言えなくて、吐き出した

 初めて種を見たのは私が十歳のときだった。いつものように父が母をあらん限りの言葉で罵倒していて、私はそれを横でうつむきながら黙って聞いていた。何か喋ろうものなら父は無言で殴ってくるので母も黙って耐えていた。

 小一時間ほどでその時間が終わると父は寝室に、母は台所に行った。私は母のことが心配だったので後を追って台所に行くと母は絞められた鳥のような声を出していた。

「あっ、あっ」

 それから「うっ」と呻くと勢いよく種を吐き出した。ゴルフボールくらいの大きさの黒ずんだ種が一つ床に落ちて、少し転がり、止まった。唾液と胃液に濡れたそれは奇妙な色合いでてかっていたのを覚えている。

 母は種を拾うと表情のない顔でそれを見た。ただ黙って、それを見ていた。

 その半年後に父と母は離婚して、私は母に引き取られた。


「ヒカリ」

 高校の帰り道、名前を呼ばれたので立ち止まり、振り返る。少し離れた場所に幼なじみのタケルがいた。

「お前、なんで昨日一人で帰ったんだよ。三人で帰ろうって連絡しただろ」

 不機嫌な顔で駆け寄りながらタケルがそう問いただす。私はそれには答えず別のことを訊いた。

「モモコは一緒じゃないの?」

 私が質問に答えないことで更に不機嫌さが増したようだったけど、それでもタケルは律儀に答えてくれた。

「今日は用事があるって先に帰ったよ」

 モモコはもう一人の幼なじみの名前だ。

 タケルとモモコ、そして私の三人はいつも部活終わりに待ち合わせて一緒に帰っていたけれど、ここ半月ほど私は一人で帰っていた。

「お前、俺とモモコに気を遣ってるのか?」

 そう、タケルが訊く。

 私達は物心着いた頃からいつも三人一緒だった。でも半月ほど前にタケルがモモコに告白して二人がつきあい始めた頃から私は二人のことを避けるようになっていた。

「……まあね、やっぱり二人っきりになりたいかと思ってさ」

 そう、冗談めかして答える。

 タケルは少し怒ったようにため息を吐いた。

「そういうのはいいって最初に言っただろ。俺とモモコがつきあったからって無理に変わる必要はないし、お前は変わらず大切な友達なんだよ」

 そう言って、にかっと笑う。

「だからさ、また三人で遊ぼうぜ。やっぱりお前がいないとなんか物足りないよ」

「…………」

 タケルは優しいな、って思う。優しくていいやつなんだ。それは私がよく知っている。

「うん、わかった」

 そう返事をして、それから二人でたわいもない話をしながら帰った。タケルと帰るのは半月ぶりだったけれどやっぱり楽しかった。ここにモモコもいたらもっと良かったのにと思った。そう思ってから、少し胸が痛くなった。

 タケルの家の前で別れ、歩き、角を曲がってタケルの姿が完全に見えなくなってから私は口元を押さえて塀に寄りかかった。

「あっ、あっ」

 絞められた鳥のような声が私の口から漏れ出す。私は迫り上がって来る嘔吐感に耐えながら小走りになり家路を急いだ。家に着くと焦る手で鍵を開け、家の中に飛び込み勢いよく種を吐き出した。

「かっ、はっ」

 ゴルフボールくらいの大きさの黒ずんだ種が床に落ちる。私は荒く息を吐き、その場にしゃがみ込んだ。涙目になりながら呼吸を整える。

 三十秒ほどで落ち着き、私は自分が吐き出した種を拾った。唾液と胃液に濡れたそれは記憶の中にある母の吐いた種と同じものだった。


 言えなかった言葉が胸の内に溜まりすぎるとそれはやがて固まり、種として吐き出されると小学校で習った。

 年を取ると種を上手く吐き出せず喉を詰まらせてしまうこともあるので今のうちから言葉を溜めず適度に吐き出していきましょう、と先生は言っていた。種を噛み砕けば言えなかったことが言えるようになるとも言っていた。

 だから言いたくないことでもちゃんと相手に伝える努力をしましょう、それができずに種を吐いてしまっても種を噛み砕いて改めて相手に伝えましょう、それが幸せに生きるコツなんですよ。そう教えてくれた先生の言葉には一切従わず、私は言葉を溜め、種を吐き、吐いた種を植木鉢に植えた。

 私は植木鉢を机の上に置く。先生は教えてくれなかったけれど、種は少しの土と、少しの水と、少しの日光があれば次の日には芽吹き、数日もすれば花を咲かせるのだ。その証拠に、今植えたばかりの植木鉢とは別にある四つの植木鉢には全て綺麗な花が咲いていた。


 種を植木鉢に植えることを教えてくれたのは母だった。

「植えれば花を咲かせるけれど実はならず、種も作らないの」

 そう言って大きな花を咲かせた植木鉢を子供の頃の私に見せてくれた。

「ただ枯れるためだけに咲く花なのよ」

 その言葉には自虐めいた響きが混じっていたけれど、当時の私にはそれをくみ取れるだけの人生経験がなかった。

「でも綺麗だね」

 子供の頃の私はただ素朴な感情でそう呟いた。実際、鮮やかな色の花弁が絡み合うように奇妙な形の花冠を作っていて、とても、綺麗だった。

「言えなかった言葉はいつだって綺麗なのよ」

 当時の私はそういうものなのかな、と思った。今の私はそういうものだな、と思っている。言わない限りいつまでもそれは綺麗なままなのだ。


 部活が終わると私は美術室を出て空き教室に向かう。この空き教室は校舎の端にありほとんど人が来ることはないので人目を避けて時間を潰すのに都合が良かった。私は教室に入ると適当な椅子に座りスマホを見た。タケルとモモコからチャットの通知が来ていたけれど、私はそのままにしてスマホを仕舞った。

 目を閉じて、時間が過ぎるのを待つ。

 タケルとモモコがつきあい始めてからは二人が帰るまでいつもここで時間を潰していた。この前はタケルに見つかってしまったので帰る時間をもう少し遅らせようと思った。

 私はタケルとモモコが好きだ。二人とも大切な幼なじみだからだ。

 父の罵倒に悩んでいたときも、母と二人で暮らし始めたときも、学校の人間関係が上手くいかなくなったときも、二人は変わらず傍にいてくれた。二人がいなかったら私はもっと違う人間になっていたと思う。

 二人がつきあい始めたとき、嫌いになれたら良かったのにと思うことはあった。でもそんなのは無理だった。どうしたって嫌いになんてなれなかった、二人とも幸せになって欲しかった。

 だから私は言葉を溜めて、空き教室で時間を潰すのだ。

 けれど、がらがらと音を立てて教室のドアが開いた。

「ヒカリ!」

 モモコだった。

 部活が終わってから着替えずに来たのか体操着のままだった。呼吸も乱れているので私を探して走り回ったのかもしれない。

 モモコは大股で近づくとがしっと私の腕を掴んだ。びっくりするくらい強い力だった。

「なんでこんなところにいるのよ。三人で一緒に帰ろうって言ったじゃない」

「……ほら、つきあい始めたばかりだからさ、二人っきりにしてあげようかなって」

 冗談めかした私の言葉をモモコは即座に否定する。

「そんな言葉を聞きたいんじゃない!」

 そう怒ってから、桃子は泣きそうな顔になった。

「ヒカリが本当に言いたいことを言ってよ、言ってくれなきゃなにもわからないじゃない。……私、こんなの嫌だよ」

 真っ直ぐに私を見つめる眼差し、私の腕を掴む手、今にも泣き出しそうな顔。

 ああ、モモコにこんな悲しい顔をさせてしまったのは私だ。私はただ幸せになって欲しかっただけなのに、モモコをこんなにも悲しませている。

 それも私が何も言わないのが原因なのだ。そう思うと全てを喋ってしまいたい衝動に駆られる。けれどそれは駄目なのだ、絶対に駄目なのだ。

 私は強い意志で口を固く結ぶ。決して何も言わないように。それなのに、私の喉の奥から絞められた鳥のような声が出て来た。

「あっ、あっ」

 慌てて口元を押さえ、迫り上がるそれを押しとどめようとする。私は立ち上がり、その場を離れようとしたけれどモモコは掴んだ腕を放してくれなかった。無理に振りほどこうとしても信じられない力で掴み返してくる。

「かっ、はっ」

 耐えきれず、種を吐き出してしまった。唾液と胃液に濡れた種は机の上を転がり、止まる。私はとっさに手を伸ばしたけれど、それよりも早くモモコがひったくるように種を掴んだ。

 手にした種を見ると、モモコは一切の躊躇なく種を自分の口に入れ、噛み砕いた。

「──モモコのことが好き」

 モモコの口から、私の言葉がこぼれる。

「もう友達ではいられない……愛してるの」

 モモコには聞かれたくなかった私の言葉が、モモコの口から全て吐き出される。

「…………」

 モモコはまだ私の腕を掴んでいたけれど、その力は弱々しかった。それでもモモコは私から目を逸らさず、戸惑いながらも私の目を見て話してくれる。

「その、ごめんなさい……私はタケルとつきあってるし、それに……私達、女同士だから──」

 不意に、モモコが口元を押さえた。前屈みになり何かに耐えるように体を震わせ、その場にしゃがみ込む。

「あっ、あっ」

 モモコの口から絞められた鳥のような声が出た。それから呻き、種を吐き出す。黒ずんだ、ゴルフボールくらいの大きさの種。

 床に落ちた種は少し転がり、やがて止まる。

 私達はただ黙ってその種を見ていた。吐いたばかりのモモコが荒く呼吸する音だけが教室に響く。言葉はなく、種だけがある。

 手を伸ばし、私は種を拾った。唾液と胃液に濡れて、まだ生暖かい。モモコは私のことを見ているだけで何も言わなかった。

「…………」

 私はモモコの種を口に入れ、噛み砕く。もう、戻れない味がした。

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