを止めた。痛みに気を取られてその場に倒れ込む絢音。
男が彼女の側まで近寄る。一歩、また一歩と、決着がつくことを惜しむように。
「ここ最近ではまァ楽しい戦いだッたよ。だがそれも終わりだ。俺様に出会ッたのが運の尽きだッたな。お疲れさん」
再び黒炎が生み出される。逃げる機会を失った絢音は黙って男を睨むことしかできないでいる。男の掌から炎が放たれる。
「止めて!!」
その手前で、制止する声が飛ぶ。絢音と男は音源の先に目をやる。そこにいたのは────
◇
────すんでのところで間に合ったみたいだ。柚月ちゃんの呼び止めで向こう二人の注意を引きつけられた。
ドラゴンくんが感じたのは男の強大な魔力だったようだ。それを感知した際に姐さんの身に危険が迫ることを予期して、居ても立っても居られずにここまで飛んできた、といったところか。ともあれ、グッジョブだ。
「なんでそんな危ないことをするんですか!? 人を傷つけたところで良いことなんて何もないのに!」
懸命に叫ぶ柚月ちゃん。ひたむきな彼女の姿を見た男は、
「なんで……だと?」
かつてないほど険しい顔でわなわなと体を震わせていた。思ってもいなかった反応に、俺たちは戸惑うばかりだった。
「んなもん、楽しいからに決まッてんだろうが! 命懸けの戦いッつうのは身も心も震わせるスリルがあんだよ。それが俺様に代え難い快感を味わわせてくれるのさ」
男の訴えは慟哭の如く轟いた。それから唾を吐き捨て、柚月ちゃんに焦点を当てる。
「メスガキ。やッぱてめェは目障りだ。甘ッたれた性根が気に入らねェ。こッちのアマよりも先に黙らせてやる」
言うや否や、男は柚月ちゃんに向かって疾走する。姐さんは依然として動けず、柚月ちゃんも足がすくんだように逃げられずにいる。「グワァー!」と、ドラゴンくんが柚月ちゃんと男の間に割って入ろうと羽ばたいたところを、
「危ない!!」
全力で阻止した。ドラゴンくんを押し出して、柚月ちゃんの前に体を割り込ませる。当然、男の爪は、
「竜司さん!」
「竜司!」
俺の背中に深々と刺さる。姐さんの蹴りとは比べ物にならない痛みが神経を迸る。
「痛ぇぇな、ボケ!」
口汚く叫ぶのがやっとだ。あまりの痛さにこれからどうするかなど考えることすらできない。ただ、目の前にある柚月ちゃんの怯えた顔が、ひどく胸を苦しませる。
「あァ!? 突然湧いてでしャばッてんじャねェぞ、てめェ! 死にてェのか!」
男がトンチンカンなことをほざく。お前が殺そうとしてきたんだろうが、と突っ込みたかったが、生憎まともに口を動かせなかった。背中に刺さった爪を男が抜いたのか、重心が後ろへ引っ張られる。その慣性に抗えず、俺の体が地面に落ちる。
「竜司さん、しっかりして!」「グワグワ!」「畜生! てめぇだけは絶対にブチのめしてやる、悪魔野郎!」「喚くんじャねェ! 俺様だッてこうなるとは──────」
苛立つほどに清々しい青空を見上げながら。皆の騒々しい声が少しずつ遠くなっていく。もうすぐ俺が死ぬってことなのかな。本当に、死ぬのか? こんなにあっけなく、訳も分からないところで?
ここまでで大した活躍なんてしてなかったじゃないか。やったことといえば、柚月ちゃんを励まして周りからロリコン認定を受けたことぐらい。せめて誤解はちゃんと解きたかった。なんだってこんな終わり方を迎えなきゃならないんだ。大体この物語の作者は一体何を考えてやがったんだ。もっとかっこいい見せ場とか用意してくれよ。死んだ後で必ず呪ってやるから覚悟しろ……。
などと、心中で強がってみたものの。そろそろ意識が限界を迎えそうなのが分かった。
あぁ……せめて一発でいいから、あの野郎をぶん殴りたかったな。一矢報いるために、この手で、俺の、力、で──────。
「……え?」
柚月ちゃんの驚きの声。他の皆も同様に目が点になっているみたいだ。何故かその顔が俺よりも低いところにある。
「おいおい、どうなッてやがんだ……」
男も少なからず動揺しているようだ。まるで未知のものを発見したかのように強張らせた顔も、何故か俺と同じ目線の高さにある。
もしかして、俺は今立っているのか? あれだけの負傷だったというのに、どうして?
まぁ、そんなことはどうでもいいか。
これから俺はあの男をぶん殴らなくちゃいけない。完膚無きまでに叩きのめす。
右の拳に全神経を集中させる。姐さんから教わった一点集中型の強化魔法。実践する機会が無かったが、やってみると案外簡単にできた。全身の血液が右拳に収斂していくような感覚に、どことなく違和感がある。目の錯覚か、拳の周りに黒いモヤのようなものが現れた。これが魔力なのか。
これならアイツを思い切りブチのめすことができそうだ。そういえば背中の痛みが無くなっているけれど、そんなことはどうでもよかった。殴ること。それだけを意識すればいいんだ。一歩、また一歩と男へ近づく。
「黒い魔力……てめェ、
男が何かごちゃごちゃと抜かしていたが、放っておく。逃げないならちょうどいい。拳に力を込める。固く、かたく。そして勢い良く振りかぶって、男の顔面を殴りつける。鼻っ柱の感触は刹那で、男は体勢を崩して倒れる。
あまり達成感は無かった。それを感じた途端に、足の力が抜けていく。抵抗する間もなく、地に伏せてしまう。
きっと無理が祟ったんだ。けれど、ここまでして、一体何のために俺はアイツを殴りたかったんだろう……。
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