ヒトを買う

 彼氏と別れたの、とユタカさんが言った。この人でダメだったらもう恋愛するのはやめようって思ってた、だからもう結婚するのは諦めたわ。

 会社の喫煙スペースでユタカさんは両切りのタバコに火を着け、吸った。そしてふぅ、と煙を吐く。ため息だったのかもしれない。

 でも一人で生きてくのはさびしいからヒトを買おうと思うの。ユタカさんはポケットからくしゃくしゃになった広告を取り出して私に見せる。会社の近くにいい店もあったから今日にでも買って帰ろうかなって。

 私はメンソールのタバコをくわえながら、でもこういうのって世話するのが大変なんじゃないですか? と言った。たしかに大変だろうけど言葉が通じるんだから動物を飼うよりマシでしょ、というユタカさんの言葉にそれもそうかと頷く。

 それであんたも一緒に買わない?

 私も?

 そう問い返すとユタカさんは広告にある「二人買うと半額」の一文を指さした。お得でしょ。

 でも私、ヒトを買ったことってないんですよね。大丈夫、私も初めてよ。

 広告に書いてある人の値段は普通のペットよりは高く、高級なペットよりは安かった。ヒトとして妥当なのかはよくわからない。

 とりあえず行ってみてから考えればいいじゃない。

 そう、ユタカさんの言葉に流されて会社帰りにお店に行った。店内は薄暗く、ドロップキャンディの匂いがした。メロン、イチゴ、レモン、スモモ、オレンジ、リンゴ、歩く度に匂いが変わっていく。一番好きなハッカの匂いで立ち止まるとそこにはちょうどコーカソイドの女の子がいた。

 そのヒトは髪の色も、肌の色も、顔の彫りも、みんな私とは違っていた。どうせ買うならこれぐらい自分と違う方がいいなって思った。

 私、この子にするわ。そう言ってユタカさんが連れてきた気の強そうな女の子は、二年前に流行った映画の主演女優に少し似ていた。あなたどうするの? と問われたので、私は、この子にします、と目の前の女の子を指さした。

 カードで支払いを済ませ、ユタカさんと駅で別れたあと、ヒトと手を繋いで帰途につく。買うつもりはなかったんだけどな、と思いながら家までの道を歩いた。隣に並ぶヒトの横顔を見て、まあいいか、と思った。

 家に帰って、出来合のもので夕飯を済ませた。ヒトは思っていたより箸使いが上手く、きんぴらゴボウをとても綺麗に食べていた。ヒトの寝床は用意していなかったので私のベッドで一緒に寝た。ヒトの体は小さく、私の腕の中にすっぽりと収まった。

 次の日、会社でユタカさんにどうだった? と訊かれた。どうだったと言われても、特に何もなかったですよ。ああやっぱり? 私も普通だったわ。ユタカさんはポケットからタバコを取り出し、喫煙スペースではないため吸うことができないそれを羨むように眺めた。ヒトを買ったら何かが変わるんじゃないかって思ってたけど、そんなこともないのかもね。ユタカさんはタバコをくわえ、火もついていないそれを吸い、箱に戻す。そういうものかもしれませんね、と適当な相づちを打った。

 家に帰るとヒトが玄関で待っていた。私を出迎えてくれたのか、私が出て行った朝からずっとそこにいたのかはわからなかった。何か声をかけた方がいい気がして、ただいま、と言った。

「おかえり」

 すん、と、その言葉が胸の中に落ちてきた。

 おかえりなんて言われたのは母が亡くなって以来のことだった。家に自分以外の誰かがいる感覚を数年ぶりに思い出す。

 ずっとペット不可のところに住んでいたから家には自分と親しかいなかった。だから両親以外の誰かと暮らすのは初めてなのだと、私は、今更、気づいた。

 それでも、何かが特別に変わることはなかった。

 いつも通りに仕事をし、暮らし、そこにヒトがいる。それだけの日々を重ねる。

 あるとき、仕事上のトラブルから残業が続いて疲れていた頃、ヒトが大きくなっていることに気づいた。背が伸びたとか太ったということではない、全体的に大きくなっていた。ぬいぐるみのSサイズがMサイズになるように、体全体が一回り大きくなっていたのだ。

 そのときは疲れていたこともあり、成長期かな、とだけ思い、深くは考えなかった。

 後になって気づいたのだけれど、あの頃の私は仕事疲れからソファに座ったまま寝落ちしてしまうことがよくあった。けれど翌朝にはベッドで目を覚ましていたので覚えていないけれどあの後ベッドまで行ったのだろうなと考えていた。でもあれはきっと、ヒトが私のことをベッドまで運んでくれていたのだ。元の小さな体では運べないから、大きな体に成長して。

 その頃ぐらいからヒトは私のことをよく心配するようになった。

「だいじょうぶ?」

「つかれてない?」

「ちゃんとごはんたべてる?」

 私を心配するその言葉の一つ一つが嬉しくもあり、鬱陶しくもあり、もどかしくもあった。

 でかくなってからあいつうざいんだけど。ユタカさんは両切りのタバコを吸いながらそう言った。タバコは健康に悪いだの、将来のことを考えろだの、本当に鬱陶しい。私のことは私が決めるんだから放っておけって話でしょ。吐き捨てるようなため息と共に煙を吐く。以前よりもタバコを吸うペースが上がっているようだった。

 あんたのとこはそういうのないの? 私は……あんまり。私もヒトからタバコは体に悪いと言われていたが、ユタカさんのところほど口うるさくはなかった。それでも罪悪感からタバコの本数を減らしていたが。

 あんたのヒトはいいわね、私もあんたが買ったヒトを買えば良かった。

 ユタカさんはぼやくようにそう言ったけれど、それは意味のない言葉ではないかな、と思った。思っただけで口には出さず、ただ曖昧に笑った。

 私のヒトは更に大きくなって、サイズ比でいえば私の方が子供に見えるぐらいだった。帰ったとき私がただいまと言うとヒトは「おかえり」と言い、「きょうもおしごとがんばったね」と私の頭を優しく撫でる。その手の感触が心地よくて、私はうっとりとしてしまう。

「つかれてるの?」

 うん。でも、仕事だから。

「しごとでも、つかれたらやすんでいいんだよ」

 そうなのかな。

「そうだよ。ほら、こっちにきて」

 促されるまま私は横になって、ヒトに膝枕をされる。膝はとても柔らかく、気持ちよく、ずぶずぶと体が沈み込んでしまうような感覚にとらわれ、私は目を開けていられなくなる。

「いいこ、いいこ」

 ヒトが私の頭を優しく撫でる。私はもう抗いようもなく、為す術もなく、されるがままに、心地よくなっていく。

 これは良いことなのかな。うわごとのようにそう呟くけど、ヒトは何も答えてはくれない。良くないことのような気がするの。このままじゃ、良くないような。

 その言葉も、意識も、全部沈んでしまい、気がつけば次の日の朝だった。

 気持ちがすっきりしていて、疲れもとれていた。ここ数年味わったことがないほどの清々しい目覚めだった。

 健やかな気持ちで私は会社に行き、働き、帰り、ヒトに膝枕をされ、沈むように眠った。目覚めると清々しさで満ちあふれていて、世界がきらきらと光って見えた。

 それなのに、私は、これが良くないことなのではないかと思えて仕方がない。

 ユタカさんはどうなのだろう。ユタカさんのヒトも同じようなことをしているのだろうか。それを聞きに行くとユタカさんは、捨てた、と答えた。

 口うるさく私の生活に干渉しようとしてくるから橋の下に捨てたわ。今頃他の誰かに拾われてるか、もしくは野垂れ死にしてるんじゃないの。

 私が言葉を失っているとユタカさんは煙を吐き、窓の外に目を向けた。

 合わなかったんだから仕方ないのよ。

 その言葉は、ユタカさん自身に言い聞かせているようにも見えた。

 家に帰るとヒトが出迎えて、いつものように私に膝枕をしようとする。今日はいいわ、と言いながらそれを拒むけれど、ヒトは優しい力強さで私を膝枕してしまう。

「いいこ、いいこ」

 ああ、これは良くないことだわ。沈んでいく感覚にとらわれながら私はそう繰り返す。良くないことのような気がするの。ヒトは何も答えず、優しく子守歌を歌ってくれる。

 やっぱり、ダメ。

 私はそう叫んで家を飛び出した。もう日が暮れて、誰も通らない道を走っていく。走りながら私が何処に向かっているのか気づいた。橋だ。ユタカさんがヒトを捨てたという、橋の下。

 誰もいなかった。橋の下はただがらんとした空間があるだけで、誰も、何も、ない。

 私は携帯電話でユタカさんに電話をした。四回目のコールでユタカさんが電話に出る。あの、橋の下に来たんですけど、誰もいないんです。それで私が言いたいことがわかったのか、ユタカさんは言いづらそうにしていたけど、やがて、あの後連れて帰ったの、と言った。

 捨てようとしたけど、捨てられるものじゃなかったのよ。

 諦めたようなユタカさんの言葉に、合わなくてもですか? と訊いた。合わなくても仕方ないのよ、とユタカさんは言った。

 私は電話を切り、家に帰った。ヒトは私が出て行ったときの姿勢のままだった。私のことに気づくと両手を広げ、私を迎え入れる。そこに重力があるかのように私の体が傾いていき、ヒトに向かって倒れ込んだ。私の心と体が溶けるようにずぶずぶと沈んでいく。

「いいこ、いいこ」

 柔らかい手が私の体を撫でていく。その心地よさに抗えず、私は目を閉じる。暗闇の中、心地よい感触が私を包んでいく。海を漂うように、私の体が揺り動かされる。

 本当に良いのかしら。

 そう、呟いたはずの私の言葉は形にならず、さざ波の中に消えていく。遠くから、もしくは耳の傍で、子守歌が聞こえる。それは遠い昔、母に歌ってもらったものだった。気がつけば私は涙を流していた。泣いて、泣いて、泣き疲れて、眠りについた。

 涙と共に体の中にあったしこりも流れ出ていったようで、私は自由になる。眠りの中、私は心地よさだけを感じて暗闇を揺れながら沈んでいく。沈んだ先に何があるのかはわからなかった。ただとても心地よかった。その心地よさだけで世界ができていることを、私は知っていた。

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