さながら人生のような
生姜焼きを作り、食卓に並べ、両手を合わせて「いただきます」と言う。箸を手に取りいざ夕飯だと生姜焼きを食べようとしたその瞬間、それが前世の夫であることに気づいた。
「サトシさん」
意識せずそう呟く。
サトシは前世の夫の名だ。優しくて、体が弱く、絵を描くのがとても上手だった私の夫。徴兵されて戦地に送られ、前世の私はその帰りを待たずに空襲で死んだ。
前世では夫が無事に帰ってきてくれることを毎日祈っていたのだけれど、まさか生姜焼きになっていただなんて。
あまりにも悲しくて私は席を立ち、冷蔵庫を開けると明日の夕飯にしようと思っていた鮭の切り身を取り出した。前世の夫だと気づいてしまった私にはもう生姜焼きは食べられそうになかった。それどころか肉を食べること自体に忌避感がある。
そう、私は今日この瞬間から肉を断とう。これからは魚と野菜だけを食べて生きていくんだと決意したその瞬間、その鮭の切り身が前世の父だと気づいた。
「父さん」
意識せずそう呟く。
昔気質の性格で、怒りっぽく、頑固者だった父さん。サトシさんとの結婚に最後まで反対されて以来、疎遠になってしまったことを前世の私はずっと気にしていた。いつかは仲直りをしないと、そう思いながらもそれを果たせず死んでしまったのが心残りだった。
たしかに父さんとは上手くいかないこともあった、けれども前世の父だと気づいてしまった私にはもう鮭の切り身は食べられそうになかった。それどころか魚を食べること自体に忌避感がある。
そう、私は今日この瞬間から魚も断とう。ベジタリアンになり野菜だけを食べて生きていくんだと決意し付け合わせのサラダに箸を伸ばしたその瞬間、そのサラダが前世の母だと気づいた。
「母さん」
意識せずそう呟く。
穏やかで、口数が少なく、いつも私を見守っていてくれた母さん。前世の私と父さんが喧嘩したときは母さんが取りなしてくれたものだった。
そんな母さんを食べることなんて私には無理だ。それどころか野菜を食べることすらもうできそうになかった。
肉も、魚も、野菜も食べられない。もう、牛乳を飲むしかなかった。それが可能なのかどうかはわからないけど、牛乳だけを飲んで生きていくしかない。そう覚悟を決め牛乳が入ったコップに手を伸ばしたその瞬間、それが前世の妹だと気づき私はその場に崩れ落ちた。
もう終わりだ。私はここで死ぬしかない。私はぼろぼろと悲しみの涙をこぼす。私が死ぬのが悲しいのではない、今まで何も気づかずに生きていたことが悲しい。
今までだって気づかなかっただけで前世の友人知人を食べていたかもしれないのだ。つまり私は前世で出会った人達を食べることで今まで生きてこられた、前世の縁に生かされてきたのだ。それなのに愚かな私はそんな大切なことにも気づかず料理をむさぼり、食べて当然とばかりの態度で感謝の一つも捧げることはなかった。
そんな自分の愚かさが、ただただ、悲しかった。
私は床に寝そべり、そっと目を閉じる。このまま死んでしまおうと思ったのだ。しかしそんな私に優しく話しかける声。
「食べてもいいんだよ」
私はがばっと身を起こすと食卓の上の生姜焼きを見つめた。それはサトシさんの声だった。
「たしかに僕は前世で君の夫だった。でも今は生姜焼きなのだから、食べてもいいんだ。むしろ食べてもらうことが今の僕の幸せなんだよ」
その諭すような話し方は間違いなくサトシさんのそれだった。
「サトシさん……」
私はその言葉に押されるようにおそるおそる箸を伸ばす。しかし父はそれを咎めるように言葉を吐いた。
「たとえ本人がいいと言っていても前世の夫を食べていいわけがないだろう。お前はそんなこともわからないのか」
私の箸がぴたりと止まる。それは内心私も思っていたことだったから、言われてしまえばもう箸を動かすことはできなかった。
私はすがるようにサラダを見るが、母は何も言ってくれない。ただ黙って見守るだけだ。
「おぎゃあ、おぎゃあ」
赤ん坊の頃に死んでしまった妹は泣くことしかできない。
進退窮まり、私はその場で頭を抱えた。いったいどうすればいいと言うのか。と、そのとき茶碗に入った一杯のご飯が目に留まった。
私はそのご飯が前世の私であることに気づいた。
ああ、これは私だ。私はこんなところにいたのか。
私はお茶碗を手に取り、前世の私に思いを馳せる。そう、私はご飯だった。ご飯だけを食べても物足りなさを感じるように、私は一人では何もできない人間だった。けれどご飯とおかず、両方をバランスよく食べることで美味しくご飯を食べることができるように、私も周囲の人達が支えてくれたおかげで前世の人生を精一杯生きることができたのだ。
それで、私は、わかったと思った。
私は台所に行き、フライパンに生姜焼きと鮭の切り身、サラダ、ご飯を投入してチャーハンを作った。強火で炒めながら塩こしょうで味を調え、最後に牛乳を入れてリゾット風にする。
皿に盛りつけ、食卓に置いた。
前世の夫である肉と前世の父である魚、前世の母である野菜と前世の妹である牛乳、そして前世の私というご飯。それらが合わさってできたこのチャーハンはさながら私の人生のようだった。
私は私一人で生きているのではないし、一人で生きていくこともできない。父や母、妹、そして夫と支え合い、助け合いながら共に生きてきたのだ。だからみんなの協力で作られたこのチャーハンは前世の私の人生であり、遺言だった。
そう、それらは全て前世のことなのだ。私は過去に生きることはできない。
私は両手を合わせ、前世で出会った全ての人達への感謝を込め、言った。
「いただきます」
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