くるりと回る

「私、回転ができないんです」

 図書室で新刊にブッカーを貼りながら森下さんはそう言った。

「回転をしてはいけないと親からきつく言われていまして」

 気泡が入らないように細い指を踊らせブッカーを貼っていく。それが終わるとハサミで切り込みを入れ、折り返す。その一連の所作が、森下さんの指が、とても綺麗だと思う。

「だから初めてフィギュアスケートを観たとき、この人達はとても綺麗だけど、私はこの人達のように回転ができないんだって悲しい気持ちになったんですよ」

「親から言われてるんじゃ仕方がないわね」

 森下さんの作業を見ながら自分でもブッカーを貼る。けれどどうしても表紙には気泡が入りハサミの切り口も歪になってしまう。そうしてなんだかごわごわとした本が出来上がった。

「回転が駄目ってことはでんぐり返しとか、鉄棒も駄目なの?」

「そうですね、縦回転横回転関係なく体が回転するものは禁止されてます。トラックを一周するのも回転と見なされるので駄目だと言われました」

 森下さんはよく体育の授業を見学していたけどそういう理由だとは知らなかった。しかしそれだと不便なことが多いのではないかと訊ねると森下さんは深く深く頷いた。

「回転ができない所為で山手線一周もできませんし、日本一周も、八十日間世界一周も無理なんです。それどころか市内を一周することすらできないんですよ」

 森下さんが言ったことは全部私もしたことがなかったけど、森下さんにとっては重要なことらしく憤懣やる方ない想いが言葉から伝わってきた。

 乱れた感情を整理するように小さく息を吐き、森下さんはブッカーを貼り終わった本を横に置く。気泡も歪みもない完璧な本だ。

「それに」

 森下さんは完璧な本の上に指を置き、すすっと指を滑らせ、それから本当の悲しさを交えた声で言った。

「観覧車にも乗ったことがないんです」

 それは、と言おうとして言葉が続かなかった。森下さんには観覧車が似合っていると思った。だから観覧車に乗れないことはとても悲しいことで、それは安易に言葉にしていいことではないと思ったのだ。



「カナ子さんって一月二十一日生まれなんですか」

 森下さんとは同じクラスだったけど喋ったのは図書委員の当番になったときが初めてだった。森下さんは初めから私のことを名前で呼んでいて、私は森下さんの名前を知らなかった。二人で誰も来ない図書室の受付をしながら雑談をしていたとき誕生日の話になった。

「一月二十一日はルイ十六世が処刑された日なんですよ、すごいですね」

「別にすごくはないでしょう」

「私の誕生日、七月四日なんです」

 森下さんは両の手の指と指を合わせ、はにかむように笑った。

「七月四日はルイ十六世を処刑したシャルル=アンリ・サンソンが亡くなった日なんです。これって何かすごくないですか?」

 そのときになんと答えたのかは覚えていない。

 ただ森下さんの指が自分を指したのは覚えている。

「ルイ十六世は」

 森下さんは指を斜めに動かし、ギロチンの刃を表現した。

「自分を処刑したギロチンの開発にかかわっていたんですよ」

 すとん、と指が落ち、ギロチンの刃が落ちる。首が落ちる。

 それからも教室では森下さんと話すことはなかったけど、図書室の当番の日は色々な話をした。ヘリコプター、パップスギュルダンの定理、オズの魔法使い。森下さんが話すことは回転に関係することが多かった。森下さんが回転できないという話もその流れでしたものだ。

「私の祖先が亀をいじめたらしいんですよ」

 手で楕円の形を描き、亀の大きさを表す。大きさから考えてウミガメのようだった。

「亀をこう、ひっくり返して、独楽みたいにぐるぐる回したんです。上手く重心がとれてたのか、それとも祖先が亀を回すのがすごく上手だったのか、亀はすごい勢いでぐるぐると回り続けたんです。それは一昼夜とも、三日三晩とも、一ヶ月とも一年とも言われています。それで回りすぎた亀はとうとう力尽きて死んでしまいました」

 ぱん、と手を合わせて、それから私のことを見る。

「それから私の一族は回転ができなくなってしまった、と親から聞きました」

「……それは、亀の呪いとかそういうものなの」

「多分、そういうことになると思います」

「もし回転したらどうなるの?」

「わかりません」

 肩をすくめ、少し遠い場所を見た。

「その記録は伝承されていないそうです」

 誰も回転しなかったから伝承されていないのか、もしくは伝えられるような結果ではなかったのか。どちらにせよあまり良い話ではなかった。

「それがいつの出来事か知らないけど、もう呪いの期限も切れているってことはないの?」

 言ってから、そんな賞味期限みたいに切れたりはしないだろうと自分でも思った。けれど森下さんは真剣な顔で「たしかに」と呟き、曲げた人差し指をあごに当てた。

「それはあるかもしれませんね」

 そう言ってから目を伏せ、小さく息を吐く。

「でも、それを確かめるには回転しないと」

 結局は、そうなる。

 回転するとどうなるかわからない、もしかしたら何も起こらないかもしれない、それを確かめるには回転しないといけない、けれど回転するとどうなるかわからない。

 言葉が出口もなくぐるぐると回転する。ぐるぐると、ぐるぐると回り、私はかける言葉もなく森下さんの横顔を見つめている。

「もし、回転するなら観覧車がいいですね」

 顔を上げ、森下さんがそう言った。

「好きなんです、観覧車」

 そう、好きなの。好きなら仕方ないね、と言うと森下さんは深く頷いた。

「はい。好きだから、仕方ないですよね」

 そう言って、笑う。

 森下さんの笑い方は、そのときそのときの感情を素直に伝えてくれる。誤魔化しや社交辞令のような要素が一切なく、純粋な感情だけで笑うというその行動はとても希少なモノに思えた。

「じゃあ、今度一緒に行く?」

 私がそう誘うと森下さんは一瞬驚いた顔をした後、心から嬉しそうに笑った。

「行きます」



 遊園地に行く日を今度の日曜日に決めると私は早速下調べをした。

 メリーゴーランドやコーヒーカップは回転するのでもちろん駄目。ジェットコースターやゴーカートのような一周するものも回転と見なされるらしい。お化け屋敷は大丈夫かと思ったけど入り口と出口が隣接していたので一周と見なされるおそれがあったので保留にした。

 今まで意識したことはなかったけど遊園地の乗り物は回転するものばかりだった。ここまで来ると回転するため遊園地に行くのだと言っても過言ではない。それだけ人は回転を求めているということなのだろうか。それだけ求められている回転を禁止されている森下さんのことを思うと、何故か胸がざわついた。

 当日、駅に向かうと待ち合わせ時間の十分前なのにもう森下さんは来ていた。森下さんはシャーベットカラーのワンピースを着ていて、学校で会う森下さんはかわいい女の子だったけど、今日のそれはもっとかわいらしく見えた。

 森下さんと比べると動きやすさ重視で選んだ自分の服装が恥ずかしく思えた。でも森下さんは私を見るとすぐに「かわいいね」と言ってくれて、私は口ごもりながら「ありがとう」と伝えた。

 それから電車に乗り、海沿いの遊園地に行った。敷地外からも見える大きな観覧車は今日の目的地に相応しい。

 遊園地に入ると私は下調べを元に作成した森下さんが乗れそうなアトラクション一覧とそれらを効率的にまわるルートを発表した。私の入念な準備に森下さんは驚いたようだったけど、すぐ笑顔になり「任せますよ」と言った。

 遊園地にも回転しないものもある。フリーフォール、巨大ブランコ、ミラーハウス、アーケードゲーム。ステージではミュージカルも観た。私達は回転しないとても楽しい時間を過ごし、気がつけば日が暮れ始めていた。

 そうして私達は今日の最終目的地、観覧車の前にいた。

「…………」

 大きな観覧車が、ゆっくりと回っている。前に立つだけで回転を感じる。

 引かれるよう森下さんがふらっと観覧車に向かって歩いて行った。森下さんの後ろ姿が見えて、その向こうに観覧車がある。まるで絵画のような光景だった。それだけで満ち足りた、それ以上何も必要がないと思えるような。

 だから、もう、乗らなくていいのではないかと思った。観覧車の傍に来ただけで充分なのではないかと。

 でも、それを決めるのは森下さんだ。私が小走りで森下さんに追いつくと、森下さんは振り返り、言った。

「乗りましょう」

 森下さんは私の手を取り、指を絡めた。私の指に森下さんの細い指が絡み合い、手を繋いだ。森下さんの指の細さを感じる。ブッカーを完璧に貼ることができる、あの指を。

 客は私達だけだった。係員の人にドアを開けてもらい、観覧車に乗る。ドアが閉まる。一回転して同じ場所に戻ってくるまでもう降りられないのだと、心の中で確認する。

 森下さんが手を離さなかったので私達は並んで座った。繋いでない方の手を窓につけ、森下さんは前のめり気味に窓の外の景色を観ている。

 回転を感じる。縦方向の回転は私達を上へ上へと移動させる。下を見れば、人が、建物が、どんどん小さくなっていく。遠くを見れば海が見え、水平線が海と空とを切り分けている。空だけがいつもと変わらずに高く、果てがない。

 この景色は、観覧車でなくても観ることはできる。観覧車より高い建物はある。空を飛ぶ乗り物だってある。でも、私の隣に森下さんがいて、手を繋いで、細い指の感触があって、狭く区切られた窓があって、森下さんの後ろ姿があって、回転を感じる。私が繋いだ手に少し力を入れると、同じくらいの力で森下さんも握りかえしてくれた。

「ときどき」

 窓の外を向いたまま、森下さんが呟くように言う。

「何もかもがどうでもよくなることってありますよね」

 観覧車が一番上に来た。一番高い場所。ここを過ぎればあとは下へ下へと降りていく。

「ずっと守ってきたことも、正しいと思ってきたことも、全部、どうでもいいやって、そう思うときが」

 森下さんは窓から手を離すと、すっと窓から離れた。私の方を向いて、小さく、笑う。

「良かった」

 目を閉じて、私の肩に頭を預ける。手は繋いだまま。

「森下さん?」

 呼びかけても返事はなかった。眠っているように優しい呼吸音だけが聞こえている。観覧車は回っている。下へ、下へ。私はもう何も言わなかった。ただ前を見て、観覧車が一回転するのを待った。

 そうして回転が終わる。ドアが開き、私達は観覧車を降りる。手を繋いだまましばらく無言で歩いて行き、立ち止まり、顔を合わせた。

「なんともないみたいですね」

 そう言って、おかしくておかしくてたまらないというように笑った。私もつられて声を上げて笑う。

 しばらく二人で笑い合ったあと、森下さんは繋いだ手を高く上げ、社交ダンスのようにその場でくるりと回った。

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