六朝伍夜:湯煙爆発事件~1~

「疲れがとれますね……」

「……ぶく……」


 気の抜けたようなのんびりとした口調で呟く吟遊詩人は金色の髪を頭の上で結い、肩まで湯に浸かっている。隣では暁色の髪の少女が鼻から下まで湯に浸かり、相槌代わりに泡音を立てていた。


 二人が居るのは、エスタまでの道程で立ち寄る事になった小さな町。現在、その町が唯一誇る温泉に入浴中だ。


 何故アーブとレーメが同時に入浴しているのかと言うと……。


「……。ギン」


 人付き合いに不器用な少女は、口を湯から出して呟いた。

 二人は……正確にはティオを含めた三人はノストから旅を共にしているが、レーメは未だにアーブをギンと呼んでいる。


「はい? どうしましたか?」

「何か、恥ずかしい……」


 レーメはそう言って再び口元まで湯に浸かる。


「あはは……。私もまさか、男性と思われているとは……思いもしませんでした」


 レーメがさり気なく隣へ目を向けると、アーブの慎ましい胸元が目に映った。

 ティオに貧相と言われていることを根に持っている少女は多少安堵する。同時に、今後の自分の成長について悩ましさを感じるのだった。


 レーメとティオの二人……特にティオは、アーブを男性だと思っていた。

 しかしアーブは女性、彼女だ。


 アーブは中性的な顔立ちだ。全体的に整った風貌だが、飾り気が無い。身体つきは華奢な体形で、とても豊満とは言い難い。

 声質は高くもなく、女性とも男性とも決めかねる容貌をしている。


 ましてや、女性の一人旅など想像もしていなかった二人は、旅の吟遊詩人のことを男性だと思い込んでいた。


 唯一決め手になると言える要素は、彼女がたまに見せる仕草と性格だろう。

 アーブは頼りがいがあるわけではないが、面倒見が良い。道中では直接指示を与えないまでも、物腰柔らかに二人に助言を与えている。

 第三者から見た彼らの中でのアーブの立ち位置は、母や姉と名乗っても不自然さを感じさせないものだ。


 なお、アーブの性別が明らかになったことをきっかけに二人は年齢についても問いかけた。口元に人差し指を当てて「秘密です」と答えた彼女の年齢は不詳のままだ。


「そう言う意味じゃなくて……」

「……はい?」


 ぶくぶくと泡音を立てながら何か言いかけたレーメは途中で口を閉ざす。恥ずかしさの理由を説明することですら、気恥ずかしさを感じるのだった。


 アーブの口ぶりからは、レーメが恥ずかしさを感じている理由は「今まで男性だと思われていたから」だと感じているように伺える。


 しかし、レーメが考えている事は別であった。


 レーメは誰かと一緒に入浴した経験がない。今回が始めての事で、例え同性でも恥ずかしさを感じていたのだ。

 若干何でもない素振りを見せているが、少し動揺している。何を話せば良いのか、どのタイミングでこの場から脱出すれば良いのか。どうすればいいのかわからず、思わず口元まで温泉に浸かって居る。


 そんなレーメの様子に気づくことなく、アーブは堂々した態度でのんびりと体を伸ばしていた。


 今温泉に姿の見えないティオは、待ち惚け状態だ。

 彼女たちが入浴中の温泉は宿に設けられたものだが、一つしかない。代わりに男女毎に入浴時間が決められている。今は女性の入浴時間だ。


「温泉……初めて」


 少し赤く火照り始めた顔を少しだけ水面上に出してレーメは呟いた。


「気に入りましたか? レーメさん?」


「うん」とは言わなかったが、代わりに「じゃばっ」と水音をたて頷いた。

 嬉しくてはしゃいでいるのだと思ったのかアーブは彼女の様子を見て微笑んだ。かと思うと、すぐに眉根を寄せて呟いた。


「レーメさん、どうしても私の名前を覚えてもらえないものでしょうか……」

「……」

「アーブ、と……呼んでもらえませんか?」


 物悲しそうな声色のアーブに対し、レーメは「本当は覚えている」と言えないでいた。

 苦笑しているアーブを見ていると可哀想な気持ちになるが、今更ちゃんと名前で呼ぶことが恥ずかしく、ついには名前で呼ぶ機会を失っていたのだ。


「ぶく……ぶーぶっ……」


 試しに水中で呟いてみよう、そうすればきっとごまかせる上に恥ずかしくない。そう考えたレーメがぶくぶくと音を立てて呟いた。


「……!はい!」


 その様子を見たアーブは嬉しそうに顔を綻ばせた。レーメが何を言ったのか理解したのだ。


「アーブと言うと……ウォルシャカ国の言葉で水に関連する名前ですね」

「え?」


 突然、二人のやり取りの外側から低い声が発せられた。

 レーメとアーブは自分たち以外に人が居た事に気づかなかったため、驚いて周囲を見回す。


「あれ? どうしたんですか?」


 そうして二人が視線を留めた先に居たのは、爽やかな笑顔が印象深く残る――


「あーーーーーっ!!!!」


――空色の髪の青年だった。


「ぎゃーーーーーーーーーーーー!!!!」


 途轍もない轟音が鳴り響くと、それを切っ掛けにしたように痛々しい悲鳴と振動が宿全体に轟き渡る。

 建物は古めかしく、年季の入った天井が揺れによってパラパラと塵を地面に振り落とした。


「な? なんだ??」


 宿のロビーで女将の持って来た飲み物を飲みながら二人が戻ってくるのを待っていたティオは、突然の振動に対して動揺した。


「じ、地震?!」


 それまで暇だったのか彼の話相手をしていた中年の女将は、思い出したような仕草で温泉の方向を振り向いた。


「あー……!」


 額に手を当てて天を仰ぐその姿からは、「あっちゃー」と言う台詞が聞こえてきそうだ。


「いっけない、忘れてたわあ」


 呑気な口調からは女将が普段からゆったりとしているのが伺う事ができる。

 ティオには、彼女が何を忘れていたのか知りもせず予想も付かない。答えを求めるように椅子から立ち上がり、女将の視線を辿る。


「忘れてたって、何が?」

「実は、温泉に先客が居てねえ」


 ティオは目を丸くして、温泉から女将へと視線を元に戻した。


「せ、先客?!」


 彼女は頬に右手を当てて喋りながら温泉へと歩き出した。

 先客がいるだけなら問題はないだろう。だが女将は何かを問題視しているようだった。


「なんでも国のお偉いさんみたいなんだけどね、長旅で疲れていたようだったから温泉に入ってもらったのよ」

「それと忘れてたことって、何か関係あんのか?」

「それがね、その人男性なのよねえ」

「は?」


 思わずティオはあんぐりと口を開けて足を止めた。女将は彼に構うことなく温泉へと向かう。

 ティオが唖然とした様子で見送るその方向からは、温泉とは異なる焦げ臭い香りが漂って来ていた。

 結果的に何が起こったかは、推して知るべしだ。

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