BOX
坂入
生きていく
妹は生まれたときから難病を患っていた。病に苦しめられる姿をずっと傍で見続けてきたからなのか、妹が最期まで苦しみ続けて死んだときも悲しいという気持ちはなく、これでもう妹は苦しまずに済むのだなという安堵だけがあった。
母も同じ気持ちだったのか私達は涙の一つも流さず粛々と葬儀を執り行い、二人並んでぼんやりと空を眺め、妹が焼かれて骨と煙になるのを見送った。
母は病弱な妹のことをいつも心配していた。起きている間はずっと妹のことを考えては不安に苛まれ、眠っているときはよくうなされていた。だから妹が死んだ後の母は心配することも、不安になることも、うなされることもなくなった。その代わり人生の全てを失ってしまったかのように無気力になり、ただぼんやりと一日を過ごすことが多くなった。
母がそんな状態だったので妹の遺品の整理は私がやることになった。と言っても人生のほとんどを病院で過ごしてきた妹の私物は驚くほど少なく、妹の人生とはなんだったのか、と無責任な寂しさを覚える。
私がなるべく何も考えないように遺品を整理していると、大きな保存用のガラス瓶が出てきた。それは私も初めて見るもので、中には白い粉が入っていた。私はガラス瓶の蓋を開け、中の粉を指ですくい、一舐めする。それは小麦粉だった。
「小麦粉ってあの料理で使う小麦粉?」
居酒屋で彼氏に小麦粉の入ったガラス瓶のことを話すと、もう酔いが回っていたのか興味津々といった様子で訊いてきた。
「妹さんって料理してたの?」
「ずっと入院してたんだから料理なんてしたことなかったはずよ」
「じゃあ、なんで小麦粉なんて持ってたんだよ?」
「そんなのこっちが知りたいわ」
そう言ってグラスの梅酒を一気に飲み干し、店員に追加の酒をオーダーする。
「まあ、ただの小麦粉なら犯罪でもないんだから別にいいんじゃないか。妹さんの葬式で疲れてるんだから余計なことは考えずゆっくりしなよ」
「……それもそうね」
「そうだ、疲れてるんじゃないかと思って今日はこれを持ってきたんだ。これ、お前にやるよ」
彼氏は横に置いてあった荷物からポリタンクを取り出し、私に押しつける。透明な液体が満杯に詰まったポリタンクはずしりと重く、私はそれを両手で抱えるように持った。
「……なにこれ?」
「水だよ」
私が「水?」と聞き返すと彼氏は「水」と返す。
「霊山で汲んだ霊験あらたかな霊水なんだ。この水を飲んだら末期ガンが治ったって話もあるんだぜ。だからお前もこの水を飲んで元気出せよ」
「ああ、うん、そう。……ありがとう、ね」
「いいよ、気にするな。お前が元気になってくれればそれでいいよ」
そう言って彼氏は少し照れたように笑った。
彼氏は少しずれたところはあるけれど、私のことを心配してくれる善い人なのだ。
それからもう少し酒を飲んでから居酒屋を出た。駅で彼氏と別れ、苦労して霊験あらたかな水が満杯に入ったポリタンクを家に持って帰る。次の日彼氏の家族から連絡が来て、彼氏が交通事故で亡くなったことを知らされた。
「…………」
彼氏の葬式から帰ったあと、私は着替えもせずベットに倒れ込んだ。悲しいという気持ちはなく、ただ、疲れていた。すごく、疲れていた。
妹のときも、彼氏のときも、悲しい気持ちにはならなかった。私は親しい人が亡くなって悲しいと思えるほど世界を信じていなかった。
世界は私の期待に応えてなどくれない。私を幸せにもしてくれない。どれだけ願っても妹を苦しみから救ってなどくれなかった。
だからもう、諦めて、受け入れてしまったのだ。世界が私の期待を裏切ることに。こうあって欲しいという世界になってくれないことに。
私は、安っぽいドラマのように妹の病気が治って、彼氏と幸せな結婚をする世界が欲しかった。でも世界は、そういう形をしていなかった。どういう形なのかはわからない。ただ、私が思い描く理想とはかけ離れた形をしていることは間違いない。
だから母が首を吊って自殺したときも、ショックだったけど意外ではなく、悲しくもなかった。
昼も夜もなく働き続け、女手一つで私と妹を育ててくれた母。母は自分の人生を私と妹に捧げたようなものだった。だから妹が死んだとき、母の心も一緒に死んでしまったのかもしれない。
先ず心が死んで、体が後を追った。母の死は、そういうふうに思えた。
母の葬儀を終えた頃には私の心は何も感じなくなっていた。思えば幼い頃に父を亡くしてから、ただ失うだけの人生だった。病弱な妹の世話に尽きっきりで友達はできなかった。母は忙しくしていたから子供の頃の私には妹しかいなかった。妹だけが私の世界だった。けれどその妹は死に、初めてできた彼氏も死に、母も死んだ。
近しい人をみんな失った私の人生にはあと何が残っているのだろうか。そんなことを考えながら母の遺品を整理していると、大きな保存用のガラス瓶が出てきた。
妹のガラス瓶のように中には白い粉が入っていたので私は蓋を開け、中の粉を指ですくい、一舐めする。妹のとは違いそれは小麦粉ではなかった。イースト菌を乾燥させたもの、ドライイーストだ。
私は妹の遺品であるガラス瓶と彼氏の遺品となったポリタンクを持ってくると母のガラス瓶と合わせて三つ並べた。
妹の小麦粉、彼氏の水、母のドライイースト。
これは、パンだ。パンの材料だ。
私はエプロンを身につけると、パンを作り始めた。
小麦粉と水とドライイーストを混ぜ合わせ、生地を練る。台所にあった塩と砂糖、バターも入れ、一心不乱に生地を捏ね続けた。
妹の遺した小麦粉が、彼氏の遺した水が、母の遺したドライイーストが、私の手の中で一つになっていく。一つの新しい世界を創り出すように、私は優しく、丁寧に、祈るような手つきで生地を捏ねた。
生地の形をまとめると発酵させるためしばらく放置する。やることがなかったので何処かで聴いた歌を口ずさみ、時間が流れるままに過ごした。
そうして出来上がった生地をオーブンで焼く。オープンの中でパンが膨らみ、焼き目がついていく様を身じろぎもせず見ていると、一つの大きなパンが焼き上がった。
私は早速焼きたてのパンを一口かじる。素朴な味がした。私が思っていた通りの味だった。私は無心でパンを食べたが、半分も食べないうちにお腹がいっぱいになってしまった。
遺品の整理は途中で、台所の後片付けもしていなかったが、お腹がいっぱいになった私は何もかもが面倒になってソファで横になった。うつらうつらしているうちに眠ってしまい、気がつけば次の日の朝になっていた。
私は起き上がり、机の上に出しっ放しになっていた食べかけのパンを見た。するとそこには一つの大きなパンがあるだけで、私の食べかけのパンは何処にもない。不思議に思いながらパンを手に取り私がかじったあとを探したけれど見つからず、まるで焼きたての新品のように綺麗な形をしていた。
昨日、パンを食べたと思ったのは記憶違いだったか、はたまた夢か、不思議ではあったけれどお腹が空いたのでとりあえずそのパンを食べることにした。前と同じく半分も食べないうちにお腹がいっぱいになった。食べ終わると眠気が来てうつらうつらとしているうちに気がつくと机に突っ伏して眠っていた。目を覚まして顔を上げると、新品のように綺麗な形をしている一つの大きなパンがあった。
「…………」
私はパンを二つに割るとそれぞれを少し離れた場所に置いた。それからそれぞれのパンを一口ずつ食べ、ソファで眠った。目が覚めると、新品のように綺麗な形をした大きなパンが二つある。
総毛立った。
私は急にそのパンが恐ろしいもののように思えて、そのパンから逃げるように取る物も取り敢えず玄関に走りそのまま外に出ようとしたが、ドアが開かない。ドアノブをガチャガチャと捻り、押しても引いてもびくともしなかった。鍵はかかっていない。念のため内鍵の開け閉めを繰り返したが、やはり開かない。どうやっても、ドアが開かない。
苛立ちをぶつけるようにドアを強く叩く。大きな音がして、叩いた手が痛かった。それだけだ。ドアは開かない。
そこで、ふと、私は、ドアを開けて何処に行くつもりなのだろうと思った。ここから出て、何処に行くのか。
「…………」
私はすっと冷静になった。落ち着いた心で振り返り、机の上のパンを見る。
ここには誰もいない。私しかいない。
父も、妹も、彼氏も、母も、近しい人はみんないなくなった。私は全てを失った。だからもう、私は何も失うことはない。
私は玄関の鍵を閉め、チェーンをかけた。それからベランダに出るとスマホを取り出す。職場からメールが何通か来ていたがそれに目を通さず、投げ捨てた。部屋に戻るとベランダの鍵をかけ、カーテンを閉める。
私は椅子に座り、パンを一口かじった。目を閉じて、開ける。元通りになったパンがそこにある。
大切な人達はもういない。けれど目を閉じれば故人の思い出がまぶたの裏に浮かんでくる。目を開ければ目の前にパンがある。私の世界に必要な全てがここにあった。
パンを手に取り、一口かじる。
私はこれから、パンだけを食べて生きていく。
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