金魚を飼う
まぶたを開けて最初に見えたのは発泡酒の空き缶だった。幾つも並べられたそれを倒さないように体を起こす。酒を飲んでいる内にテーブルに突っ伏して眠ってしまったらしい。大きく伸びをして体をほぐす。変な姿勢で寝ていたから少し体が痛かった。
改めて机の上を見ると並べられた空き缶の数に我ながらよく飲んだものだなと思った。最初はほどほどにしようと思っていたが飲んでいる内に止まらなくなってしまったのだ。嫌なことを思い出すと酒に逃げる癖はいいかげん直すべきだろう。
そう反省をしているとガソゴソと音がしたのでそちらを見る。冷蔵庫の中をあさっているスガヤがいた。
「なんにも入ってないな」
そうぼやいて冷蔵庫を閉じる。
人の家の冷蔵庫を勝手にあさっておいてなんて言い草だと思ったが、何も入ってないのは事実なので反論はしなかった。
「俺、たこ焼き食べたいんだけど」
「またそれかよ、たこ焼きなんて常備してるわけないだろ」
スガヤのたこ焼き好きは有名で、それこそ毎日のようにたこ焼きを食べるような男だった。
「まったく、今日ぐらいは俺の好物を用意しとけよな」
そう言って俺の向かいに座る。スガヤが俺の家に来るときはそこがスガヤの指定席だった。
「じゃあ今から買ってくるか」
時計を見るとまだ日付は変わっていなかった。コンビニに行けば冷凍のたこ焼きぐらいはあるだろう。
「いや、そこまで欲しいわけじゃないけど」
「俺も腹減ったし、それに酔い覚ましに外に出たいからな」
そう言いながら立ち上がり、少しふらついた。まだ酒がだいぶ残っているようで頭もふわふわとする。見かねたスガヤが立ち上がって俺の体を支えた。
「俺も一緒に行くよ。今のお前を一人で行かせるのは危なっかしい」
そんなに心配されるほど酔っているつもりはなかったが好意には甘えておいた。スガヤと二人で玄関に行き、外に出る。ワンルームマンションの狭い部屋からの開放感に、息を吐いた。夏の生ぬるい空気を感じる。
「そういえばお前、全然酔ってないのな」
「そういう体質だからな」
そう、スガヤがうそぶく。昔は俺と一緒に酔っ払っていた記憶があるから体質が変わったのかただの嘘だろう。適当に聞き流しながらエレベーターに乗り一階のボタンを押そうとして、手が止まる。奇妙なものを見つけた。
「なんだこれ?」
四階のボタンと三階のボタンの間に「祭」とだけ書かれたボタンがあった。ここに住んで三年以上も経つがこんなボタンは見たことがない。
「祭りのボタンなんじゃないか? 夏だからな」
スガヤが適当なことを言ったので、俺は「それもそうか」と自分でもよくわからない納得の仕方をして「祭」のボタンを押した。酔っているときは何でも思い切りよく行動できる。
すぐにエレベーターは動き出し、止まった。扉が開く。
祭りだった。
マンションの廊下は浴衣を着た人達であふれかえり、祭りっぽく提灯で飾り付けられている。どこからか祭り囃子も聞こえ、奥の方には御輿を担いでいる人達もいた。
こんなにもちゃんと祭りをしているなら上の階にいたときに気づきそうなものだが祭りの音を聞いた覚えはなかった。やはり自分で思っているより酔っているのかもしれない。
「なあ、こっちに屋台もあるぜ」
スガヤが指さした先を見ると玄関のドアを開けっ放しにした部屋があり、中を覗くとスガヤの言う通り部屋の中に屋台があった。
「いらっしゃい、一つどうだい?」
お面を着けたおじさんがリンゴ飴を勧めてきたが丁重に断った。リンゴ飴の気分ではない。そういえばたこ焼きを買いに来たのだと思い出したのでたこ焼きの屋台はないかと訊いてみた。
「それは二つ隣の部屋だな。ちなみに大判焼きは三つ隣で、焼きそばは一番奥だ」
おじさんに礼を言って部屋を出た。二つ隣の部屋を覗くとおじさんの言う通りたこ焼きの屋台があったので中に入って一つ頼む。
「まいど、今から焼くんでちょっと待っててね」
そう言ってお面を着けたおじさんは台所に行きたこ焼きを作り始める。部屋の中で屋台をやると台所が使えるから便利なんだな、と感心しているとスガヤに呼ばれた。
「なあ、こっちに金魚すくいがあるぜ」
見ると風呂に水が張ってあり、そこに金魚が何匹も泳いでいた。スガヤは浴槽を覗き込み珍しくはしゃいだ様子で金魚を眺めていた。
「俺、お祭りに連れてってもらったことがないから金魚すくいってしたことないんだよ。だから金魚すくいには憧れがあるんだよなー」
その話は去年、スガヤと一緒に行った夏祭りでも聞いた気がした。スガヤが家族と仲があまり良くないことは知っていたのであまり深く訊ねることはしなかったが、今は一人暮らしなんだからやればいいじゃんと言ったらペット不可の家に住んでるから駄目なんだとそのときのスガヤは残念そうに言っていたのを覚えている。
それが、ちょうど一年前の話だ。
「……じゃあ今やればいいんじゃないか」
「それはやりたいけどさ、今住んでるところペット飼えないから駄目なんだよ」
「俺が飼うよ」
スガヤは意外そうな顔で俺を見た。
「このマンション、小さな魚なら飼ってもいいんだ。だからお前がすくった金魚、俺が飼うよ。それでお前は金魚に会いたくなったら俺の家に来ればいいだろ」
「……お前、実は結構酔ってるだろ?」
「そうかもな」
そう言ってへらへらと笑うとスガヤは苦笑して「じゃあお言葉に甘えさせてもらおうかな」と言ったので俺は台所に行っておじさんに金を払い、金魚すくい用のポイとボウルを受け取った。風呂に戻るとそれをスガヤに渡す。
「まさか金魚すくいができる日が来るなんてなぁ」
大げさに感動するとスガヤは真剣な目つきで金魚をすくい始めた。しかし、金魚すくいをしたことがないというのは本当だったらしくあっという間にポイは破れてしまう。がっかりしているスガヤにこういうのは残念賞で一匹ぐらいはもらえるものだと教えてやるとすぐに元気になった。
それから焼き上がったたこ焼きと残念賞の金魚を一匹受け取り、部屋を出た。スガヤは金魚が余程気に入ったらしく飽きもせずビニール袋に入った金魚を眺めている。
「たこ焼き買ったんだからそろそろ帰ろうぜ」
「……いや、俺はもうちょっとここにいるよ」
スガヤは名残惜しそうに金魚を眺めていたが「大事にしてくれよ」と言って俺に金魚を渡した。受け取った金魚を見て俺は呆れたように言った。
「いいけどさ、お前どんだけ祭り好きなんだよ」
ボタンを押すとすぐにエレベーターが来て、扉が開いた。俺がエレベーターに乗るとスガヤが「なあ」と声をかける。
「俺、お前と一緒にいたときが一番楽しかったよ。また会えて良かった」
「ははっ、何恥ずかしいこと言ってんだよ。お前、酔ってるんじゃないのか?」
そう言ってから、気づく。酔っているのは俺の方だ。
「あっ……」
「たこ焼き、ありがとうな」
さっき買ったたこ焼きを見せ、スガヤが笑う。扉が閉まる。途端に、静寂。祭りの気配も、音も、何もかもが消えてなくなる。エレベーターのボタンを見るが「祭」のボタンは何処にもなかった。「開」のボタンを連打するとすぐに扉が開いたので慌てて外に出るとそこは自宅がある階だった。
廊下から身を乗り出して下の階を見る。けれど祭りの音は何処からも聞こえず、さっきまでの喧騒が嘘のようにマンションは静まりかえっていた。
そのままずるずるとその場にへたり込む。
「…………」
一年前、一緒に夏祭りに行ったあの日、スガヤは俺と別れた後の帰り道で交通事故に遭いあっけなく死んでしまった。
今日はスガヤの命日だった。
だから、やっぱり、酔っていたのだろう。
スガヤと会ったことも、祭りも、全てが酔っ払いが見た幻のようなものだったのかもしれない。
そう思いながら右手を見ると、そこに、金魚がいた。
赤い金魚がビニール袋の中をゆらゆらと揺れるように泳いでいる。ビニール袋を蛍光灯の明かりにかざしてみると、くるり、金魚がその場で回った。
「……水槽買わなきゃなぁ」
立ち上がり、もう一度下の階を見た。やはりそこに祭りの気配はない。けれどまぶたを閉じれば幻のように祭りの情景が浮かぶ。提灯で飾り付けられた廊下。浴衣を来た人達。部屋の中の屋台。金魚すくい。
耳の奥にまだ、祭り囃子が残っている。
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