キリンの王

 物心ついたときには既に、人生のパートナーにするならキリンしかいないと考えていた。

 何故キリンなのかと問われても理由は答えられなかった。きっと、何かを好きになるのに理由なんていらないんだ。僕はただ、生まれたときからずっとキリンが好きだった。

 生まれて初めて喋った言葉は「キリン」だったし、動物ビスケットもキリンの形をしたやつしか食べなかった。キリンを飼うには動物園が必要だと思ったので将来の夢はずっと動物園の園長だった。

 そんなある日、法律上は個人でキリンを飼うことができると知った。動物園は必要なかったのだ。

 それを聞いた僕は居てもたっても居られずその足でペットショップに行きキリンの販売コーナーを探して店内を端から端まで歩き回った。

「当店ではキリンを扱っておりません」

 そう言われたときはショックだったけど、代わりに業者を紹介してもらえたので無事アメリカから輸入できた。

 家にキリンが届いたときは、ただただ、感動した。

 何せキリンだ。

 本物のキリンなのだ。

 体長五メートルという高みから僕のことを見下ろすキリンを前にして、僕はその場で膝をつき崇めるように両手を掲げた。

「キリンだ……」

 僕はぼろぼろと大粒の涙をこぼし、感極まって少し吐いた。

 その日から僕とキリンの生活が始まった。

 朝起きると庭にはキリンがいて、キリンと共に一日を過ごすことができる。その事実に興奮しすぎて僕は過呼吸を起こし二度搬送された。ようやくキリンを前にしても平静が保てるようになった頃、僕は重大な決意をした。直接キリンにさわろう、と。

 キリンが来たばかりの頃は一〇メートルより近くに行くと動悸が激しくなりそれ以上先には進めなかった。けれど毎日少しずつ体を慣らした結果、今ではキリンを見てもせいぜい鼻血が出るくらいで済んでいた。

 だから今の僕ならきっと大丈夫だろう。僕はゆっくりとキリンに近づき、深呼吸をして、手を伸ばした。指先がキリンにふれる。僕はそのまま両手でキリンをさわり、そして、頬ずりをした。

 キリンの体は温かく、硬く、思ったよりもすべすべしている。僕はキリンの体に手を回し、そっとハグする。そこに命を感じた。

 僕はこの地球という星で生きていて、キリンもまたこの地球の大地で生きている。僕とキリンは星の大地で共に生きる仲間なのだという実感で満たされた。

 僕はキリンから少し離れるとおずおずとした動作で首輪を取り出した。キリンを飼うと決めたその日に作らせた特注の首輪だ。けれど今となって僕はこんな首輪をキリンにつけていいのだろうかと迷っていた。

 確かに僕はこのキリンの飼い主だ。けれどこんな首輪をつけることでこれが僕のキリンだと周囲に見せびらかすことになってしまうのではないだろうか。僕はただ純粋にキリンが好きだから飼っているのであって、何かを誇示するためにキリンを飼っているのではない。そこを誤解されるのが怖かった。

 そうやって僕が悩んでいるとキリンがその場でかがみ、頭を僕のところにまで下げてきた。

 首輪をつけてもいいんだよ、とキリンが言ってくれたのだと僕は思った。だってそれ以外にキリンが僕に頭を下げる理由なんてあるだろうか。僕はキリンの心遣いに感激しながら、水飲み場で水を飲むキリンに首輪を装着した。

 首輪をつけたキリンはもう完璧に僕のキリンだった。

 僕は感動のあまり滂沱の涙を流し、少し吐いた。そして、散歩に行くことにした。近くにある森林公園をキリンと一緒に散歩することでこの感動を行き交う人々と分かち合おうと思ったのだ。

 早速僕はキリンをトラックに乗せ森林公園に向かい、到着するとキリンを降ろし意気揚々と散歩を始めた。

 しかし僕の期待に反して公園には人っ子一人いなかった。この時間帯ならいつもはもっと人がいるはずなのに。

 不思議に思いながら散歩を続けると不意に嫌な気配を感じ、立ち止まる。僕は木々の向こうに目を向けた。そこに五メートルほどの細長い影が見える。電信柱だろうかと目を凝らすと、それは、キリンだった。キリンが悠然とした足取りで僕達の方に向かって歩いてくる。

 野良キリンだ。

 元は人に飼育されていたキリンが何らかの理由で飼育放棄され、この公園で野生化したのだ。キリンの巨体は見る者に畏怖を与え、キリンのキックはライオンをも蹴り殺すといわれている。みんなこの野良キリンを恐れて公園に近寄らなくなったのだろう。人が去り閑散とした公園は野良キリンの支配地だった。

 この公園が野良キリンの縄張りであるならば僕達は侵入者ということになる。慌てて僕はキリンを連れて公園から出て行こうとしたけれど、僕のキリンは無言で前に出ると野良キリンに向かって歩き始めた。

 僕のキリンと野良キリン、両者の間で空気がざわついたのを感じた。間違いない、今から縄張り争いが始まろうとしているのだ。

 張り詰めた空気の中、二頭のキリンは無造作に間合いを詰めていく。そして鼻先が触れ合うほどの距離にまで来ると互いに足を止め、睨み合う。野良キリンは凶悪な眼光で睨め上げ、僕のキリンはそれを泰然と睨み返す。

 そのような睨み合いがどれほど続いたのか、先に動いたのは僕のキリンだった。

 大きく首をしならせ、鞭のように相手の首に叩きつける。ネッキングと呼ばれるキリンの戦闘行動だ。野良キリンは体をよろめかせたが、すぐに体勢を立て直すと同じくネッキングを繰り出し僕のキリンの首を叩き打つ。

 キリンとキリンが首を打ち付け合う度に空気が震え、圧を感じた。ネッキングの激しさが増す度に風圧も強くなり、その場に踏みとどまれないほどだった。

 闘争が加速し、二頭を包む空気が熱く燃えている。気温も三十度を超え、まるでサバンナの空気だ。いや、キリンとキリンとが闘っているのだからサバンナである十分条件は満たしている。つまりここはもうサバンナだった。

 それを証明するように公園の木々はヤシに変わり、芝生も草原になっていた。噴水では象の親子が水を飲み、少し離れた場所ではライオンの群れがシマウマを追いかけている。

 僕はぐっとこぶしを握り、キリンの闘いを見守った。僕のすぐ側をダチョウが駆けていった。

「負けるな……」

 最初は無意識に言葉を漏らし、次の瞬間には腹の底から叫んでいた。

「負けるな! 僕のキリン!」

 ドン、とサバンナの大地を振るわせる衝撃音が響いた。象もライオンもダチョウも動きを止め、キリンを見ている。

 やがてキリンのうちの一頭の体がぐらりと傾き、地響きを立てて倒れた。勝ったのは僕のキリンだった。

 僕はガッツポーズをとり、その場でぴょんぴょん跳ねながら歓声を上げた。僕のはしゃぎようとは対照的にキリンは大様な態度で近くのアカシアの葉を食べている。

 そんなキリンを見て、僕はこのキリンこそがサバンナの王だと確信した。それを裏付けるように気がつけば象やライオン、ダチョウ、サバンナの動物達が皆キリンにひれ伏している。先程の闘いでキリンがサバンナの王だと動物達が認めたのだ。

 キリンが王として崇められている様を見て僕は飼い主として誇らしい気持ちになった。自然に笑みが浮かび、自分のことのように嬉しくなる。

 しかしキリンは自分にひれ伏す動物達を眺めると、ふん、と首に力を込めた。それだけで僕のつけてやった首輪は引きちぎれ、地面に落ちる。キリンはその首輪の残骸を加えると僕の足下に放った。

 僕が捨てられた首輪を見て呆然としていると、キリンが鼻で笑った。

 舐められている。

 僕はあまりのことに愕然とした。たかがキリンがサバンナの王になった程度で、人間よりも上の存在になったなどと思い違いをしたのだ。知性のない動物といえどまさかここまで愚かだとは。

 そこではっと気づき、倒れた野良キリンを見た。すると野良キリンの臀部には石槍が刺さっていた。

 それを見て僕は全てを悟った。この野良キリンは人に捨てられたのではない、野良キリンもまたキリンの分際で人間よりも上の存在になったと思い違いをしたのだ。

 異常行動を始めた動物は生態系に悪影響を与える。そのような事態になった場合、飼い主には生態系の回復が求められる。つまり、ペットの殺処分だ。この野良キリンの飼い主も殺処分をしようとし、しかし返り討ちに遭ったのだろう。

 僕は怒りで頭が熱くなった。この野良キリンの飼い主が負けたのは情に流されたからに違いない。飼っていたキリンを殺処分することを躊躇い、その隙をつかれたのだ。そうでなければ人間がキリンなどに負けるはずがない。

 ペットを飼うときは最後まで責任を持って飼わないといけない。飼いきれなくなったり生態系に悪影響を与えるとわかったときは、最悪その手で殺処分をする。ペットを飼うとは、命を預かるとは、そういう覚悟をするということだ。責任を全うできないのなら飼ってはいけないのだ。環境省のパンフレットにもそう書いてある。

 だから僕は覚悟を決め、野良キリンの体から石槍を引き抜くとキリンに向かって歩みを進める。キリンに近づいていくと着ていた服は自然にほどけ、腰蓑一枚の姿になった。僕の祖先は武士だったと聞くが、もっと辿ればアウストラロピテクスだ。僕の中の狩猟本能が体に満ちていく。胸の内から迫り上がる熱い感情を口から吐き出すとそれは自然と雄叫びになった。

 オオォオオォオオォォォォォッ

 集まった動物達が僕に注目していた。キリンもようやく僕が侮れない相手だとわかったのか、強い敵意を持って睨み付けてくる。僕は立ち止まると石槍を構え、対峙する。キリンと睨み合い、そして、僕の目から涙がこぼれた。

 僕は、こんなことがしたくてキリンを飼ったわけじゃない。ただキリンと楽しく暮らしたかっただけだ。

 ペットを飼うとは思い通りにいかないことばかりだ。飼育が思っていたより大変だったり、想像していたより大きく育ってしまったり、懐いてくれなかったり。相手は生き物なのだから全てが思い通りにいくはずなんてない。

 それでも飼うと決めたのは自分なのだから飼い主としての責任は全うしなくてはならない。それこそが飼い主としての愛情なんだ。

 僕は涙をぬぐうと石槍を強く握り、駆け出した。キリンも僕を迎え撃つべくネッキングの体勢をとる。石槍を手にキリンに飛びかかる。キリンは僕を殴殺すべくその巨大な首を振るう。

 一瞬で全てが終わった。

 キリンの頭部に石槍が深く突き刺さっている。僕は石槍を捻り、傷口を抉ってから引き抜きキリンの頭部から飛び降りた。一拍の間を置いて、キリンの体が沈むように倒れた。

 倒れたばかりのキリンの体は痙攣をしていたが、やがてはそれもおさまり、二度と動かない。するとライオンやハイエナ、肉食の鳥がキリンの元に集まってきた。

 先頭のライオンがキリンの体を鼻先でつつき、完全に死んでいることを確認するとその体にかぶりつく。それを合図に集まった動物達が一斉にキリンの体をむさぼり始めた。

 それは自然界の摂理だった。サバンナの王も死んでしまえばただの餌だ。見る間に骨になっていくキリン。

 僕はその光景に背を向けるとちぎれた首輪を拾い、ガムテープで直した。ただつけるだけならこれで充分だろう。

 サバンナを見回し、キリンの群れを見つける。その中でも一際雄々しい一頭のキリンに目標を定め、歩き始めた。今度はきっと、上手くやれると思う。

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