壱朝零夜:暁の娘~2~

「よいしょ」


 ようやく日も昇り始めたので、私は出発しようと荷物を持ち上げる。

 私自身も殆ど私物を持とうとしないため、この部屋には何もない。荷物を持って部屋の外からそこを見回すととても寂しい雰囲気がしていた。

 まるで誰にも必要とされていない自分に良く似たこの部屋は、今後誰かに使われるだろうか?

 必要な物しか入れていない荷物を背負い、私は部屋を後にした。

 きっと町の人だけでなく、孤児院のみんなも誰も私を送り出してはくれないだろう。私は階段を降りながらそう考えていた。階段を降りればもう出口は目の前だ。

 気づいたら私は何故か涙を流しながら歩いていた。

 誰か起きていたらきっと見られてしまうほど明らかに。でもきっと、誰もいない……。それなら、このまま泣いて歩いていこう。

 私は階段の最後の段を降りた。


「お前何泣いてんだ?」


 その時、思いもよらない声がした。

 街へと続く扉の前で、一人の少年が仁王立ちしている。

 声がするまで全く気がつかなかった私は衝撃を受けた。泣いているところを見られてしまったのだ。

 私は息を飲んだ後、小さく深呼吸をして落ち着きを取り戻そうとした。

 少年はボサッとした灰色の髪の毛をいじっている。どのくらいいじり続けていたのか、髪の毛はいつもより癖が強く跳ねていた。

 つり上がっている目は彼の性格そのものを表現しているようだ。

 彼はやんちゃでいたずら好き、暴れていないと気が済まないタイプだ。

 私に次ぐ問題児で、悪ガキみたいな彼の事を私は勝手に『ワル』と呼んでいた。

 黄昏の彼が居なくなってから、私が当番の時に起こしに来るのはこのワルだけだった。


「お前な!」


 ワルは私を思いっきり人差し指で指さした。

 いつもよりいらだった口調と態度から、何故かわからないが怒っているらしいと言う事がわかる。

 私は涙で湿った顔を袖で拭いた。何でもなかったように平然と取り繕ってみたつもりだったが、どう見えただろう。


「朝、早いね。ワル」


 すぐさま話をそらしてみる。しかし、さっきよりも機嫌を損ねたらしい。ワルの声が余計に荒々しくなった。


「いっつもオレの名前はワルじゃねえって言ってんだろ!!」


 確かにそうだ。私だけが勝手にそう呼んでいるだけだから。


「ワルの名前覚えにくい……」

「ど・こ・が・だ!!!」


 ワルはドシドシと音が本当に聞こえそうなくらい大袈裟に歩く。

 彼は階段と扉のちょうど中間の位置にたどり着くと、その歩みを止めてもう一度私を指さす。

 私は階段から降りてから一歩も歩いていない。


「お前アタマ悪いだろ?!」


 この会話、実は数多くこなしている。なので当然この後に続く言葉を私は知っている。

 そういえば、相手が一方的だとは言え黄昏の彼以外にこんなに話す相手は、このワルくらいだった。

 この後、彼はこう言うだろう。


『オレの名前はネクトだ!』


 一応、私は物覚えは良いほうだと思っている。固有名詞に対しては例外だけども、同じ事を何度も繰り返してきたワルがそう言う事は間違いない。


「オレの名前はネクトだって毎回言っているだろ!」


 予想は見事に的中。しかし、次の言葉は意外なものだった。


「だいたいお前はなんだよ!」


 ワルは再び私を指さして物凄い剣幕でまくしたてている。


「なんも挨拶しないで勝手に出てっちまうつもりだったのか?!」

「……挨拶したって……」


 私はワルの指さしから逃れながら答える。私がみんなに挨拶に行ったところで、追い返されてしまう事は目に見えていた。

 彼はと言うとムキになったのか、逃げてせわしない動きの私を指で追い続けている。


「お前はいつもそうやって逃げようとする!」


 これは指さしから逃げてる事に対するものではない。だからこそ、その言葉は私の心を抉るように感じられた。


「これからも人から逃げ続けるつもりなのか?!」


 目頭が熱くなった。そんなつもりなんてない。逃げてるつもりなんかなかった。


「そんなつもり……全然ない!」


 私はワルに近寄り、掴んだ彼の人差し指を彼自身に向けさせようとした。ワルも向けさせるものかと、必死に抵抗をしている。

 そうしているうちに、いつの間にか勝負事のような展開になっていた。

 私もワルも意地を張って勝ちを譲ろうとしない。その間、二人共黙々と集中し続けている。

 これではまるで、負けず嫌いな子供同士がむきになって、指相撲をしているようだ。私はこれから成人の儀に向かおうとしているのに、なんて大人気ない事をしているのだろう。

 次第に、私の荷物を持つ左手が汗で湿ってきた。汗ばんで来た手から荷物が少しずつ落ちそうになり、私は思わず荷物に気をそらしてしまう。

 ワルはその隙に私の指から逃れ、自由を得た指で再び私を指さした。


「お前さ、本当はオレの名前覚えてんだろ?」


 図星だった。

 でも私は返事をしない。返事を返そうにも、何と言えば良いかわからない。

 ワルは答えずにいる私に向かって、続けざまに言い放った。


「覚えてるのに名前で呼ばないのは、恐いからなんだろ?」


 何故それが判ったのだろう。名前で呼ばないのは覚えていないからではなく、恐かったからだということを。

 繰り返される毎日のやりとりで、ワルの名前はネクトだと記憶していた。

 でも私は、ずっとそれを言葉に出来ないでいた。

 変わりたいと思っていたのに、そうする事で変化のない毎日が変わってしまう事に恐れていたから。


『お前なんかに名前で呼ばれたくない』


 そう言われたら、と思うと誰の名も呼ぶことが出来なかったし、次第に人の名前を覚える事が出来なくなっていた。

 ただ、毎日繰り返し紡ぎ出される『ネクト』の名前だけは私の記憶に残り続けていた。けれども、それを言葉にする事はなく、それは死ぬまで一生続くと思っていた。


「覚えてるなら最後の日くらい名前で呼べよな!」


 その言葉を聞いて、私は何故出てきたのかわからない涙を、ほんの僅かに流した。


「なっ、泣くなよな!」


 私の様子を見て、ネクトはうろたえているようだった。

 けれどもそんな様子は潤んだ目では窺う事は出来ず、ただ声で感じ取るだけ。

 最後の最後でこんな事を言われるとは思ってもいなかった。

 ただ、誰もが眠る明け方に、私は一人静かにここを旅立つだけだと思っていたのに。


「泣くなよ!」


 今度はさっきよりも強く、繰り返されるネクトの言葉が余計に私の涙を誘う。


「……ネクトのバカ!」


 違う。バカなのは私だ。

 誰もが嫌がると思って名前すら呼べなかった。

 今より余計に嫌われるのが恐くて、近寄る事が出来なかった。


「それはレーメもだろ!!」


 そうだ。

 私も、そしてきっとネクトもバカだ。


「バカ……!」


 最後の最後で名前を呼ぶ事になるなんて、思ってもいなかった。

 最後の最後で名前を呼ばれるなんて、考えもしなかった。

 私は止めどなく流れる涙を袖で拭った。


「ネクトなんか、ご飯作れなくてすぐ私に押し付けるし、目つき悪いし、頭悪いじゃない!だからネクトのがバカ!」


 それを聞いたネクトはムキになって反論する。


「なっ!目つきは頭の良さにカンケーないだろ?!朝起こしてやってたのに随分な言い方だな!レーメなんかオレが起こさないと起きもしないだろ!少しはありがたく思えよ!」


 これまでの二人の日常の堕落ぶりを披露して言い争っているのに、私もネクトも何故か笑っている。


「……」


 ふと、会話が収まり、私とネクトの目があった。ネクトは何も言わずに顎で扉を指し示し、右手を挙げる。私も無言で、ほんの少しぎこちなく頷いた。


『パーン!』


 手を叩きつける音がロビーにこだまする。私も右手を挙げて、ネクトの手と挨拶を交わしたからだ。

 私はそのまま歩み始める。ネクトはすれ違い際に私の行方を追うように振り向いたようだった。


「もうご飯作ってあげない!ネクトの当番になったら自分で作って!」


 私はそう言って振り向かずに一気にロビーを走り抜けた。

 そして、扉の前にたどり着き、取っ手に手をかける。

 私は目を閉じた。

 ここを出れば私の新しい日常が始まる。何が起こるか全くわからない新しい日々。

 予想できない未来に対して突然困惑が生まれ、取っ手を持つ手が震えた。

 これまでのように≪暁≫の髪が原因で疎外されるかもしれない。


――けれども。


「バカレーメ!」


 私は名前を呼ばれて振り向いた。

 顔だけそっぽを向いたネクトが、そわそわしながら大声を出した。


「レ、レーメの飯、一番うまかったよ」

「だからとっとと行っちまえ!」


 意味がわからない。

 多分本人も混乱しているのだろう、何故か地団駄を踏んでいる。


「ぷっ」


 私は声に出して笑った。


「あはははは!」

「何だよ!見てんなよ!!とっとと行けってば!!!」


 真っ赤になりながら手で私を追いやる仕草をするネクトを見て、私は取っ手を今度こそ強く握りしめた。


(大丈夫……)


 そして思いっきり強く押した。


(恐くない!)


 扉はいとも簡単に開き、塞ぐものの無くなった私の前には、朝焼けに彩られた街が広がる。私は勇気を振り絞り、一歩足を踏み出した。

 目に映る風景は、いつもと同じ街なのに、気分と時間が違うだけで見え方が全く異なっている。今まで見たことの無かった朝焼けの彩りは、勇気を与えてくれるように感じた。ワクワクして、でも何故か切ない。

 覚悟を決めた私は荷物を握りしめた。後ろにいるネクトが気になったが振り返らない。その代わりに、見送りのお礼とお別れの挨拶をしよう。最後の最後に本当の気持ちを教えてくれた人の為に。

 私は右手を挙げて、でも振り向かずに言った。


「行ってきます!」


 そして私は走り出す。

 こうして、私にとって、幼い頃の疑問を明かし、大人になるための道を切り開く旅が始まった。

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